ケインズ全集28巻「社会政治文学論集」

先日、ケインズの「芸術と国家」という文章を訳した。

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そのとき、これがケインズ全集に入っているかどうかいちいち確かめたりしなかったんだが、別のことを調べていたら、出ているのがわかった。

こいつのpp.342-77に出ている。ただし、使用されず未発表ということになっているんだけれど、実際にはぼくが見た論集には収録されている。これは第30巻の書誌一覧とかには出ているのかな?

本の概要

行きがけの駄賃で、この28巻をちょっとパラパラ見てみた。「論集」とあるけど、論集じゃないじゃん! 8割がお手紙なので、まともに読む必要はなく、簡単に流し読みできる。内容を簡単に紹介しておく。全体の構成は以下のとおり:

第1章 ケインズとキングズリー・マーティン

で、全体の半分を占めるのが、この第1章となるんだが……

まず読む人が知りたいのは、このキングズリー・マーティンってだれ、ということだと思う。それがねえ……全然書いていないんだ。どうも、『ニュー・ステイツマン』という雑誌の編集長かなんからしい。

またいろんなやりとりの背景についても全然説明がない。pp.16-20 あたりでこの二人が、1933年にロシアについてかなり意見の対立があって激しい応酬をしている。でも、二人がそこで何を念頭においているのかについての解説はまったくない。それが「人間の権利」「モスクワと棍棒」という論説をめぐるものだ、というだけ。その論説に何が書いてあったのかもまったく説明なし。

マーティンという人は、スターリン配下のソ連でのひどい蛮行についてかなり甘い見方をしていて「まあひどいけど、西側も人のこと言えた義理じゃないから」と言っていて、ケインズはそれに対してすごく怒っている。だけれど、もともとの話がわからないので、論点がまったく見えないのだ。

そして、pp.45-63 では、なんとあのスターリン=ウェルズ対談が話題になってますよ、お父さん!

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なんでも、この対談についてバーナード・ショーがコメントして、それを見てケインズが反論というか、別の視点でコメントしている。後にこれはパンフレットとなってまとめて刊行されたんだって。

https://theverbatimrecord.files.wordpress.com/2012/04/stalin-wells-talk.pdf

この部分のやりとりも、ぼくはこの対談をすでに読んで中身を知っていたから、「ああ、あの話ね」と思えるんだけれど、そうでない人はなんだかわからない。ちなみに、ケインズがそこに寄せたコメントが収録されているけれど、ウェルズがスターリンに提供するものを何ももっていない、と指摘する点では鋭く、またスターリンが蓄音機でプロパガンダをがなっている、という点もほぼ同意。でも、その蓄音機がかなり相手の話を聞いてそれに応えている点については無視。そしてもちろん、「自己批判」についてはわからないよねえ。

正直、その他の部分もそれぞれのやりとりの時事的な背景や、そこでこの二人が何の話をしているのかについての説明がもう少しないと、なかなかわからない。他のテーマ的な章立てに比べて、内容的にもあまりにさまざま。強いて言うなら国内外の時事的な政治問題、ではあるんだが。年代別に節にわけて、冒頭に年表くらいつけておいてもらえたらずっとよかったと思う。

第2章 ケインズと古代通貨

ここは文字通り、ケインズが古代通貨、ソロン時代のギリシャとか、バビロニアとか古代エジプトとかの通貨についてあれこれ研究をした結果を示したもの。内容的にはすでに否定された部分も多いとのことで、真面目に読む価値はない模様(それに読んでもすっげえ細かい話。ドラクマに対する旧ミナと新ミナのデノミがどうしたこうした。

第3章 ケインズと芸術

芸術関連の話。上で述べたような「芸術と国家」の話もここにある。絵画展のカタログの寄稿、アーツカウンシルの意義、読書クラブのパンフへの寄稿とそれに前後する手紙集など。まあまあおもしろい。

第4章 ヒューム

これは変な部分で、ヒュームについての話ではなくて、ヒューム『人間本性論』の販促が、アダム・スミスの手になるものだと思われていたものを、いろんな書誌学的な調査を元に、ヒュームの自作自演だと断じた論説の展開を描いたもの。ピエロ・スラッファといっしょにパンフとして出版されたものの再録。まとまったものとして出版されただけあって、きちんと読みがいがあるもの。

第5章 雑纂

各地へのいろんな投書。生体解剖批判論に対する糾弾の投書、またギャンブルの害悪は認めつつも、楽しいから金額に上限を設ける形で、しかも場外販売所はなしで許そうという話とか、ケンブリッジの女性学位の容認論をめぐって出てきたケンブリッジ大批判への反論とか。一番多いギャンブルの話は、日本の最近のカジノ議論でもすこーしくらいは参考になるかもしれないが、無理して読むほどのものじゃない。

感想

1:本そのもの

まず原著について。ちょっと編集者ども、ひどいんじゃないかと思う。邦訳では「論集」だけど、論集じゃない。全体に、まあ落ち穂拾いもいいところなんだが、おもしろい文章もあるし、もうちょっとやりようがあったのでは、という気はどうしてもする。第1章や第3章には、彼が記事や論説として発表した文もたくさん収録されていて、それをきちんと取り出してテーマを考えてまとめたら、もっとおもしろく読めるようになったと思う。それがいまは、完全に文通のダシにされてしまっているので、ひたすら散漫になっている。

そしてその散漫なお手紙集が、上で述べた通り、きちんと背景を説明しないことで、なおさら理解しづらくなっているのは、どうよ。全30巻の28巻目だから仕方ないのか、もうバンカー重油みたいなゴミしか残ってないのか、と好意的な見方もしようかと思ったけれど、その中でもちゃんとトランシェ切ってよいものを切り出すことはできたはず。きちんと論集にして、彼の時事的な政治論、芸術観を示す文だけを集め、クズ書簡集はまた別にする手もあったように思う。

 というわけで、無理して読む本ではない。が、もう少しなんとかできたはずだよなあ……

2:翻訳

直訳で、せいぜいB-くらいの成績しか挙げられない翻訳。わかんないところを数カ所直訳した、と訳者あとがきにあるけど、数カ所じゃすまないでしょう。

「それは実際、当紙と関わりある何かを持つことで、人を徹底的に恥ずかしい想いに放置するひどい文章です」(p.213) 。なんですの、これ。「まったく、この新聞に自分が多少なりとも関係していると思うだけで、どうしようもなく恥ずかしくなってしまうようなひどい文章です」くらいの話でしょ?

「ストレイチーのこれらの論文は、どちらかというと混乱しており、彼は多分その指を基礎的な原点に置かなかったのではないかと想います」 (p.174) put one's finger on... 、きちんと見極めるといった意味の慣用句だけれど、それがわかんなかったんですね。

カレッジをコレッジと書きたがったり、モスクワをモスコウと書きたがるのは趣味だからいいんだが、基本的なところが危ういのに、こういう趣味だけ全開にされても。


【1080p】もすかう

おかげで、「アダム・スミス」の誤植で「アダム・スムス」というのが出てきたとき、「これも何かのこだわりだろうか」と少し考え込んでしまったよ。

が、ケインズ全集の多くの翻訳は本当にできが悪いので、その中ではこれでも相対的にいいほう、なのかもしれない。それでもねえ。20年以上前に頼まれたそうだが、20年かけてこれですかい。

3:全集翻訳

しかし……これが出たのが2013年。2010年に『確率論』が出た時は少し話題になったような記憶があるが、その後は追加の巻が出ても全然聞こえてこなかったけれど、一応は続いているらしい。いったいどういうペースになっているかというと、次の通り:

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『ケインズ全集』全30巻邦訳刊行ペースの推移

こう、全般に日本の景気に比例する感じ、ですかねえ。ちゃんと失われた20年は5年に一冊がいいところ、という感じで、アベノミクスで少し復活?さすが、ケインズ政策の正しい応用たるリフレ政策の影響ですな。それとも世界的にケインズ評価が復活すると刊行ペースも上がるってか?

残りは9冊で、うち1冊(30巻) は索引だから、実質8冊か。しかも、編集委員みんな死んじゃってるじゃん。今後コロナで景気が落ち込むと、また刊行ペースが落ちて、するとヘタするとまたケインズ全集の失われた10年とかになるのは、望ましくない感じ。さて、どうなりますやら。ぼくに外注すれば一冊150万円で8冊まとめて5年以内には終わるけどねー。