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CES 2025
azumy.hatenablog.com
子育てに唯一の正解はない。同じ誰かにとって、AでもBでもZでも、αでも1でもおおむねうまくいくだろう、ということはしばしばある。 明らかな間違いというものはありそうには思うが、ある誰かにとっては「明らかな間違い」であることが別の誰かにとっては「全然間違ってない」場合もある。 頭で考えて子育てするのは大事なことだが、頭で子育てして行き詰まったら、頭を使わないところに立ち戻ることも大事。 なにしろ相手は人間なので、他人が自分の思うようにならないと同様、まるっきり思うようになどならない。子どもがどういう人間になるかは複合要因なので、結果だけを見て子育てがうまくいったかいかないかを気にしてもあまり意味はない。 よそはよそ。うちはうち。あのひとはあのひと。わたしはわたし。 自分の感覚を育てよう。自分の感覚も信じるに足る支えとできるように。
タイトルは、よく、子ども叱るときにこう言っちゃいけないだろ、と言われる典型例の1つ。おじちゃんでなくても、おばちゃん、お兄さん、お姉さん、だれでもよいのだが。 よその人が叱るって言うんじゃなくてちゃんと親が自分自身で叱れよ、とか、よその人に叱られるからじゃなくて、どうしてそういうことをしたらいけないのか、ちゃんと親が説明しろよ、とか、子どもの躾に関係ない他人を巻き込むなとか、そういう文脈で否定されるものだ。 長らく自分もそう思っていたんだけれど、いざ子どもを叱る立場になってみると、どうしてもこの言い方を使いたくなるときもやっぱりある、ということがしみじみ分かってきた。 小さな乳幼児のうちはともかく、少し大きくなってきて6歳前後になると、叱る内容が複若干複雑になってくる。「危険だからだめ」「汚いからだめ」といった直感的に分かりやすいことだけでなく、「周りに迷惑だからだめ」「他の人が困るからだ
しましまタウンが全面的に閉店するそうだ。 http://blog.benesse.ne.jp/hiroba/blog/go/shimashima/index.html しましまタウンとは「こどもちゃれんじ」のしまじろうをメインキャラクターとした室内型の小型テーマパークで、未就学の幼児が対象*1とか、毎日しまじろうのキャラクターショーをやっていて着ぐるみと一緒に写真撮影ができるとか、店内にいる職員のお兄さんお姉さんがよく子どもたちに声をかけてくれるとか、いつも綺麗にしてあって安心して子どもを遊ばせられるとか、とにかくいろいろと子どもが小さいころにはありがたくお世話になった。 いつ行ってもけっこう人がいて、しばらく行かずにいると新しいフィーチャーがあったりして、何度行ってもそこそこ面白いので、ときどき思い出したように「しましまタウン行こう!」と子どもに言われたなあ。 個人的にはとても好きな施設
子どものころ、若かったころ、自分の目に映る母の姿は、なんとも保守的に見えた。 私は本を読むのが大好きだったし、父はよく本を読んでいたけど、母はほとんど読まなかった。読むのは、婦人雑誌や料理のレシピ本くらい。それも、自分が思春期になるころにはほとんど読まなかった。 私には読書を薦めるようなことを言うので、「お母さんは本読まないの?」と訊くと、「ちょっと読むともう目がチカチカして、頭痛がしちゃう」といつも答えるのだった。 また、母は私に比べると、漢字やちょっと凝った言い回しをあまり知らなかった。テレビのクイズ番組などを見ながら、「あー全然わかんないー、azumyはよく分かるわねぇ」と言っていた。雑学知識も、私のほうがよく知っていた。 母は生まれてから今に至るまで給料をもらう仕事をしたことがなく、ずっと専業主婦だった。何かにつけ「私は分からないわ」「私はダメだわ」「あなたはすごいわねぇ」と言い、
正しさって一つじゃない。 他人の言ってることを見ると、ああ、なるほどな、それは正しいな、と思う。 しかし、それと対立する意見を見ると、ああ、そういう考え方なら、それも正しいな、と思う。 唯一の正しさ、というのはよっぽどなくて*1、その立場、周囲の環境、その思考を育てるに至った経過などで、いくつもの正しさが生まれる。 しかし、ああ、それも正しいよね、ああ、そっちも正しいよね、と言ってるだけでは、ただの中身空っぽのコウモリだ。自分は自分で、自分自身の正しさをもっていなくてはならない。そうでなければ、正しさを判断することができない、極めて不安定な、常に揺れ動く存在となる。それは往々にして、自分自身だけでなく、周囲の人間まで巻き込んで不安定にする。好ましい状態とはいえない。 だが、かといって、これが私の正しさです、というものに固執し、てこでも動かない、となると、これはこれで大問題。なぜなら、自分の
今日はポケットモンスター・プラチナの発売日ですね。この時間ですのでまだ我が家は入手しておりません。予約してあるので品切れの心配はないですが。 というのはマクラで。 この夏のこと。 夏休みにあわせて多数のゲームソフトが発売になり、私もある日、そのうちの1本を買いに行ったわけです。近場のゲーム店に。 そこは、PCショップとゲーム売り場が併設になっており、こんな田舎には珍しく、PCパーツやちょっと変な周辺機器類などが充実していて、そういう意味でもありがたい、行きつけの店です。まあ、そういう店なので、ゲームを買いに来る人ばかりではなく、PC関係で来る人も多く、客層はやや高齢のおじさん層から若年層、子連れファミリーに至るまで、多岐にわたっています。 その日のお客さんもそんな感じでした。特にソフトの発売曜日というわけでもなく、時間的にも中途半端な平日の昼間だったのですが、ちょこちょこお客はいました。
婚活大学|タイプ別お見合いパーティー&婚活サービスを探そう! 「のはらしんのすけ儀塾大学」なるサイトが突如オープン。 もしも娘ではなく息子が生まれたら「しんのすけ」と名付ける予定だった私が見逃すはずもない。 まあ、ざっと見ると「なんぞやこれwwwネタwwww」と思うんだけど、微妙に単なるネタで終わってないところもある。 例えば、この学部/学科紹介のページで、汐見稔幸先生の名前が監修として出ていること。この方は育児関係の本をたくさん書いている有名な先生でもあり、わざわざこういう人を引っ張ってくるあたり、ただの一時的なネタサイトのつもりではないような気がするが…… と思ったらですね、こんな本が既に出版されていたりするんですね。 子育てにとても大切な27のヒント―クレヨンしんちゃん親子学 作者: 汐見稔幸,野原しんのすけ一家出版社/メーカー: 双葉社発売日: 2006/04/01メディア: 単行
2学期に入って、ようやくちょっと書く余裕が。 子どもができて初めて気がつくことや、やるようになってことってちょこちょこあるんだけど、学校や幼稚園に通い始めて日常的にやるようになったこと、というのもある。 意外と盲点だったりするようなので、2点ほどメモ。 1. 1000円札、500円玉、100円玉をためこむようになった とにかく、細かいお金をぴったりで払わなくちゃならないことがたびたびあるようになった。対面で払う場合はお釣りがもらえるから問題ないのだが、学校や幼稚園(たぶん保育園もそうだと思う)の場合、指定された額を集金袋に入れて持たせる形式がしばしばあるのだ。しかも、けっこう細かいオーダーで。 我が家の場合、幼稚園の給食費が毎月4900円というのが一番ネックだった。100円値上げしても、5000円にしてくれたほうが嬉しいよ、正直。しかも、昨年はそれが2人分だったので、毎月必ず1000円札8
私はね、ある程度、曖昧でいい加減な人間でいたいと思ってるのよ。 この間言ったこととちょっと違うこと言ったり、でも前に言ったときは本当にそう思ってて、今は今言ったことを本当にそう思ってるんだし、どっちも違ってないんだけど、っていう人間がいいなぁと思ってるのね。 もちろん、仕事だとか子どものことだとか、家のことだとか、そういい加減ではいかん分もあるので、そういうところはちゃんとするようにするんだけど、まあどっちでもそう困るわけじゃないよとか、どっちも間違っちゃいないよ、とか、そういうことに関してはけっこう曖昧な自分でいたい。 なのだけど、言葉を使うと、途端に曖昧さが減ってきて、だんだんと細かく突き詰めるようなことになってしまって、なんだか思う方向と違うことになってしまう。 「あれとって」では通じないから「テーブルの上のお皿とって」になるけど、それでも通じない場合には「台所のテーブルの上にある青
ブログの記事に猫と子どもが一緒に遊んでいる写真を載せて「ねぇ、かわいいでしょう」と一言書いたとする。 これに反応して、「自分もかわいいと感じた」という主旨のコメントを書くとする。 いろいろな書き方はあるが、骨子としてはこんな感じかな。 「うわあ、ほんとかわいいねぇ」 「うん、この猫(子ども)かわいいね」 「かわいいって、猫のほう? 子どものほう?」 1.は、ディスコミュニケーションがある可能性がある。記事の筆者が何をかわいいと感じたのか、記事だけからでは分からない。だが、何かをかわいいと感じて記事を書いたことは確かなのだから、筆者の内心には「○○がかわいい」の「○○」は明確に存在しているはずだ。しかし、コメントを書く側は、その○○がいったい何なのか、猫なのか子どもなのか、分からずに同意していることになる。そして、筆者の側は、コメントを書いた人が、「○○」が何なのか分からないにも関わらず同意
「『育児』は『育自』」という言葉が嫌いだ。 子どもを育てることによって、自分自身もまた変わって成長してゆくものである、という主旨は諸手を挙げて賛同する、というか、全くその通りだと思っている。 が、「育自」という字面が嫌いなのである。 「育○」という単語において、「育」は「(自然に)育つ」という自動詞ではなく、「(対象を)育てる」という他動詞として働くことが多い。例えば、「育児」以外にも、「育種」「育毛」「育英」など。 このため、「育自」という単語を見ると、とっさに「自分を育てる」と読んでしまうのだ。 ここで、私は引っかかってしまう。育てるのは、誰? 普通に考えると、育てるのは自分自身だろう。「子どもに育てられる」という言い方もあるが、これは現実には、子どもとの関わりや子育てという行為を通じて自ら成長する、ということであり、子どもが親の世話をしたり導きをしたり、ということではないので、あくま
こんなことをふと思ったのは、あるところで、自分の告別式にどんな曲を流したいか? という話題があったことたらだ。生前お別れ会ではなく、一般的な告別式での話だ。 自分は棺桶の中にいるのだから、もちろん、その曲を聴くことはできない。曲を流すのは、参列者のためだ。まあ、故人は生前、自分の告別式ではこの曲を流したいと常々言っておりました……とアナウンスしてもらえば、自分(故人)の主張を伝えるという意味もあるんだが、その場の様子を窺えない以上、やはり結婚式でどんな曲を流したいか、とはちょっと違う意味合いかなぁという気はする。 告別式で故人が選んだ曲を流すのは、故人の死生観を表現する、という意味合いが強くなる。私は死について、死による別れについてこう感じています、というような。曲の選び方によっては、私(故人)は死に対して恐怖は感じていなかったよ、とか、私は死んでもみなさんのそばにいるよ、とか、私は死んだ
今、小学1年生の親、というやつをこの春から始めている。 生まれて初めてやっている。 自分もかつて小学1年生だったことがあるが、あまりよく覚えていない。その時のことは全く参考にならない。そもそも小学校自体、自分の子どものときとは随分と違う。……ような感じがする。初めて見ること、初めて聞くこと、初めて心配することばかり。 2年後には、また1年生の親をやる予定だ。そのときには多少なりとも慣れているだろうか。 しかし、その時には、今度は小学3年生の親を初めてやっている予定でもある。 2回目の、幼稚園年少児(新入園児)の親をやったときは、やはり2回目ということもあって、ちょっとは慣れがあった。しかし、その年は、幼稚園年長児の親を初めてやっていた。幼稚園PTA役員も初めてやった。同時に、2人の子が幼稚園に通っている親、というのも初めてやっていた。やっぱり初めてだらけだった。 やっと慣れてきたかな、と思
よりたくさんのこと、より詳しいことを伝えようとすると、饒舌になりがちだ。 言葉を綴る自分は、あれも言いたい、これも伝えたい、これを伝えるためにはこちらもで前提として伝えておかなければならない、そうすると関連してこれも言うと分かりやすくなる、と思いつつ、どんどんと言葉の量が増えてゆく。 しかし、言葉の量を増やせば伝えられる内容が増えるというものではなく、結局そのうちのごく一部しか相手には伝わらない。前提だけが伝わっていたり、主題ではなく関連内容だけが伝わっていたりすることも往々にしてある。 それでよく言われることには、推敲して短文にしろ、という。 たしかに全体の内容としては分かりやすくなる。本当に伝えたいことだけを言葉にするから、伝えることに関わらない無駄な言葉は減るし、そのぶん言葉の量に比して伝わる内容の割合は大きくなる。 しかし、だからといって、長い文章よりも伝えられる内容の量が多くなる
思考を停止する、と、思考を終了する、は同義語ではない。 一旦停止して、また動き出して、赤信号にあえば停止して、青になったらまた動き出して。 走り続けていればやっぱり息切れしたりエネルギー切れしたりするので、休憩して、また走り出して。 思考停止したっていい、またいつか動き出せる時がくる。完全に動けなくなる前に生物的な死が先にくるだろう。
数日前から話題になっている、この話。 学校裏サイトで娘が実名で攻撃され、父としてメールを送ってみた。:けんじろう と コラボろう!:オルタナティブ・ブログ 娘を攻撃する学校裏サイトに親としてメッセージを書いた結末:けんじろう と コラボろう!:オルタナティブ・ブログ 娘を攻撃した学校裏サイトでの「いじめ」が解決した~子供のネット規制は禁酒法時代の二の舞か?:けんじろう と コラボろう!:オルタナティブ・ブログ 「学校裏サイト」と正面から対峙した保護者の話として、興味深く読んだ。 ブックマークではいろいろと言われているようだが、この父娘がとった手段としては、やはり最も適切なやり方のうちの一つだったんだろうな。 このお父さんとお嬢さんには、上記3記事から読み取れるだけでも、以下のような特徴がある。 父娘の関係がよく、安定しており、忌憚なく互いに会話できる。 お嬢さんは知的で聡明、自分の危機にも
学研が小学生むけ月刊誌「学習」の廃刊を検討しているという記事を読んだ。 http://mainichi.jp/select/biz/news/20080510k0000m020052000c.html NIKKEI NET:学研の「学習」消える?・小学生向け雑誌、廃刊検討 毎日と日経では少しずつ記事の重点が異なり、毎日では訪問販売の撤退の検討を主に。日経では「学習」廃刊、「科学」存続の検討が主に書かれている。 ここのところ経営難や買収されるかも?といったニュースが出ていた学研。 70年代の学研の輝きを知っている者からすると、こういうニュースは寂しかった。少子化というのも確かにそうなんだけれど、学研の商品の輝き自体がだんだんと鈍ってる感も正直あった。経営が苦しいから、制限が強くなって充実した企画を打ち出せず、どんどんと内容も縮小していってしまう、ということもあるのだろう。 夫婦して幼少時「科
気持ちが鬱々するというか、抑鬱方向に気持ちが向かうのは、自分が頑張っても事態が動かないことが見えているときに起こりやすい、かもしれないと思う。 自分が頑張ったらなにかの成果が出る、状況がよい方向に動く可能性がある(動かない可能性もあるし、悪い方向に動く可能性もあるのだけど)、という場合は、なんのかんの言っても頑張れるし、それほど気持ちは落ち込まない。 しかし、自分以外の要素が多すぎて、自分がどう頑張っても事態が動かない、そしてその事態は自分にとってとても嫌な状況だったりすると、気持ちが落ち込み、捨て鉢な気分になる。他人に自分が動かされている感が強くなるにつれて、抑鬱気分が強くなる。自分がしたくないことを、どうしてもせざるを得ない。その状況から抜け出すことも当面できない。そう感じると、どんどんと深みにはまってゆく。 自分に主導権がない、自分が考え動くことがなんの足しにもならない、自分の嫌な状
娘が小学校に入学して、ざっと新1年生を眺めて思ったことの一つが、意外と眼鏡をかけている子が多いな、ということ。 自分の子が眼鏡っ子であることもあって、同じくらいの年齢の子が集団でいると、眼鏡をかけている子にどうしても目がいく。 実は、幼稚園のときも、意外と眼鏡をかけている子はいるんだな、という印象があった。幼稚園は1学年が100名前後(けっこう大規模)。そのうち、うちの娘を含めて、数名の眼鏡っ子がいた。 入学してみると、1学年が120名弱となったが、その中でもやはり何人かの眼鏡っ子がいる。割合的には数%で、やはり幼稚園のときとそうかわらない。 別に多くないといえば多くないのだが、自分が小学校低学年のときのことを思い出してみると、眼鏡っ子は増えている気がする。当時は子どもの多い時代で、1学年は240名くらいだった。仮にその3%としてみても、7名の眼鏡っ子がいる計算になるが、そんなにいた記憶は
上の娘が入学して数日。日本の小学生の親がみな一度は通るこれがやってきた。 さんすうセット。 あちこちから噂は聞いていたので、正直、戦々恐々としていた。曰く、細かいおはじきに一つ一つ名前を書かなくちゃならない。細い棒に一本ずつ以下同文。小さなカードがたくさんあって以下同文。そういうパーツが山ほどあって書いても書いても終わらない。など、など。 さて、本日我が家にやってきたのは、このセット。 2枚目の写真はサイズ比較のためDSと並べてみた。なんか、自分の小学生のときの記憶を追うと、もっと大きな箱に入ってくるもんだと思っていたので、拍子抜け。小さい。携帯性抜群。 で、中身はというと、この写真に載っているピンクまたは水色の●の描かれたブロックが20個。ブロックが10個ずつ収められるスライド式の板2枚。そのブロックと同じサイズの絵が10個並んだ大きさのカード(ブロックの上に斜めに置いてあるもの)が10
気持ちはわかる、という言い方がある。 誰かが悩みを話していたり、愚痴を言っていたり、なにかに文句を言っていたりするときなどに、使うことがある。 言われた側は、気持ちはわかるって言うけど、本当に私の気持ちなんてわかるもんか、と反発を感じたりすることもある。 それは当たり前で、気持ちはわかる、という言い方は、あなたの感じたことは私も同じように感じますよ、ということではないのである。この「わかる」は「了解できる」であって、つまり、自分が同じような立場に置かれたら、そのような心境になる可能性はあると思う、という意味だ。言う側も、相手の気持ちを丸ごと受容しているわけではなく、あくまで1つの可能性として了解可能だ、というだけのことである。 気持ちはわかる、は、気持ちがわかる、ではない。 気持ちはわかる、と思うことはある。 そういう場合、往々にして、気持ちはわかる、わかる「けど」、とつながる。
suVeneのあれ: 「何故ですか?」「理解できない」に潜む否定的意味 こちらを読んで、ふと思ったこと。 子どもはやたらに「なぜ?」「どうして?」と言う。 子どもにとっては、世の中にはどうしてだか、なぜだか分からないことがたくさんあって、それを知りたいと思うからだ。それは他人の心理や行動に対しても同じことで、「どうしてお母さんはこう言ったの?」「どうしてお父さんはそうするの?」ということをあまりタブー感なく言う。 やがて、いろいろなことを学習して、ものごとの仕組みや理由、からくりが分かってくると、「なぜ?」「どうして?」が少なくなる。一つには、分からないこと自体、身近な範囲では少なくなってくるということ。もう一つは、自分がすでに知っていること、分かっていることを材料にして、今分からないことを推察したり考察したりして、自ら「分かる」ことができるようになることがあるのだろう。 と同時に、周囲の
同じ文章のはずなのに、しばらく市販の本を集中的に読んでいると、ネットにある文章の文脈が読み取れなくなっている。 また、ネットの文章ばかり読んでいると、久しぶりに本を読んだときに、なぜか引っかかる。読みづらく、読み取りづらく感じる。 普段は気がつかないけれど、これらはどこか異質なものなのだろうか。 そして、本を集中的に読んだあとは、しばらくネットに書き付ける自分の言葉も出なくなる。本というインプットがあるはずなのに、アウトプットにつながらない。 書評をたくさん書いている人もいるので、そうでない人もたくさんいるのだとはわかっているけれど、どうも自分の中では、本を読むときとネットで文章を読むときとでは、使っている脳の分野が違うらしい。
先日、衝撃的なことが判明した。 6歳の娘は、「きんたま」という言葉を知らなかった。 気がついたきっかけは、ポケモンだ。ゲームのポケモンには「きんのたま」というアイテムが出てくる。言葉通りのもので、店に売ると高く売れるよ、というただそれだけのアイテムだ。 私はスレた大人なので、別に金の円盤とか宝石とかでもなんでもいいのに、なんでよりによってきんのたまなんだろう、と思ってしまうわけだが、娘はいっかな気にすることもなく、きんのたま、きんのたまと口にする。女の子がそんな言葉を大声で連呼するもんじゃないよ、とこれまたスレたお母さんは思うのだが、はっ、もしかして娘はそれは女の子が大声で連呼すべきではないニュアンスの言葉だ、ということに気がついてないのではないか、と、これは私のほうが気がついたのだった。 そこで私は機会をみつけて「ねーねー、娘、あんた『きんたま』ってなんだか知ってる?」と聞いてみた。案の
小学生はダジャレが好き。 とピンポイントで言い切ってしまったが。未就学児だとまだ十分にダジャレを楽しむには語彙も言語能力も足りない。中学生になるとダジャレでは笑いが物足りず、むしろ「さむっ」と冷やかな目になる。というわけで、ピンポイントで小学生。 それにしても、小学生くらいだと、もう聞き飽きたよ、ってくらいのダジャレでも大笑いしてくれる。何度でも言って笑う。特に小学生男子(とこれまた限定してしまう)。 きっと、ダジャレの言葉感覚がまだ斬新に感じるのだろうと思う。ダジャレで活用されるのは同音異義語だったり、音が似ている言葉だったりする。音が同じ、あるいは似ているのに意味が全然違う! 意味が違うのに音が同じ! そんな発見がまだまだ新鮮なのだ。 昨今、小学校で読書タイムをもうけたり、小さい頃から読み聞かせをしたり、というのがよくある。本を好きになってもらいたい、という大人心。 で、そういう話と関
しばらく前に「ほっこり」という言葉が苦手、という話が発言小町であった。 ほっこりが苦手 : 生活・身近な話題 : 発言小町 : YOMIURI ONLINE(読売新聞) 個人的には「ほっこり」自体は嫌いではないけれど、使う場面によっては強い違和感を覚えるときがある。 例えば、単に「ほっこりが好き」とか、そういう話なら別にどうということはない。しかし、「ほっこり」に妙な付加価値をつけているような文脈だと気になる。「ほっこりっていいでしょ」「ほっこりだから素敵でしょ」という感じの。 妙な付加価値をつけるための造語、あるいは以前からある言葉に対して別の意味をつけるやり方、というのは、往々にして、あまり評価されていないものに対してその言葉をあてはめることで、実は評価されるものなんだよ、という価値の逆転を意識している場合があるように感じるのだ。 「ほっこり」については、私から見ると、野暮ったカワイイ
人は、内面について、100%「きれい」でいるなどあり得ない。多かれ少なかれ、心ばえの「きたない」面をもっている。 けれどまあ、モラルとか見栄とかルールとか思いやりとかバランス感覚とかいろいろあって、「きたない」面はあまり他人に見せないようにして暮らしている。開き直って「きたない」ところをあからさまに出しているように見える人でさえ、すべての「きたない」面を出しているわけではなく、どこかどうしても表に出せない部分をもっている。 100%「きたない」ってことも、またあり得ない。 要は、「きたなさ」をどこまで表に現すか、の程度の違い。 もう一つは、どこでなら「きたなさ」を出していいのか、という場の認識の違い。 なのに、「きたなさ」を現している人に対して「そんなことを言う(する)とは、お前はなんてきたない奴だ」と言ってしまう場合が、しばしばあるような気がする。 「きたなさ」はあって当たり前、ただそこ
気がついた。 自分が書きたいことを書いているんじゃなくて、自分が読みたいことを書いている。 書くのはたった1回だけど、読むのは何度でも読める。 こうして書くのは、書くためではなくて、読むためだ。今は読まなくても、やがて来る将来に読むためだ。自分の読むものをここに溜めている。
最近考えてるのは、同質性についてのこと。これはKY関連に通奏低音のように響くものだから。そこから引き続いて頭の中で鳴っている。 人間は同質性の中に安定を見いだす存在である、のじゃないか、というところまではなんとなく分かってきた。 多様性の尊重は個々の人間を過ごしやすくしてくれるけれど、その基盤には同質性があって、すべての同質性が失われると(それはまずあり得ないことだが)極めて不安定な状態になり、結果的に多様性を認容できなくなり、強固な同質性への回帰が起こるのではないか、と。 しかし、同質性が強ければ、やはりその同質グループ内での個々の人間の異なる部分が目立ってきて、やがて多様性尊重への牽引力が強くなる。 結局、そんな感じで、それぞれからの引力の釣り合うあたりで、同質性への引力ベクトルと多様性への引力ベクトルがそれぞれの方向へ綱引きしあい、あちらへ動き、またこちらへ動き、と細かい動きを繰り返
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