サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
CES 2025
homepage3.nifty.com/~sirakawa
朝日文左衛門、尾張藩の御城代組同心、御畳奉行です。延宝2年(1674)に生まれ、享保3年(1718)、44歳にて没しました。この人が有名なのは、貞享元年(1684)より死の前年までの日記を残したからです。日記のタイトルは『鸚鵡籠中記』(おうむろうちゅうき)といいます。 文左衛門さん、畳奉行という職にありましたが、仕事をまじめにやっているとはみえません。 何かにつけて、飲み、遊び、そして日記をつけました。 自分や友人達の日々の生活の他、名古屋や江戸の刃傷、強盗、心中、浮気騒動などなど、当時の事件・風説が実にこまめにつけられています。 中には、藩主のご生母さまのご乱行についても細かく書かれ、これが元で長く尾張藩の極秘文書になっていました。 赤穂浪士の討ち入りがあった時代です。「葉隠」の成立もこのころです。武士道を貫いた武士もいた時代、文左衛門さんは泰平の元禄を謳歌したようです。 (テキ
元弘3年(1333)、備中国新見荘(現岡山県新見市)では、収穫のうち4割近くが年貢でした。 年貢は近くの「市庭」(毎月3回開かれる市場)で現金化されました。 またこの荘園には鉄を産する村(高瀬村)があり、その村の年貢は直接銭で納められました。 現金に替えられた年貢152.2貫のうち、諸経費を除いた分の127.6貫が京都の領主(東寺)に「割符(さいふ)」(為替手形)で送金されました。 鎌倉幕府最期の年の混乱期にも、為替で送金できたことには驚かされます。 このような仕事を請け負っていた代官の報酬は米などの現物支給でしたが、銭に換算すると全部で15貫ほどでした。 また、この年の暮れ12月19日に、国司のお使いご一行が来られました。 総勢83人(内62人は下人)、馬23匹の大部隊です。 もてなしのため、米6斗6升4合と、馬用の豆2斗3升は収穫物から準備し、その他は市庭で購入しました。 ・清
よく、「昔の1円は今の何円?」と聞かれます。 明治・大正・昭和の時代にもよりますし、何を基準にするかによって大きく変わります。 右の表は、わたしのホームページの「坊っちゃん」に書いている、明治38年ころと現在の物価を比較したものです。これを見ても、当時の1円が、現在の数千円だったり、数万円だったりします。 「1円銀貨」 明治3年から30年にかけて発行された1円銀貨。 当初は外国との貿易専用貨幣として発行されました。 明治11年よりは国内での流通も許されましたが、明治30年には通用停止となりました。 38.1mm 26.96g 品位900 何を基準にするかによって数字が大きく変わりますが、信頼できる統計数字が入手しやすく、また昔の人にも現代の人にも理解しやすいものの中から、次の二つを選んでみました。 ①大工さんの労賃 : 昔は安価だったものの代表。 官民格差は現在以上に顕著でした。
このころの貨幣単位は、 1タラントン=60ムナ 1ムナ=100ドラクマ 1ドラクマ=6オボロス でした。 また、人口は20〜30万人で、そのうち3分の1は奴隷、参政権のある成年男子は3.5〜4万人でした。 現在の日本の中くらいの都市と同じくらいです。 ● 賃 金 ペルシャの再来に備えてデロス同盟ができたのは紀元前478年です。 約400の同盟国からの年賦金は、1年に460タラントンでした(425年に1460タラントンに増額)。 この大金を、アテネはいつのまにか自分達で自由に使うようになりました。 お蔭でアテネ市民は潤いました。 神殿の建設にもこの資金を使いました。 神殿建設の労働者の日当は1ドラクマでした。 このころ、軽い労働では2分の1ドラクマ、通常の労働で1ドラクマ、危険な労働や重要な仕事だと2ドラクマくらいだったようです。 ■ブデリュクレオン:そいつ自身は遅くやっ
ヘロデ大王のコイン 表 : 不明 裏 : 豊穣角 ヘロデ大王(在位BC37-4)は、キリストが生誕したときのユダヤの王様です。 14-15mm 1.7g アゼス2世のコイン 表 : 鞭を持つ王の騎馬像 裏 : アテナ女神像(ゼウス?) サカ王朝のアゼス2世(在位BC35-AD10)の発行したものです。サカ王朝は、現在のパキスタンにあったスキタイ人の国です。 アゼス2世は、キリストを探していた東方三博士のうちの一人との伝説があります。 7.4g 24.3mm マタイによる福音書 第2章 イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った。 「ユダヤ人の王としてお生まれになったかたは、どこにおられますか。 わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。 ヘロデ王はこのことを聞いて不安を
【 古代エジプト 】 金と銀が発見された当初、金より銀の方が高価でした。 金は自然金(砂金)とし産出するのに対して、自然銀は圧倒的に少なく、紀元前30世紀の古代エジプトでは、銀は金の2.5倍の価値がありました。 そのため、金に銀メッキをすることすらあったそうです。 (紀元前14世紀のヒッタイトでは、鉄が金の5倍もしたらしい!) 【 アケメネス朝ペルシャ 】 ヨーロッパで最初にコインを発行したのは小アジアにあったリディアです。 そのリディアを滅ぼしたアケメネス朝ペルシャでは、 1ダレイオス金貨(8.4g) = 20シグロイ銀貨(5.6g) の貨幣制度を整えました。 本格的な金・銀両本位制度です。 金:銀=1:13.3 に相当し、この当時のギリシャ・ペルシャ・エジプト・メソポタミア世界の標準的な価値です。 【 アウグスツスの貨幣制度 】 ローマ帝国の初代皇帝のアウグスツスは、
1両小判はどれくらいの価値があったのだしょうか、庶民の暮らしはどうだったのでしょうか? 江戸時代の後期の大工さん、農家、下級武士の家計簿を紹介しましょう。 <<江戸時代の貨幣単位について>> 江戸時代の貨幣単位は、金・銀・銭の三種類の単位がありました。 金 : 1両=4分(ぶ)=16朱 (主に関東で使用されました) 銀 : 1匁=10分(ふん) (主に関西で使用されました) 銭 : 1貫=1000文 (小額の取引に使用されました) これらの間の交換比率は、固定ではなく、右のグラフのように変動していましたが、江戸中期~後期ではだいたい 金1両 = 銀60匁 = 銭6~7貫 前後でした。また、米は1石=金1両くらいで、当時の人は、1日米5合、1年で1.8石食べたそうです。 大工さんの場合 文政年間(1820ころ)の大工さんの場合です。 若い大工さん夫婦を想像してくださ
紀元79年8月24日、数日前から不気味な動きをしていたヴェズヴィオ山が爆発し、人口2万人のポンペイ市に熱風と灰が襲いかかり、市は壊滅しました。 この町のある市民の家計簿の一部が残されています。 親子3人と、奴隷1人の家庭です。 奴隷がいるからといって、上流家庭とは限りません。 この家は”中の中”くらいのようです。 ●某月某日 パン 8、 チーズ 1、 オリーブ油 3、 ワイン 3、 合計15アス。 ●某月某日 パン 8、 オリーブ油 5、 ワイン 2、 玉葱 5、 粥椀 1、 奴隷用パン 2、 合計23アス。 ●某月某日 パン 8、 からす麦 3、 奴隷用パン 4、 合計15アス。 ●某月某日 パン 8、 チーズ 2、 ワイン 2、 勝利のためのワイン 16、 合計28アス。 ●某月某日 パン 2、 チーズ 2、 柔らかいチーズ 4、 オリーブ油 7、 フクセリス(?
ドイツの造幣所風景 ハンス・ブルグマイル(Hans Burgkmair) 上:接客中の監督官 左:円形の金属を整える人 中:金属板から円形を切り抜く人 右:円形の金属に打刻する人 1510年ころ 5世紀に西ローマ帝国が滅亡したときから、西ヨーロッパの貨幣経済は衰退してしまいました。 8世紀になって、フランク王国のピピンが古代ローマの貨幣制度を見習ったデナリウス銀貨を発行しましたが、まだ貨幣は一部の人たちが使うのみでした。 12世紀になると、農業技術の発達により人口が増加し、商業が復活しました。 税金や地代も貨幣で納められるようになりました。 13世紀には、航海技術が発達して地中海を中心とした貿易が盛んになりました。 国王や諸侯だけでなく、ドイツやイタリアでは大きな都市が貨幣を発行しました。 12〜15世紀の貨幣の種類は少なく、代表的なものは次のようでした。
新しい5000円札と1000円札のモデルは樋口一葉と野口英世です。 文化的な偉業は周知のことですが、赤貧に苦しんだ樋口一葉と、お金にはまるでルーズだった野口英世です。 お金の肖像に選ばれたことを、ご本人たちは苦笑いしているようです。 ●上 京 明治29年(1896)、野口英世(当時は清作)は、東京で勉強することにしました。 恩師の小林先生は餞別として10円渡しました。 小林先生の俸給は12円でしたからその多さが分かります。 郷里を出たときの所持金は40円でしたが、旅費・下宿代・その他で2ケ月で無一文となりました。 偶然英世の才能を認めた歯科医・血脇守之助さんが、学資として月15円を出してくれることになりました。 ところがこのころから、悪い遊びを覚え、だいぶ放蕩した模様です。 血脇さんもそれに気づき、5円ずつ3回に分けて渡すようにしたそうです。 ●医師になって 明治30年(18
【はじめに】 『通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律』 (昭和63年4月1日施行) 第二条 通貨の額面価格の単位は円とし、その額面価格は一円の整数倍とする。 2 一円未満の金額の計算単位は、銭及び厘とする。 この場合において、銭は円の百分の一をいい、厘は銭の十分の一をいう。 このことを、このページでは、 【円】─100─【銭】─10─【厘】 と書くことにします。 【凡例】 [・・・]内は、複数形を表していますが、特徴的なもののみを記しています。[-]は単複同形を意味します。 ラテン語での一般形は次のとおりです。 〜on ⇒ 〜a 例:Miliaresion[Miliaresia] 〜us ⇒ 〜i 例:Denarius[Denarii] 〜sis ⇒ 〜ses 例:Tremissis[Tremisses] 〜a ⇒ 〜ae 例:Siliqua[Siliquae
岩倉具視 (1825〜1883) 江戸時代の岩倉家は、家領150石の下級公家。 明治元年、議政官・議定、月俸700両。 明治2年、大納言、現米年900石(月600両相当)。 明治4〜16年、右大臣、月俸600円。 福沢諭吉 (1835〜1901) 江戸時代の福沢家は、中津藩の中小姓格で、家禄13石2人扶持の下級武士。 (諭吉は福沢家の次男) 文久元年、幕府の命によりヨーロッパに派遣される。手当て400両。 元治元年、幕府外国方翻訳局に出仕。禄高150俵、正味100俵。 (明治元年、慶応義塾の生徒の授業料は月2分、教師の給料は4両。) 明治2年、中津藩より受けていた6人扶持(玄米年9石)を辞退。 板垣退助 (1837〜1919) 江戸時代の板垣家は、土佐藩300石の上士。 明治元年、議政官・参与、月俸600両。 明治2年、会津戦争の功により、永世賞典禄1000石
マリア・テレジアといえば、有名なオーストリー・ハプスブルグ家の女王です。 彼女の在位は1740〜1780年でした。 この女王の像を刻んだ銀貨が、不思議なことに、東アフリカとアラビア半島の一部で異常な人気を呼びました。 「人気」という言葉はふさわしくないかもしれませんが、その実質的な価値以上の価値をもって取引されたのです。 エチオピアの西部にあるカファ地方は、コーヒーの語源にもなったところです。 コーヒーを買うためには、他のどんな貨幣でも受け入れられず、マリア・テレジアの銀貨だけが使われたのです。 何と200年近くもです。 マリア・テレジアの1ターレル銀貨 表:マリア・テレジア像 裏:楯紋章を胸に掲げた双頭の鷲 表から裏に続く銘文:M・THERESIA・D・G・R・IMP・HU・BO・REG・ARCHID・AVST・DUX・BURG・CO・TYR・ (ローマ帝国の女帝にして、ハ
●世 界 コインの世界小史 貨幣(通貨)の単位 金:銀 ●日本 〜 古代 「和同開珎」とその実力 皇朝十二銭 日本の古典文学から ●日本 〜 中世 中世の物価 「渡来銭」と「鐚銭」 鐚銭 島銭 永楽通宝の謎 琉球王朝の貨幣 日原鍾乳洞 ●日本 〜 近世(江戸時代) 江戸の三貨 寛永通宝 変な寛永通宝 田沼意次の貨幣改革 天保通宝 一文と一両の価値 江戸の家計簿 『鸚鵡籠中記』 『柏崎日記』 蕪村の四季 江戸の川柳 藩札の話 江戸のニセ金 江戸時代の古文書から ●日本 〜 幕末・明治維新 幕末の雄藩 幕末の小判流出 維新前後の紙幣 ファンタジー・コイン 太政官札物語 慶応4年の『日日新聞』 明治維新の記録 明治維新の交換レート ●日本 〜 近代 小説のタイトルになった貨幣 明治人の俸給 福沢諭吉の経済法 樋口一葉の借金生活 野口英世の金銭感覚 坊っちゃん 昭和萬葉集 ●日本
二束三文 猫に小判 千両役者 早起きは三文の得(朝起きは三文の徳) 早起き三両宵寝は五両 一文惜しみの百失い 聞いた百文より見た一文 末の百両より今の五十両 御意見五両堪忍十両 よく、江戸時代の一文銭や一両小判は今のどれくらいの価値があったのかと聞かれます。 一口に1文が何円、1両が何円とは答えられません。 それには次のような理由があります。 (1)江戸時代は、金貨、銀貨、銭貨の3種類の貨幣が共存していて、それらが別々の相場でした。 まるで一つの国の中に、円とドルとユーロがあるようなものです。 (2)江戸時代は300年近くあります。元禄の改鋳を初め、貨幣の品質が260年間でだんだん低下していきました。 品質が下がると、当然物価は上昇します。 (3)現在より、保存と輸送に費用がかかる時代でした。飢饉になれば物価は高騰します。場所や季節による価格差も今以上に顕著で
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『homepage3.nifty.com』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く