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今夜、我が家はささやかながら近所の居酒屋で忘年会をした。隣席で赤ん坊が泣いていた。うちの長男(中1)が、うるさそうに両耳を指で耳をふさいでいるのを目にして、「こら、失礼だからそれはやめろ」と諭した。おまえもあぁだったんだぞ、と。あまりに月並みだね、これでは。 弟が合流することになり、場所を替わった。で、長男に語った。語りたかったので語った。「俺、小さい子供は嫌いなんよ」と彼が言うから、俺もそうだったよというところから始めた。 迷惑がられることを怖れて母親が外に出なくなることがある。迷惑そうな人目が気になり、家に赤子と閉じこもる、そういうことがままある。おまえもよく泣く子だったから、お母さんもそうなりかけたことがある。出れば気も晴れるものを、出ないからますますおまえに手を焼き疲れ果てる。そういうことがあった。 誰だって自分もそうだったのに、あるいは自分の子がそうだったのに、喉もと過ぎれば熱さ
平岡公威(きみたけ)が「三島由紀夫」で旅券(パスポート)を作ったら偽造パスポートだろう。だからといって平岡公威にとって「三島由紀夫」が偽名であるはずもない。 するってぇと、三島由紀夫にとって「平岡公威」とは法における名であるから法名かというに、「法名」は別の意味になっちまうのでややこしや、である。彼の「法名」は「彰武院文艦公威居士」とのこと。 http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/991863.html 名前って、何だろうね。本名に通名に偽名に法名… 安倍晴明「なあ博雅……、この世で一番短い呪(しゅ)とは何だろうな」 源 博雅「この世で一番短い呪……? しかし何でおれが考える? おまえが教えるべきじゃないか?」 安倍晴明「さっき言ってやったろう? 名だよ」 源 博雅「おまえの晴明とか、おれの博雅とかの名か?」 安倍晴明「そう。山とか海とか樹とか草
とか題名をつけたけど、私はまだ見てないので、この作品の批評ではない。だけど、ふと思うこと。南アを舞台とした映画と言えば、アパルトヘイトを扱った『遠い夜明け』があった。その後、アパルトヘイトは撤廃され、白人の独裁政治にも終止符が打たれ、マジョリティである黒人の政権になった。ただし、白人追放と黒人どうしの内戦といった、先行して誕生した近隣諸国で起きた国家運営の破綻も念頭にあっただろう、なにしろ南アの白人はそれら各国よりは人口比もはるかに多いし、また、もはや先祖代々この国に住んできた人たちであるというこの国の事情から、極力、人種間融和が説かれた。その中で、黒人の生活環境が劇的に改善されているわけでもない。一部には有力者となり裕福な層もできてはいるのだろうけど、貧困のさなかにいるままの人たちも多い。映画『ツォツィ』は、そうした「現在の南ア」の大きな現実を背景にしたうえで、日常的に殺傷行為を犯してい
先日のNHKの番組で発達障害の若者が何名か出て語っていましたが、みなさん、「自分の障害を知らずに苦悩していたこと」「就業面での困難だったこと」などを異口同音に語っておられました。自分の障害をそれと知ったからといって困難が解決されるものでもなく、就職できたら安泰というわけではないのはもちろんですが、「自分が何者であるか知ったことは大きい」とか「先々の自立した生活に不安があるままでは困難はより大きい」というのも一致した意見のようでした。 http://job.yomiuri.co.jp/news/jo_ne_06082525.cfm 厚生労働省は25日、仕事も通学もせず、職業訓練も受けていないニートに対する支援策の一環として、心理や障害者福祉の専門職をハローワークに配置する方針を決めた。 発達障害のある若者にきめ細かい支援をするためで、事業費2億1000万円を、来年度予算の概算要求に盛り込んだ
2007-04-16 - 力士の小躍り アフガニスタンにソ連が侵攻して、傀儡の共産主義政権を建てた。これに対する抵抗運動があって、ソ連にとってのアフガンはアメリカにとってのヴェトナムと似た構図になった。で、このとき、民族主義的な抗戦活動の旗役となったのが、イスラム神学生の若者たち、すなわちタリバーンです。アメリカはこの人たちの支援をした。ビン・ラーディンだって、元はアメリカの子飼いだったという話があるでしょう。アメリカは、いわば「飼い犬に手を噛まれる」結果になった。 傀儡の共産主義政権とそれへの抗戦という内戦によって荒廃した自国という状況が、あったわけですよね。一方的な近代化=開発独裁による問題もあった。「イスラムの伝統の復活」というタリバーンの目標に多くのアフガン人の共感が集まった背景には、そういうこともある。 さらには、民族的に複雑なアフガニスタンという国情がある。人数的なマジョリティ
道徳的詐術とは何か - モジモジ君のブログ。みたいな。 「持っている資源を渡さない」ことによって死なせることがない。──(A) 「持っている資源を渡さない」ことによって死なせることがある。──(B) 以上は事実問題。(A)は端的に間違い。(B)が正解。これを「間接的に人殺しである」と述べるとしても、それは多少感情のうずきを感じさせる表現かもしれないが、あくまで事実の問題であり、ここに何の詐術もない。選択肢があり、そこから具体的な選択肢を選ぶ以上、そこには問いがある。問いの向こう側に、選択の結果を被る他者の顔が見える。ここでの他者の顔は、そこに見るか見ないか、というレベルで選択可能だとしても、そこに顔が「ある」ということは徹頭徹尾事実問題である。 ここで既にトリックがあるわけですよ。「(A)は誤りで(B)が正しい」というのは端的に事実。それはそのとおり。例えば、育児放棄(ネグレクト)による餓
介護問題から募金問題になり民主主義理念の問題になり死刑制度問題が出てホームレス問題に及ぶ。「できないのと、しないのとは、違うでしょう」という観点から広がったもので、いづれも「それをしなかったことは人殺しと言えるか」が論点の基調になっている。もちろん、そうやっていろいろ広がっていくことは、今件のような話題の場合には避けられないだろうし、広がった先々で別の人が語り合いながら考えるのは悪いことではなかろう。その一方で、「話がどんどん広がってしまって元の話がどこかへ行ってしまっている」という声がある。私もそう思う。そこで、私はあくまで元の話に白黒をつけたい。他の関連話題は、その後にすることとする。 元の話は倫理の話として出されていたものだ。この段階では介護問題である。「できないのと、しないのとは、違うだろう」という問いかけも、「しようと思えばできることをしないのは、しようとしないということだ。それ
ある命題が正しいのなら、その命題を認める人は正しい判断をしていることになります。その命題が誤りなら、その命題を認める人は誤った判断をしていることになります。つまり、それを認めようが認めまいが自由だとするにしても、まずそれが正しいかどうかの論考が欠かせません。いつもいつもそうしなければいけないということではなく、いまここで論じられている「募金しなければ間接的に殺したことになる」というのは全称命題だからなのです。当てはまる人と当てはまらない人を選ぶ命題ではない、ということ。全称命題という言葉をご存知だろうか。(全称命題 - Wikipedia)。 この命題が真として成り立つのであれば、全ての人が当てはまるわけです。個人的に認めようが認めまいが、共感しようが反感を抱こうが、それは個人の受容の問題だということです。そこで二次的に、受容しない人にどう対応するかが論じ得るのみです。ある人は「受容しない
マスメディアも発達していなかった頃には、自分の知らないところで多くの人が死んでいても知りようがない。ではその頃は、そうした恵まれない人たちを見殺しにすることが現代人より少なかったということになるのかな。現代では、テレビや新聞を見て、世界中の悲劇を見る機会が増えた。だけど何もしないで見ているだけだから、見殺しにしていることになるんだ間接的な人殺しなんだと言うけど、そしたらそれは、情報が発達したから間接的な殺人者が増えたということになる。何の話なのだ。こういうことじゃないか、テレビや新聞を見て「何もできない…見殺しにしちゃうしかない…間接的な人殺しなんだ私たちは…」と感傷にひたる人が増えましたよ、みたいな話でしかないだろう。 どうも変な自己満足的感傷が多いな、この話題は。ただの感傷ならまだしもだけど。 http://d.hatena.ne.jp/kmizusawa/20070416/p2 人の
私は昨日、義父と子と甥とともに離れ島に行って、魚やら磯のものを取ってきた。魚は中学生の甥っ子が釣った。義父はワカメを刈り、私はカメノテをむしった。帰ってきて煮て食った。そりゃぁ美味かですたい、子らは舌鼓を打ちながらアッと言う間に平らげ、義父と私の酒も進んだ。 命は美味い。鮮度の落ちたものと新鮮なものとを食い比べてみたら良い。鱗の輝く魚、血の滴る肉、青々した菜や葉、捲けば芽を出せる種…死んで間があいたものより、さっきまで生きていたもの、まだ死にきってないもののほうが、美味いだろう。それを美味いと感じる味覚は何か。腐ったものは体に悪いから舌が拒むのは当たり前、それは生き物として身に付いた感覚であろうに。だが、人々は暮らしの中で、それぞれに分業しているだけのことだ。 漁師が豊漁を喜び、牛飼いが肉付きを愛で、百姓が作物の出来栄えに胸を張る。それが売り買いのすえに食卓に並べられて食う者が舌鼓を打つ。
「この○○を買うと、その代金で××の人々が命を救われます」「だからあなたも買いなさい、とは言いません」「しかし買わないのであれば、あなたが買わないことでその人たちが死ぬという事実を受け入れなくてはいけません」「買えなかった、のではなく、買わなかったのです。それで救える命を、助けられなかったのではなく、殺してしまったということです」「これを買うべきであると私たちは言っているのではありません。このように考えることを私たちはお奨めしているのです」 2007-04-15経由で「本当は、できるでしょう?」の原初的風景 - G★RDIASを読む。uumin3さんに同意。加えて言えば、上記の理屈と同様に、どこからどう言ってもカルト教団の押し売り口上である。uumin3さんが指摘していない点を私が補うと、ここには「募金を呼びかけ、募金箱を設置する」という行為があることを見るべきである。ある人々への募金活動
2007-04-09 全く同意見。民主党はただ単に負けたというより、「次につながる負け方もできなかった」と見ている。どうも民主党は、このごろは社民党や変な応援団とくっついたりして、何を考えているんだろうと非常に疑問を感じる。あれで、本気で政権を取りに行く気があるんだろうか? あれよあれよというまに、かつての社会党のポジションに近づいて行っているのではないか。 そりゃ現職は強いに決まっている。反対勢力がどうとかよりも、それなりに実績があって特別に不祥事でもない限り。だからどうしたって、今回の石原氏には勝てっこなかっただろうとも思う。だけど、左派でなくても「石原さんは、ちょっとねぇ」「石原さんは、やりすぎではないか」と思っている有権者だって、それなりに多いはずなんだ。たとえば、国旗国歌問題。「ヒノキミ闘争やってる先生たちや支持者には全く共感できない。しかし石原さんのやり方には、非常にキナ臭いも
2007-04-12 私ならまず、この病人を海に落とすことに反対し、同乗者の説得を試みます。理由は、この状況でより生存率を下げるのは病気ではなく恐慌だからです。別稿の「平等とは」という観点からではなく、「この状況で少しでも自分の生存率を下げないなら」という観点から考えました。 1.感染と発症は別物です。 2.感染力と致死率も別物です。 3.潜伏期間の長短によって異なります。 この人の病気が「感染力が極めて高く空気感染がほとんどであり」「潜伏期間が短く」「感染すれば必ず発症し」「発症すれば自然治癒は望めず致死率も極めて高い」というものであってはじめて、この「極限ボート」問答は成り立つわけです。たとえば、「空気感染はしない」のであれば、水の回し飲みをしないなど、血液や体液などの接触感染に気をつければいいわけです。 ところがもし、感染力が強く空気感染するほどの病気であり、かつ素人が見てもそれとわ
戦前の沖縄で、土地の言葉を使うと責められた、という話をよく聞く。沖縄の人々は「日本人である、日本国民である」という意識が低い…という中央政府の認識の下での、皇民化教育の強化があったと聞く。しかしそのことを問うなら、偏見や差別意識が強かったことのほうが、主因ではないか、そのようにも思えてならない。逆にいうと、当時の本土の人士にとって「沖縄」がどう見えていたのか、ということにもなろうかと思う。ウチナンチュでありつつヤマトンチュとともに日本人であるという意識が、そんなに低かったのだろうか。ならばなぜ、沖縄県民はあれほど米軍に奮戦し、戦後の沖縄は日本に復帰しようとしたのか。 沖縄の人間は日本人としての認識が弱い…と本土の人間が思うとする。しかしそのようにその人が思うとき、その人にとっての「日本」とは何か。あらかじめ引かれた線に沿って「日本」を囲い込み、少しでも異質と思われたならば「日本ではない」と
私はちょっと尚武なところがあって(本人はフニャフニャしてるんですが)、国防というものも非常に大事だと思っている。私の中では、医療・看護・介護・教育・治安・防災・国防という職務については尊びたい気持ちがある。そんな私だけど、たとえば非武装中立論とか反軍思想などについて、一笑に付すかといえばそうでもない。今回はinumashさんから送られたTBを読んで触発されたことをもとに、kechackさんによる「同調圧力」への問題提起にあらためて添ってみたいと思う。 自殺を強制したにせよしなかったにせよ、軍隊が「その国の国民を守らなかった」ことは事実。 - 想像力はベッドルームと路上から これは反軍思想なんだろうけれども、inumashさんの思想の中でどうなってるのかよくわからないので、直接的にどの箇所がどうという言及は避けたいと思う。とりあえず、ダダッとラフなスケッチからはじめたい。 まず、既にコメント
昨日のエントリ「空気」を気にする日本人の精神主義的教育論 - Backlash to 1984のブクマにいただいたコメントの中から、疑問意見あたりにお答えしたと思います。 (mahalさん) 基本的には、自決手段を与えたことについて「戦陣訓の民間人への不法な適用」だったのか「アメリカ兵が民間人に暴虐を尽くすと考えたため」かの意図なんてのは記録に残るものではなく、歴史の闇の中なのかなぁ。 うーん、意図ですか。手榴弾を与えた意図はおおむね「いざというときは、これで」だったと思うのですよ。つまり意図を問うなら「アメリカ兵が民間人に暴虐を尽くすと考えたため」ということ。だからこそ、住民も「あぁ、いざというときはコレを使えってことか」と受け止めたわけでしょう。もっとも「意図はどうあれ」として、「戦陣訓の民間人への不法な適用と解釈すべき性質のものではないか」というのであれば、それはひとつの史評というこ
歴史教科書における沖縄戦の記述をめぐる検定意見に、またぞろ感情的な反発が起きているようだ。一般人に対して自決するよう軍命令が出ていたわけではないが多数の集団自決があったことは史実であって、それを誤解させないように記すべしとの意見が、なぜに「旧軍の関与を否定した」ことになるのか。このような主張は、それこそ、「集団自決せよとの軍命令があってはじめて旧軍がそれに関与したと言えるのであって、そのような命令がなかったのであれば、住民の集団自決に軍の関与があったことにならない」と主張しているのと同じであろう。つまり右派がそんな馬鹿げた主張をしているのではなく、実は左派こそが主張しているのも同然ではないか。 命令もないのに人が自決したとしたら、その方が余程恐ろしいことではないか! - Munchener Brucke 題名のとおり、そのとおりである。「命令もないのに人が自決したとしたら、その方が余程恐ろ
教育再生会議から出てくる話はつまらないが、それを扱った話にはおもしろいものが多い。このたび、二つのエントリを見ながら、ぼんやり思ったことを書いてみたい。 http://d.hatena.ne.jp/Mr_Rancelot/20070330/p1 僕は教育問題しか語らない政治家を信用しない。教育問題は、往々にしてイデオロギー論争になりやすく、しかも答えは出ない。 信用するしないは個人の信条だからひとまずさておき、近代国民国家の学校教育というものは国政と不可分のものだから、教育畑専門の代議士が議会内に存在することは当然だし必要なのではないだろうか…と、歴史的経緯を思い浮かべつつ私も考えてみた。 もちろん教育問題は重要ではあるが、それはシステムの問題である。費用対効果の問題であり、統治の問題である。心の問題ではない。 私もそう思う。もっとも、(小選挙区など)狭い地域の代表として選出される代議士の
「差別」の語には「ある人がある人たちに偏見をもって蔑むこと」と「あるひとたちが世の中の仕組みの中で不公平な立場におかれていること」の二通りの用法があること、その二種類の用法から生じる齟齬について差蔑ではない差別 - Backlash to 1984で先述した。これについてブクマに寄せられたコメントをもとに、引き続き述べたい。 以下のやりとりをデフォルトとします。 A「それこそ差別だ!」 B「差別していない!」 A「差別する人ほど差別していないと強弁する!」 B「そういう決め付けこそ差別じゃないか!」 …お互い何を言い争っているか、ここでホンヤクコンニャクを出します。 (1)双方が、「差別」に該当者個人の蔑視や偏見を見て取る場合 A「それこそ人を見下した言い方だ!偏見だ!」 B「わたしはあなたを見下してないし偏見なんか持ってない!」 A「偏見で蔑んでいる人ほどそれを隠して言い張る!」 B「そ
「差別」という言葉はもともと、「区別」や「選別」の類義語であった。この用法は今でも「無差別大量殺人」等というときに残っている。ここでは選別しないという意味だ。「誰も蔑視せずに殺しまくる」という意味ではない。もともとは「差別する=蔑視する」ではなかった。昭和のはじめころの文章に「あらゆる主義も教義も差別せずに論じてしまって云々」という表現があるのを見れば、ここでは「区別せずに」とほぼ同義である。「分別なく味噌も糞も一緒に」のニュアンスも帯びているようでもある。いづれかの主義や教義を蔑視すべきなのに…という文意ではない。 それが、いつの時代頃からかはわからないが「蔑む、卑しむ」と同義に使われるようになっている。おそらく戦後の平等教育で、「職業・出身・性別などによる差別をなくしましょう」というとき、それが「職業・出身・性別などで蔑んだり卑しんだりするのはやめましょう」というのと同義であったことと
我が家は団地住まいなので、夜間、子供の室内での大暴れには「近所迷惑だからやめなさい」と口にして躾けてきた。ドカーンバターンギャーッって、小さい子だからやるんだけど、でも夜にはするな、と。けれどそれは、隣近所に嫌われまいとのことではない。たまに顔を合わせて挨拶する程度の間柄であり好かれる必要もない。そのわけは、ひとつには集合住宅の常識として、そしてとくに、我が家の階下に住んでるのは老夫婦で、夜も早いだろうし…ということだ。「下のお爺ちゃんお婆ちゃんが早く眠りたいと思っているのに、上でドスンバタンとうるさかったら眠れんよ?どう思う?」…それを幼い頃から言い続けて、やがて「こらっ、今のは近所迷惑」と言うだけで「あっ」と気付くようになり、そのうちに自分たちで控えるようになりつつある。 電車や店の中で走り回るのとかも同様だ。社内や店内の見知らぬ人に嫌われないようにしよう、というのではない。まして、た
http://d.hatena.ne.jp/fuuuuuuun/20070312/p1 大変に興味深い題材だ。私も素人なりに考えてみた。 「対人恐怖症は日本に多い(固有だ)、なぜかといえば日本文化は恥の文化で…」 というのが、長い間、精神医学の場でも説かれてきたとのこと。これはいわゆる「日本特殊論」だと思う。「これは日本にしかない。そのわけは、日本の文化には云々」という日本人論での語られ方には、「ゆえに日本人の精神文化は素晴らしい」というのと「ゆえに日本人の精神文化には問題がある」というのと二様あって、これは後者に属するだろう。どうも、現代社会の病理の根源を伝統文化のせいにする…という臭いもあり。 「対人恐怖症は日本に多いそうだ」として…実際はそうでもないようだが仮にそうだとして…それをして「日本は恥の文化だから云々」という推察について検討してみたい。 1.では、昔の日本人にも対人恐怖症は
私が田嶋陽子板に参加していた頃、あるフェミの主婦の人といろいろお話したことで忘れられないエピソードがある。その人の語るところ、このような話である。幼い頃、親戚の男から夜な夜な猥褻なことをされた。ものすごく怖くて嫌だった。それをある日、意を決して母親に訴えた。しかし母親は取り合ってくれず、「夢でも見たんじゃないの?」とか「いやらしいことを言わないの」として却下されて絶望したというもの。そのことのトラウマが元で母親とうまくいかない問題があったり、あるいは男性恐怖からレズビアンになっていていた一時期の話など、あれこれのお話があった。 "知的障害者"は合法的に犯罪が許されるのだろうか これは結論から言うと、「知的障碍者に甘い」のではなくて「性被害の訴えに鈍感」なんですよ。 仮に、こう置き換えてみるとわかりやすいかと。 この少年が知的障碍者だったとして、その悪癖が「盗癖」だったら? 「すぐにお尻触る
http://d.hatena.ne.jp/kmizusawa/20070306/p1 この場合の「寛容さを求める」とは、「このような私に寛容であってほしい。このような私に寛容でない人には、私は不寛容でありたい」ということにほからなない。世情、そのような姿勢をこそ「不寛容な考え方だ」と評するのである。が、これまた世情、そのように評するだけであって、そのような考え方を消えてなくなれとか滅びてしまえとまで思い込むことも稀である。それを「寛容さ」という。 …なぁんてね、大袈裟ですね。私もkmizusawaさん同様、こういった言葉が嫌いですよ。でもそのように嫌っている自分もまたそのように振舞っていたりとか、ですね。でも世の中、嫌なものはいっぱいあって当たり前じゃないですかね。嫌なものは消えてなくなれとか言い出したら終り、だと思いますよ。嫌なことだらけ、嫌な人だらけ、そんなん、誰だってそうですよ。
i_oritaさん(以下、折田さん)とMASASCIANTEのお二方のやりとりを、興味深く読んだ。すごく大事なやりとりなのだが、噛み合ってない。お二方とも、大事な点に言及している。しかし噛み合ってない直因は、これはやはり、お二方が未知の話題で議論をしているからにほかならない。だから、続かないと思う。このままでは単発で終わりそうだ。もったいない。そこで、私が論点を整理してみようと思う。 http://d.hatena.ne.jp/i_orita/20070225 ↑折田さんのコレは実にややこしいことになっていて、実は私も、MASASCIANTEと同じ違和感を持っていた。でも、 id:i_oritaさんへの書簡。 - みんな無敵だった、だけど…無敵だった ↑MASASCIANTEさんのコレのやりとり見て、折田さんの言ってることがわかった。 MASASCIANTEさんが違和感を持ったという二箇所
久しぶりに凹んだけど、割と早く立ち直った。立ち直りのきっかけの言葉も、ありがたかった。自分の言葉で凹んで、他人の言葉で立ち直る。ありがたいことだと素直に思える。おっちゃんになって良かったと思うことの一つは、こういうことだ。年を食うのも悪くないね。というわけで、障碍関連の話を続けてみる。 http://d.hatena.ne.jp/kmizusawa/20070227/p3 海外のことは知らないが、日本でアスペルガー症候群が一般にも知られるようになったのはここ数年のことだ。今成人で診断されてる人の中には成人してから診断された人が多いと思う。アスペルガー成人の人が書いたものを読むと、子どもの頃から違和感を覚えていたけどそれがなぜなのかどこが悪いのかさっぱりわからず、わからないまま周囲にあわせようとして混乱したということがよく書かれている。この男性も、成人してから診断を受けて、それまで我慢してい
昨日のエントリについて、ブクマでwackunnpapaさんより過分なお言葉をいただいた。 何だか,読んでホッとさせられた.すぐれた論考だと思う.現場で咄嗟にここまで考えられるかと問われると,自信は無いけど・・・・・・. 要領を得ない長文に、そのように言っていただけると…。ただ、私も、もしそこに居合わせたら、自信はないです。まして、私が喧嘩の当事者であれば、かな〜り、怪しいです。どちらかというと、現場を離れたところの、現在のウェブ内で交わされている意見に、私の主眼はあります。かえるさんの当該エントリのブクマコメ欄、udyさんの そんなすれ違いの積み重ねから醸成される空気 …というひとことにインスパイアされたと言いますか。そこで、もう少し続けます。 私も、まず謝るべきだと思う。 - ねこの日々 - ブログ版 私もそう思う。もし先方のお母さんがいち早くかえるさんの娘さんに駆け寄って、「大丈夫?ご
何かと言えばすぐ差別だ差別だというアレの問題は、私も同感なのだが、北沢かえるの働けば自由になる日記←その日の出来事そのものは、お二方のお母さんどちらも、私はさほどに非難する気にはならない。なぜって、母親が咄嗟に「我が子を守るため瞬時に鬼と化す」のは、これは仕方ないだろう。誰が何と言おうが、我が子へのいきなりの攻撃に対しては身を張って阻止しようとする、咄嗟の行動。また、子にとっても「何があっても、お母さんだけは自分を守ってくれる」という安心感は、幼少の頃にはあったほうが良さそうだ。もちろんお二方ともエスカレートしてからの部分は「これでこそ良い」と言えるものでもないが、父親や第三者による、ことの内容の良し悪しその他の助言や苦言は、お二方の咄嗟の言動を責め立てることではないはず、と思う。まずは、お母さんどうしのこの種のぶつかり合いそのものには、母親という立場や感情に寛容であってほしい。次なる話は
政府権力による住民の強制退去というと、私が真っ先に思い浮かべる映像がある。南アフリカ共和国のアパルトヘイトを扱った映画、『遠い夜明け』の冒頭シーンである。夜が明け始め、曙光の薄明かりの中、人々の生活の音が聞こえ出す。まだ暗い、青い背景の中で黒い人影が動き出す。黒人居住地のごく普通の、一日の始まり。そこへ、急に悲鳴と怒号が沸き起こり、人々が逃げ回り家屋が振動して倒壊していくシーンに変わる。何台ものブルドーザーが次々に家々を潰していく。…当時は白人政府によって、黒人は国内のわずかばかりの土地に「ホームランド」という居住権のある土地を指定され、それ以外の都市郊外の黒人スラム街は不法占拠ということで、たびたび強制退去させられた。映画のワンシーンそれ自体はフィクションだけれども、アパルトヘイトがあった頃、実際にこのような光景は幾度も繰り返されたろう。 ホームレス支援者についての当方の意見に、moji
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