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※はじめに このやり方は私個人のケースであり、正しい方法かは不明なので、自己責任で。 例として、Documents and Settingsでやってみます。 要はこれ↓です。半透明の鍵つきファイル。(アイコン表示を大アイコンに変えた場合) まず、セキュリティから権限を付与すると(※やってはいけない)、セキュリティの整合性エラーメッセージが出てループします。 (セキュリティタブからチェックボックスをフルコントロールで付与した場合) セキュリティエラー表示 上:セキュリティ情報を適用中にエラーが発生しました 下:アクセス許可の設定の伝達が停止すると、整合性がない状態になり、設定があるオブジェクトとないオブジェクトができます。間違って変更した場合は、正しい変更をすぐ適用し、整合性がある状態にしてください。 上のダイアログは、続行、キャンセルを2,3度押すと一時消えますが、結局整合性のエラーが直っ
時は20XX年、と未来がばら色な先端技術で埋め尽くされているかのような漫画が1990年代にはよくありました。20年後はどれほど現代の技術が進化しているのか、想像することが楽しかったころです。じゃあ今、想像したほど技術が進んでいるかというと、そういう分野もあるし、そうでない分野もある。ドラえもんや鉄腕アトムはとりあえず難しそうですね・・・。 さて、最近の技術を複合して、「電脳ペット」はできるんでしょうか、というのが私の素朴な疑問です。使うものとしては、ARtoolkit、人工(動物)知能をうまく組み合わせる。で、仮定として、実際ペットアプリができて、みんながそれを買った場合、それを本物のペットのように愛着やかわいさって感じるものだろうか・・・そして需要あるのかな、というのが今回のテーマです。 過去の電子ペットの例として、たまごっちなどがそのはしりと思いますが、漫画などの2次元のキャラクターに
・○月×日、初めてインターネットに触れる。YAHOO!の画面が新鮮に感じる。 ・インターネットの世界を知り、さまざまなページを巡回する。笑いや情報の収集に貪欲な毎日。 ・やがて対象はエロにシフト。掲示板へ始めて書き込んだりなどしてみる。ほかのユーザの存在を感じ始める。 ・インターネット上の「観測」を続けるうちに興味を持つように。 ・インターネット上で「活動」をはじめる。誕生の瞬間。媒体はSNSやゲーム、ブログなど幅広い。 ・発言する。コミュニケーションを行う。参加している意識を感覚として持つ。自分が何かしなければという気持ちに駆られる。当事者意識が強い。この楽しい瞬間をいつまでも過ごしていたいと思う。 ・環境が変わり、インターネットで過ごす時間が少なくなる。自分なりに折り合いをつけ、絆をつなぎとめようとするが、やがてそれすらままならなくなる。 ・やがて、インターネット世界に対する興味が薄れ
「自分にだけは大丈夫だ」と感じる心理ってありますよね。事故にあう確率や、病気になる確率。ああいった確率を過小に見積もりがちな原因として、低い確率にぶちあたった人に出会わないことが挙げられるでしょう。または、当たっても言わない。言えない。 日本には「健全に?暮らしている人」ばかり周りを見回したらいるようで、自分だけがおかしいのかと思ってしまう時があります。ただ、「周りを見回すことのできる場所」というのはだいたい、サンプルに偏りがあります。それも甚だしく。いくら外を歩き回っても引きこもりには出会わないのと一緒です。世界がリア充でできているかのように感じてしまいます。 ただ、インターネットはその不可視部分を取り払っているがゆえに、インターネットと道端における、たとえばアンケートでは違った結果が出る。回答者層の違いですね。年代ではなく、生活スタイルの区分というべきか。自分が世界のすべてだと感じてい
語り古されている話かもしれないが、自分の頭を整理するためにも、列挙&整理していく。また、広義にとりあげると話がとりとめなくなるので、できるだけ限定していく方向で。Web系の会社でこういうことが話されていたりするのかな。 現在、Webで存在感を持つサービスといえば・・Yahoo、google、mixi、価格com、楽天ショップ、2ちゃんねる、ニコニコ動画、youtube、gyao、エロ動画、画像、同人誌サイト(無料・有料モデル)、fc2(ブログなど)、アメーバブログ、livedoor、あとはてな。・・・他にもいっぱいあるだろうが、また次回以降(があれば)のエントリで取り上げる。 ○○系としてまとめると、 ポータル系・・・yahoo,google,msn SNS系・・・mixi、他。 動画系・・・youtube,ニコニコ動画,gyao,biglobeなどなど ショッピング系・・・amazon、
何かやる気がでない。何かなそうという気持ちや文を書くことに能動的になれない。理由としては 体調不良 人間のアルゴリズム的なもの もあると思うが、 超絶体験 何かが欠如した感覚 が乏しく感覚に鈍感になっている部分が強いように思う。 人と会わないと、時間感覚が鈍感になるのかな。 自分の時間を確保したいと思うことは思うが。行動に生産性がいま一つ伴わない感覚。アウトプットが足りないのか、積み上げていく感覚のないことばかりやっているのか。 長期的保存ができ 汎用性ある ものを学ぶことがスキルというのならば、とても自分のしたいことリストには入っていないなぁ。充実感がほしいわ。大きな不満は、ないのだけれど。生に滾りたい。 2/2追記:何か参考になりそうなページが やる気を出す方法・やる気を出す4つの方法 この時期、やる気がなくなりやすいのかな。こういう記事があるということは。 今日ですね、仕事がんばんな
自分が嫌いなものの一つとして、一部マスコミの程度の低い報道がある。 ニュースは決してエンターティメントではなく、事実を伝える報道であるべきだから、面白くするのはそのニュースを加工する二次媒体以降の人であると思う。 これほどニュースが大衆化するのであれば、公営のほうがよっぽどいいんでないかと思うときがある。政治も、全てがというわけではないが、一方でオバマの誕生が叫ばれている中、漢字力がどうのという報道を、堂々と、まるで当然であるかのように、並べて報道されると、日本に住んでいる自分としては残念な気持ちとなって萎えてしまう。質問する政治家もそうだが、それを大々的に報道するのもどうか。いや、別にそういう新聞が一つあってもいいのだが、最近の決まりそうな法案とかの話とかに反応する層も一定数はいる(と思う)わけであります。そういった内容をわかりやすく説明するほうが、たとえ注目が集まらなくても、そこに価値
新年明けましておめでとうございます。本年もマイペースで更新していきますので、長い目でよろしくお願いいたします。 さて、年末年始の小沢氏のニコニコ動画出演を見て、いよいよニコニコ動画が飛躍をむかえる瞬間が近いと思いました。あの生放送の影響力。話題性も含め、どれくらいの価値があったかが非常に気になるところです。何より、仮にも国家の総理となるかもしれない方が年末年始という大切なこの時期に、ニコニコ動画というメディアに出演することを決めたという時点で、その影響力の可能性はすでに一定の規模を超えていることは容易に想像できるものですが。 ニコニコ動画を見る層って、日ごろ政治とかを見ている層とはあんまりかぶらないのかなと思います。俺も小沢さんがまともに話している姿を見たのは初めてだったし。だからニコニコ動画ではじめて小沢氏の話している顔を見るユーザは多いはず。善悪はともかくとして、まあ本人もいっていた話
友達が好きな言葉が、「他人されたいと思うことを自分がする」というものだ。自分が話しかけられたいと思うことは、他人がそう思っているということでもあって、ただ相手からのアプローチを待つのではなく、自分から話しかけてあげることが大切なのだと。非常にためになる言葉だし、いろいろな局面で使える言葉だなと思う一方、自分の感覚が周囲と比べかなり離れていると、それがしばしば行き違いやおせっかいを生むのではないかという懸念にさいなまれる部分もある。 自分は才能で言えば特に何の変哲もない一般人、というか身もふたもなく言えば使えない部類に入ると思う。そして感覚的にはカテゴライズするならば「オタク」でありかつ「非コミュ」でかついわゆる世で言う「変人」の部類であると推測されることから、自分がいいと思う感覚がしばしば他人に迷惑をかけてしまうのではないかという臆病さを生む。 それを勇気がないという一言で終わらせることは
自分は、自分のことを生まれて以来連続して知っているが、出会う人は、自分の中の一部しか知らない。だから、ギャップや勘違いなどが必ず出る。私は基本的に自己中心的な人間であるがゆえに、あまり人の立場に立って物事を考えることはついぞないのだが、最近、自分が思っている自分と、他人から見えている自分にギャップがあるなと感じ始めたので、「見られている自分ってどんなもんだろう」ということを少し意識した。 まあ、いかに自分をよく見せるかというのは、できる奴やリアルに充実した人間は意識せずとも、いや相当意識した結果として、日常的にその効果を表現できているのかもしれないが、そういった部分を面倒くさがる自分としては、まぁいいや、なるようになるだろう、以上の感情はわかない。ありのままの自分でいいやというのは、なんとも都合のいい言葉である。 自分が人の内面や心理をちっとも見透かせないように、相手も自分を見透かせていな
今までに使ったネットサービスで使った金を大まかに試算してみる。 Maru-jan 足掛け3年で10万ほど? パンヤ 3年弱で5万くらいかなー ニコニコ 一度入ってやめて、また再入会したから、現在3000円ほどか・・(現在使用中) 天鳳 今月からで525円(現在使用中) 2chの● 過去見たい過去スレあって、2回買ったな、3000円くらいか・・。2ちゃんねらの友人から若干奇異の目で見られた はてな アンケートやいわし、有料サービス使っていた時期を累計して5000円ほどかな? 計 17万ほど也。 アラドやhangameは・・何回かハンコイン買おうとしたんだがクレジットのVpassかなんかに登録しなければならないらしく、面倒だったのでやめた。紙copも結局・・買ってないなぁ。 ネット上では金を一円すら出すのも惜しいと思うときもあれば、日ごろメシ代とかでつかってんだから、遊ばしてもらってる
無職の元東大生「教科書と違う現実が…」 文科省幹部を殺害予告 逮捕の件、同年齢ということもあり、自分にも人ごととは思いにくい。 しかし、ネット上に殺害予告をして逮捕されるケースが出て久しいが。頭でなんとなく理解している部分と、なんか納得のいかない違和感がいまだ残る。いまはどうにも対処がモグラ叩き的で、さまざまなケースを包含していないからだろうか。 そもそも。インターネットが半ばブラックボックス化してしまっているがゆえに、リスクを正当に、人間本来の素朴な感覚として認識しづらいところにひとつの原因がある。赤信号はわたっちゃいけませんという感覚や、人のものをとってはいけませんという感覚は教育されているのに比べ、インターネットに関するそれは希薄だ。最近の小学校などでは、そのような教育はなされているのだろうか。 まぁ、世に犯罪がなくならないようにこういったケースはゼロになることはないだろうし、ことさ
ニコ動でユーザーカンファレンス開催 ネットの時間速度は本当早いな・・・。良いと思う人がいれば、たとえ未完成でも、どんどん実現へと向かう。 エントリを書いてから8ヶ月か・・・早いものだ。 Webに同期的な議論サイトができないかな(08/2/24) そういやこちらのエントリも、この間の年金に関するニコニコ生放送をカウントするなら、約8ヶ月後か・・・。 ネットと政治参加(08/01/05) 両方とも、水面下ではすでに構想はあったということになるのかな。まぁそうだろう。俺でも思いつくようなことは他の人も思いつくわな。 ニコニコ動画が2chをこえるほどの、世論を主導する存在となっていって欲しいと思うのは夢の見すぎだろうか。でもネット世界は早いからな。先はわからないよな。 討論の際のルール作りなど、課題も多いが、ネット社会が活発になっていくことを期待する。 自分でいいと思うことが、世に出てくるとうれし
あらゆる人間は、時間的な限定と次世代への情報の非継承といった存在であるが故に、世界の全てを把握してはいない。部分的な情報のみを全てとして日々を生きている。 われわれは世界の全てを知らない。だが、世界の部分としてのわれわれが、まるで世界の全てを知っているかのように統制がとれたふるまいを示している。現代の世相を表出しているのは、全てが、「ルール」の存在を根源とする。 ルールとは、一つには、憲法だ。一つには、教育だ。人間の考え方をどう育てていくかによって、人間は相互に複雑に作用し、初期状態とはまったく予測できなかったような結果を生み出すこともある。初期状態のルールがわずかに違うだけで、その違いが世界に大きな影響を及ぼし得る。ルールは、あらゆるものの基本となる、大切な部分だ。たかがルール、されどルールということだ。 インターネットの世界は、また一つの複雑系である。世界の人々を巻き込み得るといった意
すでに気付きつつも、自分の中でごまかしている部分がある。 ああ、こいつは超えられないなって気持ちを持つことだ。 俺がこの先結構頑張ったとしても、俺のスタンス自体を変えない限り、こいつは超えられないなと。モノが違うと。能力が違うと感じる。どういう血筋と考え方してんだこいつ、化け物かとすら思う。 そう、そしてそいつを超えられない以上、俺は諦めなければならない・・・・高みに到達することを。だって、いくら自分が頑張っても、その上にそいつがいるから。しかもタチの悪いことに、差はどんどん広がっていくばかりだ。こちらが限界だと思っているスピードをはるか超えたスピードではしっている様を見ると、絶望にも似た気分になる。 かつて、俺も夢中になって取り組んでいたものがあった。俺、才能あるんじゃないか、最強じゃないかと思う時期もあった。夢中で階段を二足とびで飛ぶ勢いで上達していった。 しかし、求められるものが高く
自分の時間がないと、自分が生きていると言えるのだろうかと思う。自分がランダムの行動を起こす可能性がなく、世界が期待するような可能性の下に動くのであれば。 自分の気持ちや意志、感情は行動に昇華してこそ世界に影響を及ぼすのであれば、自分の時間で練った構想を元に行動までできなければ、それは自分のような別の誰かでも、かまわないのだろうと思う。 独自の行動を取ればそれがいいと言うわけではない。社会の歯車がいきなり止まったり、逆方向に回りだしたら、それはそれで、それなりに大変だ。 自分の時間・・・・自分が、本来の仕事として以外にも、社会のどこかに発信していけるような、生産的な存在でありたいと思う。ブログを書くのはまだ、行動とはいえない。気持ちも大事だが、結果、成果を報告してこそだなぁ。
一言で済ますならば、進歩への強迫観念を持っているからだろう。 常に進歩し続けなければ、という気持ちが自分をあせらせる。 仕事や人生もまた、一つの競争であることは疑いもなく、他人を横目で見つつ、俺も取り残されてはいけないと自分を叱咤する。 だから、休日ですらゆっくりと楽しめない。一日を無為に過ごしてしまったことが罪悪感となり、頭をさいなむ。 この価値観は私の中に深く根付き、こういったことを思い始めたのはいつからかは忘れてしまったが、小学生低学年のころだったと思う。人が集まれば、競争を誘発する。学校という集団での教育制度が推奨される理由の一つは、そこにあるんじゃないか、と今気付いた。 私は、昔から他人のものを欲しがることが多かった。うらやましくて、今、もっているもの以上に、彼が持っているものも欲しくなるのだ。それは形あることもあれば、その人のポジションや性格など、形ないものであることも多かった
京大生が語る高学歴エリート難民論争 小飼弾氏が異論 を読んでいて、ふと思ったことを。 ブログに、長文を書こうと思うくらいに真剣になったエントリを読むと、ある種の楽しさを感じる。 そんな気兼ねなくぶつかることって、日常では本当あり得ないからなあ。 体面を気にせず、ある一定以上の真剣さをもって書く。イタかろうが、本当にその人が内心そう思っていて、それが文章として書かれたものであるなら、そういう内心の意見を読むことで、「人」への理解が深まる。 まぁ、エントリの意図を読みだすときりがないよ。わざと煽って書いてるなとか、シニカルな立場で書こうとしているなとか。そこまではわからないにしても、その人の環境から形成された、性格、考え方。確立したバインドを感じる。 私は、タテマエの会話やコミュニケーションの潤滑油のような会話は、大切だと思うが、ノリ中心での会話が続くのはあまり好きではない。議論とまではいかな
実際に会うことで、気持ちがを伝わるってよく言いますよね。この、気持ちってやつは何なんだろうか、と素朴に思う。はたから見ていると、気持ちによって伝わるのは、その内容がいかに重要か、そうでないかが感情にあらわせるくらいで、内容そのものは変わらない。あと、互いに話している間だけ、認識の違いを、質問や確認によって修正できるメリットがあるくらいだろう。 気持ち、はロボットには伝えられなさそうだ。気持ちは、伝える相手に心と意志があることを前提にしているからだ。気持ちとは何だろう、と考えていくと、相手のことを「どれくらい」どう思っているか、自分が「どれくらい」どうしたいのかをあらわす量的なエネルギーなんだろうと思う。 私事になりますが、私はプレゼンがすごく苦手だ。緊張して、言いたいことを忘れてしまうことも多いし、気のきいたパフォーマンスはできない。おまけに手や腕がよく動いてしまうことが多い。これはどうや
自分が学んだことや、得たことを他の人にアウトプットするのって本当難しい。何でこんなにも伝わらないの、ともどかしく思うことがよくある。相手は、こちらが必死に説明しているのを、涼しい顔で聞いている。表情に、「?」を浮かべながら。 知識が増えるのはいいことだ。私はそう思っている。様々なことに首を突っ込んで、知識や情報を溜め込むのは好きである。一つの趣味であるとすら言っていいだろう。子供のころ、カードなどを特に用途もなく集めていたように、今は情報や知識を収集するのが趣味となっている。典型的なネットユーザの一つのタイプでもあるといってもいい。 問題は、そうやって様々な所からインプットしたこと、それ自体で満足してしまい、アウトプットのことをほとんど考慮しないことだ。情報が他へ行かない。それはもったいないことだ。 今まではそれでも良かった。ほとんどのことは自分の中で完結していたから。個人の知識を高めてい
常にインターネットに接続している人にとってインターネットは便利な世界、ツールである。 インターネットに接続しない人にとって、インターネットは、異なる価値観とわけのわからないことをしゃべる世界に過ぎない。 一日中に近いほど、インターネットと常につながっている人にとって、新たなインターネットへの入場者は、時に、無知であるがゆえにおろかな行動を取っているように見えるかもしれない。 インターネットに久しぶりに入った人にとって、ネットでよく活動する人々が何を言っているのかがよくわからない上に、すごく入っていきづらい。行きづらいが故に、「あいつらは・・・」とレッテルをはったりする。興味も失せていく。 インターネット。便利ではあるが役割はあいまいだ。最初は何か、「きっかけ」がいる。PCの前でマウスやキーボードを使って一人、何かをし続ける光景は不思議だ。ネット・ライフスタイルを、自分の日常に取り入れること
言葉によって説明してしまうことで、陳腐化してしまうことは良くある。 私たちが「なんとなく、いい」と思うとき、その多くは、本当にどうでも良いけど少しだけいいと思っているわけではなく、確かにそれを選びたくなるほどそのものにはっきりした魅力がよさがあるにもかかわらず、それを説明する言葉をもたないだけなのだ。 意識としてイメージとしてもつとなんだかすばらしいものにみえるもののも、言葉として表してしまうとそれはありふれたものにみえてしまう。 世界には、説明できないような美しいものや良いものが多い。言葉で説明できないものなんかないものと同じだと思うかも知れないが、そんなことは決してなく、説明できなくてもそこに”ある”のだ。その何かは、言葉によって説明されたり、類推されることでその価値を失ってしまうほどのはかないものだが、その何かが人をひきつける。 たとえば、私がWebの良さを語るとき、どうしてもそこに
何がこわいんだと思う方もいらっしゃるとは思いますが、インターネットのライトユーザでとどまっている方のインターネットへの認識の一つが、「インターネットは怖い」といった理由であるそうです。 いったい、何が怖いのだろうか。いくつか候補を考えてみる。 クレジットカードとかセキュリティ面で怖い 最近物騒な事件や逮捕者が出て怖い 時間がいつの間にかすぎていて怖い インターネットにはいりこみすぎると何だか怖いというイメージ その方が言われていたのは4の理由でした。1〜3の理由は、一般的にも認識されているきわめて実害的な怖さなのですが、4だったのが若干意外で、面白いとらえ方だなと思いました。具体的な理由でない、何だか怖い、という漠然とした不安感は、一方でよくわかるなあと思いました。そう、わかりやすい理由じゃなくて、インターネットの一定以上のの利用をとどまらせる気持ちは、この漠然とした不安感は、確かにあるの
人間関係に一番直接きしみが出る可能性がある出来事として、怒りやいらだちを相手にぶつける時があります。怒っているかどうかの判定は、言葉の端々を見聞きしているだけも大体感じ取れるものです。 正直、私は怒りに接するのが対処があまり得意でないし、自分が怒るのも、その限度というものがよくわからない。わからないから、やってはいけない限度の閾値を越えるのを怖く感じ(取り返しのつかないことになることを恐れる)、怒れない、怒ってしまうことをためらってしまう。人間関係を壊したくない、平穏でいたいという思いが、事なかれ的な方向へ話をもっていくことを望むのかな、と思います。 一方で、怒りが存在しない、皮肉や水面下でのやりとり、表面的な社交辞令が飛び交う世界を望んでいるのかというと、それはそれで、気持ち悪さを感じる。思っていることがあるならちゃんと言えよ!と思うわけです。まぁ、言えないんですけどね、なかなか。相手の
現代は、誰にでもすぐ内容がわかるような要約が求められている。ニュースの見出しやブログのタイトルをみても、その重要性は大きい。独特な表現はわかりにくく、嫌われる傾向にある。短く、まとめて、誰にでもわかるような言葉、文章、プレゼンテーションが求められている。 実際の所、よく使われる単語をつなぎ合わせているため、面白みはそんなにない。でも、普通の人が文章を書くとき、伝えたいことは内容であって、文章表現のレトリックではない。このほう自分のニュアンスが伝わる、という言葉でも、相手が共感していなければ、残念ながら相手には伝わらない。 私は当面、パワポのプレゼンテーションを鍛える必要がある。どうやらいつも作っているのは文章が多すぎて、見ているほうからしたらよくわからんらしい。もうちょっと資料の言葉は要約して、トークで伝えろというわけである。それがソツなくできたら苦労しないよと毒を吐きつつ、言っていても仕
「君と一緒に、インターネットの真の姿を見たい・・・・・。」 俺なら一発でオチるな。
送る相手の数によって、同じ言葉でも、その言葉の持つ重みは違う。twitterでもそうですね。そのメッセージをどういう姿勢で読むかが変わってくる。メーリングリストも同様の性格を持つと思う。 一対一だと否応なく反応しなければならないメールや電話と違って、メーリングリストやtwitter、ネットの掲示板などは違う。当事者意識をもっても持たなくてもいいのだ。眺めていられる立場といいますか。参加してもしなくてもいい、自分の気分によって選択の余地が出てくる。これが不特定多数による距離感であり、プレッシャーが少ない理由である。 もちろん参加しないとさびしいのだが、一人で想像して(・∀・)ニヤニヤニヤニヤすることが決してキライではない私(ちょっとアレな人ですね(*ノノ)としては、行動をためらうことが多い。悪いクセだなあと自分では戒めているのですがね・・・。私は一度距離を縮めてしまうと、再び距離をあけるタイ
情報って、しばらくおいておくとすっかり腐っていますね。というか、モノがなくなってる・・。 まずは経緯から。 ブックマークやクリップその他に情報を日々放り込みまくっていたわけですが、いい加減、タグもつけずに万近く放り込んであり、検索もできないような乱雑な情報を何とかしたいと思っていました。これ以上増えると、後から絶対整理できない。 主としてつかっているlivedoorreaderのクリップ機能は、iで一発クリップできる点は非常にすばらしいですが、一方でクリップの全文検索がなく、タグ付けがほぼ手動になってしまうのが難点でした。よって、はてなやgoogle.gooreader,del.icio.us,何でも良いから、ためた情報を後から見ていけるようなデータベースはないものかと思っていました。 で、まず目を付けたのがdel.icio.us。全文検索もできるし、今までためた情報がサクッと見やすかった
素朴に、今までの200以上の動画を全削除ってのはひどいものだ、と思った。いくら再うpが可能といっても、もう少しその問答無用っぷりは何とかならないものだろうか。 最初にかにぱん。さんを知ったきっかけは合唱 カービィのグルメレースで、すごく耳に残る歌声だったのでそれ以来他の動画も聞くようになってファンに。(V)・∀・(V)←この顔文字が個人的にはすごくかわいいと思う。自分でもよく投稿していた。 著作権云々については過去に色々と議論もあり、仕方ない側面もあるとは思うが、感情的な部分では納得がいかない。というか何で消すんだーバカヤローという気持ちが率直にありますね。インターネットって相手が見えないから、平気で相手の気持ちを考えないことができたりする。これが対面のつきあいであったりしたら、そんなことできないと思うがなあ。 一定数のアクセスや定着したら、いい意味でもうちょっと特別扱いしてもいいんではな
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