ある日のことだった。私は仕事帰りに最寄りの駅から自宅へと向かっていた。疲れた体を引きずりながら、早く家で休みたいという一心で足を進めていた。その日は特に長い会議が続き、頭も体もクタクタだった。
駅の改札を出ると、前方に小さな子どもとその母親らしき女性が見えた。子どもは興奮気味に大声を出しながら、周囲を走り回っていた。母親は必死に子どもを追いかけ、「〇〇ちゃん、危ないからやめなさい!」と声をかけていたが、なかなか言うことを聞かない様子だった。
その子どもは私の方へと一直線に走ってきた。避けようとしたが間に合わず、ぶつかってしまった。「痛っ!」と思わず声を上げると、子どもは笑いながらまた走り去っていった。母親が駆け寄ってきて、「すみません、本当にごめんなさい」と何度も頭を下げた。私は苛立ちを隠せず、「ちゃんと子どもを見ていてください」と少し厳しい口調で返した。
家に帰ってもその出来事が頭から離れなかった。疲れているところにあのようなことが起き、ますます気分が沈んだ。なぜあの母親は子どもをしっかり見ていないのか、なぜ子どもはあんなに騒ぐのかと、もやもやと考えていた。
数日後、同じ時間帯に駅を利用すると、またあの親子に遭遇した。今度は子どもが駅のベンチに座り、大声で歌を歌っていた。周囲の人々は少し距離を置きながら、その様子をちらちらと見ていた。母親は優しく子どもに話しかけていたが、子どもは夢中で歌い続けていた。
その時、私はふと立ち止まり、その母親の顔をよく見た。疲れと困惑が混じった表情であったが、どこか愛おしげに子どもを見つめていた。その姿を見て、何か胸に引っかかるものを感じた。
帰宅後、発達障害についてインターネットで調べてみることにした。子どもの中には、周囲の状況を認識するのが難しかったり、自分の感情をコントロールするのが難しい子がいることを知った。また、親も日々大変な思いをしながら子育てをしていることが書かれていた。
私は自分の無知を恥じた。あの日、私は自分の苛立ちをあの母親にぶつけてしまったが、きっと彼女も毎日懸命に頑張っているのだと気づいた。
それからは、駅であの親子を見かけるたびに、少し離れた場所から見守るようになった。子どもが楽しそうに歌っているとき、母親がほっとした表情を浮かべる瞬間を何度も目にした。
ある日、子どもが私の方に駆け寄ってきた。前回のこともあり、一瞬身構えたが、子どもは手に持っていた小さな花を私に差し出した。「これ、あげる!」と無邪気な笑顔で言った。驚きとともに、「ありがとう」と受け取ると、子どもは満足げに母親の元へ戻っていった。
母親は少し戸惑いながらも、「すみません、この子が急に…」と声をかけてきた。私は微笑んで、「いえ、素敵な贈り物をいただきました」と答えた。母親はほっとした様子で、「ありがとうございます」と頭を下げた。
その瞬間、私は自分の心の中にあった偏見や誤解が解けていくのを感じた。人はそれぞれ違う背景や事情を抱えて生きている。自分の知らない世界があり、そこには自分が想像もしない苦労や喜びがあるのだと実感した。
それ以来、私は周囲の人々に対して少しだけ優しくなれた気がする。迷惑だと思っていた出来事も、見方を変えれば新たな気づきや学びに繋がるのだと感じた。