お金についての浅はかな話

ビットコインがらみでお金に関する本をいくつか読んでいるんだけど……どの本を読んでも、「ではお金とは何か、その本質とは何か」というのが必ず出てきて、そしてお金の哲学みたいな話がはじまる。

だけれどいろいろ読んで見て、基本的に、お金を哲学的に理解しよう、本質的に厳密に理解しようという議論って、全部だめだという感想に到った。特に、真剣にそれをやろうとした本当に善意の、学問的良心に満ちた、生真面目な学者先生の議論は、その熱意は痛いほどわかるので大変言いにくいんだけど、まったくダメ。いやむしろ哲学的に、理念的に、精緻に、厳密に掘り下げて原理的に考えようというその生真面目なアプローチそのものが、お金についての考え方をゆがめてしまい、スーパー合理性を仮定する経済学議論みたいな現実離れした話に陥ってしまうんじゃないか。ぼくはそう思うのだ。

お金の議論って、そんなむずかしいもんじゃない。人がなぜ実用的な価値のまったくない紙切れなどのお金を受け取るかというと、ほかの人もそれを価値あるものと見なして受け取ってくれるからだ、という話になる。それがお金というものの本質(の一つ)だ。これはまったくその通り。

でもそれは、いまだけの話じゃない。将来、次に自分が使うときにも人がそれを受け取ってくれると思わないと、その人はお金を受け取ってくれないだろう。これもその通り。

が、ここらへんから厳密な話はだんだん怪しくなってくるのだ。その一例はたとえばこんな感じ:

でもその将来の人が受け取るのは、もっと将来の人がお金を受け取ってくれると思うからだよね?
  →はい、これはその通り。

これってどんどん続いていきますよね? 
  → うん、まあ、そうだねえ。

するとつまり、果てしない先までお金が使えるという信用がないとお金って成立しませんよね? いまから56億七千万年後に、弥勒菩薩さんが降臨したときにもお金が受け取ってもらえると思わないと、56億6999年の人はお金を使えず、すると56億6998年後の人もお金を使えず、ずーっとそれが続いて、今日の人もお金を使えず、ということになりますよね?
  → えーっと、えーっと、それって……

でも理屈はそうですよね? するとお金とはその永遠の信用に基づいたものであり、その永遠先の信用が毀損された瞬間にそれがすべて現在にまで波及してだれもお金を受け取らなくなりハイパーインフレが生じ貨幣が崩壊し資本主義が潰れ世界はカオスになり人類は滅亡しハルマゲドンがやってきて…… あるいはその無限先まで見通せないが故にあらゆるお金の取引は決死の闇への跳躍でありそれが停まった瞬間に資本主義は潰れ世界は(以下同文)
  → おいおいおいおい、ちょっと待て待て待て待て。

いや、まじだよ。お金の哲学めいた話を扱った本って、すぐにハイパーインフレの心配ばかりはじめて、資本主義の崩壊だのいうご大層な話になるんだ。

そしてもちろん、無限の彼方の信頼が基盤になっているというのはつまり超越的な何かってことで、つまりはお金というものが持つ神学的な基盤があって神がいないと経済も市場もあり得ずとか、本当に腐った話も出てくる。

さて、これは本当だろうか、とぼくなんかは思うわけだ。というのも、この話を聞いて思い出す、数学だか論理学だかのパラドックスがある。死刑囚のパラドックスとかいうんだっけな? 聞いたことがあると思うけれど、こんな具合だ。

あるところに死刑囚がいた。で、王様はその死刑囚に「来週お前を死刑にするが、お前はそれが何曜日になるか事前にはわからない」と言う。(土日は休みとするね)

さてそれを聞いて死刑囚は考えた。

もし王様が木曜まで死刑を執行しなければ、金曜に死刑になるのがその木曜の時点でオレにわかってしまう。事前には曜日がわからないはずだから、金曜の死刑はない。

じゃあ木曜の死刑は? 金曜があり得なくて、水曜までに死刑が執行されなければ、木曜しかないから事前にわかっちゃうな。すると木曜でもない。

同じ理屈を続けると、水曜でもない、火曜でもない。月曜でもない。すると……死刑は執行されないということか!

そう思って死刑囚は大喜びしておりました。

すると木曜の朝に死刑執行人がやってきて「じゃこれからお前の首をちょん切るので」という。

死刑囚は「いや、そんなことはありえない」と言って、自分の理屈を説明した。が、執行人は「つまりおまえ、今日死刑になることは事前にわからなかったんだよな。予告通りだ」と言って刑場にそいつをひったてていきましたとさ。おしまい。


人が無限遠の将来の状況まで考えて、それが現在のお金の有用性を規定してしまう、ハイパーインフレだ資本主義崩壊だ、という発想は、この死刑囚の発想のまちがいに通じるものがある。

というのも……人は無限遠のことなんか心配しないからだ。だって、人間の寿命は有限だ。子孫のことを考えたって、自分の千年後の子孫を心配するやつはいない。だから、人間はそんな無限に先のことは考えないし、考える必要もない。いろんな財産が法人化しているのは、この意味でちょっと不安なことではある。それでも限界はあるだろう。

そしてお金で取引が行われるためには、無限遠の保証なんかいらない。来週のどこかで取引は行われるだろう。それだけわかればいいのだ。はるか先のリスクは、その分ものすごく割り引かれる。それが厳密にいつ行われるかわからなくても、それどころかいつか取引が行われなくなる期限があると確実にわかっていても――別にそれで取引が行われなくなるわけではない。倒産ほぼ確実な会社の株でも、すぐに株価がゼロになるわけではない。お金にまつわる信用だってそうだ。いまお金で取引を行うための信用は、そんな無限の先まで考える必要はない。

唯一必要なのは、人間はこの先存在しつつける限り、何かを媒介に価値の交換を行う、という確信だ。いま手元にあるこの千円札は、ひょっとしたら30年後に使えなくなるかもしれないけれど、でもその頃にだって必ずなんらかの形で価値の媒介があり、別のものでそれが担保されるようになっている。そしてその移行期には、千円札から次の何か――ビットコインでもツナ缶でもいいよ――に価値媒介の手段がハンドオーバーされるはず。それさえわかれば、別にはるか彼方の超越的な信用なんか想定しなくていい。

でも、お金の本質とか哲学とか、精緻な分析とか言っている論者のほとんどは、この無限遠までの話をこちゃこちゃ考える、ということだったりする。だって……精緻ってそういう意味だもんね。そして、千円札とかビットコインとか、具体的な「このお金」を考えない。「お金」という抽象的なものがあって、それが無限彼方にまで使われる、という抽象化を行ってしまう。「このお金」が使われるかどうか、というのと、お金一般が使われなくなるかどうか、というのは話がまったくちがう。でも抽象化したらそれが見えなくなる。「このお金」の崩壊が、あらゆるお金の崩壊だ、という話にすりかわってしまう。まさにそれこそが、お金の本質から話が乖離する原因になっていると思うのだ。特にそこで、数学的にモデル化したりするともうダメ。その瞬間に、「このお金」の具体性はなくなり、無限遠まで話が飛んでいくものを止める要因がまったくなくなる。

でも、『ヴァリス』の翻訳とかでもそうだけど、超越だの神学だの西洋経済社会における神の基盤だの、それに対して東洋的な多神教的社会/市場だのっていう抽象哲学的なヨタ話って、みんな本当に好きだよね。それが深遠で、えらいもので、意味不明であればあるほどみんなありがたがる。

たぶん信用に割引率を適用して(すると無限遠のリスクの価値はゼロだ)、そこに信用のオプション価値を導入したりして(すると無限遠でもある程度のプラスの価値は残るようにできるはず)、上で述べたような話を厳密にモデル化することはできると思う。が、それまでは、お金についての生真面目な本質論とか、くそ厳密な哲学的思索とかは、ピントはずれだしかえって有害だと思うのだ。特に、こういう論者って必ず、リフレ議論ですぐにハイパーインフレの危機がうだうだ、というとんちんかんな議論をして悦に入っている。やめてほしいんだよね〜。

雇用、利子、お金の一般理論 (講談社学術文庫)

雇用、利子、お金の一般理論 (講談社学術文庫)

やっぱいまでも、お金についての考察ではケインズがいちばんえらかったと思うわ。『一般理論』17章で、小麦をお金として使った場合の、小麦による小麦の利子率とか、住宅による小麦利子率とかを考えてなぜ黄金とかが世界的にお金として使われてきたのか、という議論とか、あんた明らかに半分悪のりの冗談でやってるだろうという感じだけれど、でも考察として実に鋭い。

というか、おそらく半分冗談で考えているからこそ、その鋭さって出ているんだと思う。生真面目な人ほど、厳密だの深い思索だの本質的な議論だの、といったものに惹かれやすいし、その落とし穴にはまりやすい。でも、お金については、深く考えないこと、とりあえずのいい加減さを信頼すること、本質を考えないことこそが、逆説的だけれどその本質をつかみやすいんじゃないかと思う。

お金の改革論 (講談社学術文庫)

お金の改革論 (講談社学術文庫)

そして、同じくケインズ『お金の改革論』で、各国ですさまじいハイパーインフレ下であってもお金は使われる、という指摘はとても重要。ハイパーインフレで即座に資本主義崩壊にはならない、ということね。それを無料で訳して公開しているオレってえらい、ということでみなさま同意していただければ幸甚です。

付記

超越的と超越論的ってちがうんだって。ご指摘ありがとう!! なおした。




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