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2018年5月21日月曜日

FangamerでUndertaleのTシャツとかアートブックとか買った

ちょっと前に駿河屋でUndertaleのアートブックが高値で売られているのを見て、検索してみると、Fangamerというショップで定価で注文できるということがわかった。Fangamerっていうのはアメリカで主にインディーズゲームのグッズを作っている会社で、日本にもストアがあるのだけど、品揃えがアメリカの方がかなり豊富っぽい。UndertaleのTシャツなんかは日本でも買えるけど、前述のアートブックやSlime Rancherのグッズは日本のショップにはなかったので、アメリカから注文してみた。

支払い後にSlime RancherのTシャツが欠品していて、返金かサイズ変えるかみたいなやり取りがあって返金してもらったみたいなことがあったりもして、注文から二週間ちょいで届いた。ちなみにサイトはアメリカ版でも日本語表記があるんだけど、問い合わせのやり取りは英語だった。


これは日本のショップでも売ってるSansのTシャツ。
ファンアイテム的にカッコよくて着るのもったいない。


アートブックは割と折れた感じで届いた。とはいえ海外からだとこんなもんだろうと思う。かっこいいんだけど、表紙が傷とか付きやすそうな感じで、本文の紙も薄いので、気になる人は2冊買いするやつだと思った。


内容は一番最初のアイデアスケッチみたいなものもあって非常に良い。
これくらい荒っぽい状態から作って行くんだなー! っていう感動が有るし、自分もこれくらいから始めようという気持ちになる。良本。


長男の大好きなSlime Rancherの鍵のキーホルダー。結構重たくてしっかりしてる。
これで開けられる錠の方を作って欲しいとの無茶振りが有った。


その他おまけ。
Annoying dogとGaster Blasterのシールが嬉しい。

インディーズゲーム好きみたいなアレだったら欲しくなるアイテムでいっぱいなのでオススメ。Cook serve deliciousのTシャツとかもあったらいいのになー。

2018年5月14日月曜日

電子の海底の決着、あるいは、10年前に投げた球にデッドボールを受けた話

その昔、今はもう懐かしいホームページ、みたいなものを作っていて、それが電子の海底というWeb小説のサイトでした。当時、私は小説家になりたくて、というより、おそらくはあまりに酷い労働環境でゴミの用に扱われていることが辛くて、自分が小説家になるという夢を抱いていました。

とはいえ、月の手取りが13万くらいで、残業代も出なければ、来る案件は大半炎上しているようなSIerで働いているのは辛くて、いつのまにか小説を書けなくなっていました。自分の書くものに、常にこれではいけない、これはつまらないというような強い批判精神みたいなものを持ちすぎたこともあるのかなと思います。それは上手くなりたいから、とにかく自分に厳しくあろうと思い続けた結果でしたが、そのうち小説を書くのは私にとって苦痛になりました。今も、月日の経った今ですら、小説を書きはじめようとすると手が止まります。
私は、仕事でも、日々の行動でも、絵を描いたりすることでさえ、とにかく滅法手が早く、止まることなどほぼ無く、それだけが殆ど自分の取り柄というべき人間なのですが、小説だけはビタッと手が止まります。
そんなわけで、電子の海底は閉鎖されました。直接的な原因がなにかあったのか、よく思い出せず、自分の持っている範囲での過去ログを探してみたりもしたのですが、小説はともかく日記は残っておらずわかりませんでした。ただ自分が覚えていないくらいなので、なんとなくそんなものはなかったような気がします。電子の海底は、たぶん、ふわっと終わったのではないかと思います。

それが約10年ほど前です。

私はその後、会社を辞めて職業訓練に通ったり、派遣社員になったり、また雇われたり、結婚したり、子供も二人生まれました。10年というのはそれくらいの時間です。私はもう自分が個人サイトでWeb小説を書いていたことなど、ほとんど綺麗サッパリ忘れて、その後ニコニコでちょこっとだけウケた技術部動画を上げたり、未だに多少のアクセスの有る艦隊くりっかーの作者である、というようことでネット上のアイデンティティの構築をしていたような気がします。変なことをしている技術者のおじさんというのが、自分の代表人格であるように感じていました。
現実の知り合いには、私が小説を書いていたことを知っている人は居ますし(というか妻もそれ以前からの付き合いなので私の書いたものは大半読んでますし)、自分が小説家志望のやせっぽちだったことは隠しようもない事実なのですが、10年の経過が私を小太りの技術者に上書きしていました。
覚えてはいても、その事実は今の自分と地続きではない。
もう誰も覚えてやしない。それは死んだのだ。と。
そんな感じがしていました。
すくなくとも、だいたい10年間はそんな感じだった。

10年を迎え、いきなり風向きが変わります。

今年の2月に、ツイッター上で私の小説を読んでいたという人に話しかけられるということが発生しました。WebArchiveから登録したまま放置していた他のサービスを経由して、私のツイッターアカウントを見つけたとのことで、私の書くものが大好きだと言ってくれました。私は大いにうろたえ、同時に喜びました。何がおこるかわからんもんだ、と思いました。そりゃ何人かは私の小説を読んでいた人も居るだろうけど、まさか10年もしてから声を掛けられることがあるとは。
これだけでも何年もの間、小説を書き続けた甲斐があった。
私はその出来事を、プライベートな日記帳に書き留めて、もうこんなこともなかろうと思いました。これで、あのブラック企業に勤めていたころの思い出も、これでハッピーエンドになったのだと思いました。
やったな、10年前の自分。君は小説家にはなれなかったけど、そこそこ幸福な技術者にはなれるし、10年経ってもまだ君の作品を覚えてくれている人もいるよ。
まったく身に余るくらいのラッキーとハッピー。これ以上望むべくもない。



しかし、おかしなことは立て続けに発生するものです。

それがこれ。



なんか、結構有名っぽい人にWebArchiveのたどり方まで含めて紹介されとるー。

自分の書いた小説を公開したり、動画で喋ったりする人間なので、基本的に自分のやったことを黒歴史と思ったりもしなければ、それを公開したりすることにもさほど抵抗はないんだけど、さすがに狼狽した。何が起こるかわからん。わからなすぎだろう。人生。

正直なところ、私は面白がっています。たとえば貴方が、若い頃の衝動に任せて中二病っぽいノートを書いて友達に見せていたとして、10年後の同窓会にそれを友達が持ってきていたらどうか。
それで馬鹿にされたら辛いだろうけど、面白くてずっと持ってたと言われたなら、恥ずかしいながらに、なんだか誇らしいような気持ちがするのではないでしょうか。それが、私の場合、インターネットを経由して、10年前には存在していなかったVTuberの放送の形になって戻ってきた。投げたボールが10年経ってめちゃめちゃ曲がって、ついでにドローンになって帰ってきたような感じ。それってなかなか面白いなと思ったのでこのエントリを書いてみました。
こうして書いたエントリが、またどこか、もしかしたら、まだどこかにいるかも知れない私の小説を覚えてくれている人に届けば、本当に嬉しいなと思います。そうなれば本当に愉快です。



小説を書いていてよかった。
私は人生の夢に破れたのだと思っていた。人生の10代の後半から、20代いっぱいくらいを無駄にしたと思っていた。自分のサイトに載せるだけの、どこに発表するでもない小説を書き散らすだけ書き散らして、そのうえ書けなくなってしまって、もっと上手くやれば小説家になれたかもしれないのに、そうならなかった。失敗したのだ。
しかし、それは無駄ではなかった。
この広い世界に、ほんの何人かでも、私の小説の読者がいて、10年過ぎても、まだ覚えてくれているのだ。そういうことを夢想したことはあっても、本当にそんなことがあるとは考えもしなかった。嬉しくて、嬉しくて、手が震える。私のすべての創作は報われたのだと思う。
ほんとうに、小説を書いていてよかった。

読んでいてくれて、好きでいてくれて、本当にありがとう。



P.S. 最終回あります

2018年5月3日木曜日

やる気を落とさないでものを作る

ものを作るのが趣味である。ただ、いつでも上手くやってこれたわけじゃない。特に大きなものを趣味で作るのはかなり厄介だ。というか、半年とか一年とかかかるサイズのプロジェクトを個人で最後までやり遂げたことがない。
(そもそもそのサイズのものをやろうとすることは殆どないけど)

仕事では、数年とかかかるような仕事でも途中で放棄するようなことはない。これは言うまでもないことだけど、金がもらえるし、締切があるし、自分だけでやってるわけじゃないからだ。翻って、趣味でやってることは金にならないし、締切がないし、自分だけでやっている。とはいえ、それをどうにかするのは難しい。

最近ふと思ったのが、自分が趣味で大きいものをやるときには、仕事では全く考えない要素を意識しなければならないのではないかということだ。つまり、自分のやる気を落とさないということだ。こう書くと当たり前な気がするけど、それは単純にやる気を出して頑張る、とかいう単純な精神論ではなくて、設計したり実装したりするときの検討事項の中に「それはやる気を無くさずに出来るか」ということまで考慮に入れるということだ。
これが出来ればやる気が出るから、先にやったほうがいいか、であるとか、設計的には無様になるが、やる気が無くなりそうな箇所を短縮できるからやってしまえ、とか、そういうことを、この設計は拡張性があるか、とか、この設計は負荷が増えても問題ないかとか、そういうことと同列に考える必要があるのかもしれない。

「たぶん拡張できないけど、拡張性確保できるまで作り込むとやる気失せそうだな」と。

もちろん設計とか実装を手抜きしたり、省略したりすると、あとで大変つらい目に遭う。これは長いこと物を作ってきて身に沁みて分かっていることではある。そのせいで、仕事ではやらないくらいに趣味ではちゃんとやろうとしているところがあり、そこがまたやる気を枯渇させる。しかし出来上がらないのは、あとで辛い目に遭うも何も遥かに最低最悪の状態だ。それに、趣味なんだから辛くなったら投げ出せば良い。

ほかにも、人に見せられるところを優先して作ったり、進捗が目に見える箇所を先にやっていくとか、そういうことで自分のやる気を保つことを常に意識しなければならない。思うに、自分は今までそういうことにあまりに無頓着だったのかもしれない。なにしろ私は全然やる気の無い人間なので、そのあたりをマネジメントしなければ全然出力が継続しない。

もちろん理想は無尽蔵にやる気が湧いてきて、めちゃめちゃバッキバキにこだわった全力の作品を作るということなのだろうけど、何とか作り上げることを至上命題としなければ、もはや自分には何も作れる気がしない。もう自分も自他ともに完全にオッサンと認める年齢を通り越そうとしているのだ。持ち時間は言うほど長くない。



やる気ボタン
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2018年5月2日水曜日

組立家具を組み立てるのが好きだ

子供の学校用のカバンとか教科書とか置く棚を作った。
オリジナルで作ったとかでなくて、単なる組立家具である。

考えると、自分の家ではそんなに親父が家具を組み立てていた覚えはない。おそらくうちでは組み立て済みの家具を買っていた。私は大半組み立て家具を買って、毎度毎度組み立てている。どこでもそうかとなんとなく思っていたが、そもそも自分の実家ですらそうでなかった。あれ、みんなそうでないのか?

組立家具は良い。なんせ安いし、その上組立まで楽しめる。巨大な組み立てられないようなレベルのものならともかく、可能な限りは組み立てたい。組立の家具と、そうでない家具があるなら、私は組立の家具を選ぶ。電動ドリルさえあれば、たいてい何の苦も無いし、ただの板が組み上がっていくのには愉悦があり、構造に感心もできる。

しかし再度考えてみると、amazonが無かった時代には、あまり組立家具も手に入りにくかったとかあるのかもしれない。両親がどこで家具を買っていたのかよくわからないが、デパートなんかにある何とか家具みたいな店で買っていたのであれば、組立家具をそこまで使っていないことにも合点がいく。それならばやはりみんな組立家具を作っているに違いない。うん。今はamazonがある。



電動ドリルがないとやや辛い箇所がある。