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クリスマスはそれは素晴らしいイベントで、生徒はかわいらしい制服を着て、美しいチャペルに集う。
聖歌はどれも美しく、切ないようで温かかく、生徒たちの声変わり前の高い声が十字架の下に響く。
音楽の先生が奏でるパイプオルガンの荘厳な音の中、興奮しつつ私は友達とチャペルを後にする。
私たちは、冬休みへの期待と、友としばしあえなくなるさみしさを胸に、白亜の校舎の前で、「来年また会おう!」と明るく誓い合う。
この頃は何もかもが美しくて、私の周りにはいつも誰かがいた。
みんなの好きなものが私の好きなもので、私が美しいと思うものはみんなが美しいと思うものだった。
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あの日一緒に鬼ごっこをした友達は、異性や部活、英語、進学、ゲームなどそれぞれの話しかしなくなって、それぞれに友達を作っていった。
私だけが、いつまでも幼い日の幻影を追って、いつしか友達と呼べる人はいなくなっていた。
それでも、クリスマスの礼拝と、そこで歌う歌は変わらなかったし、その時ばかりはみんながまた同じ方向を向いているような気がして嬉しかったのだった。
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しかし、それは強制参加ではなかったし、私は一度も足を運ばなかった。高校の同級生だった彼らも、そうだったろう。
長く男子校で過ごした私にとって、同年代の女性によって取り仕切られるキラキラして楽しい式典はウソに思えた。
高校を出るまでの私が愛した、禁欲的で、退屈で、美しくて、正統なクリスマスは失われてしまった。
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だから私は、あの頃のクリスマスの面影をどうすれば再現できるかに腐心した。
大学でできた数少ない友人の一人と、夜の皇居外苑に行った年は成功だと思った。
2人で誰もいない二重橋前を走り回って、雪見大福とカップそばを慎ましく分けた。
私が楠木正成像の前で唐突に「ダビデの村里」を歌いだすと、彼はメロディを知りもしないくせに「下手だなあ」と言って笑った。
十字架も信仰もないけれど、私にとってのクリスマスはこうあるべきだったのだ。
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その友人とも、四年生の頃には疎遠になっていた。
昔は私がくだらないことや小さな発見を言えば何でも笑ってくれたのが、いつしか「つまらない」「やめて」とだけ返されるようになった。
代わりに彼はネットミームの話や、アイドルの話ばかりするようになったが、私がそれについて詳しく聞くと、面倒くさそうな顔をした。
大学最後のクリスマス、私は彼には連絡せず、荒川土手で夕日が沈み、町が暗くなるのをずっと見て物思いにふけっていた。
私にとってのクリスマスは何だろう。
それは、私が幼いままで構わなかった頃の虚像だろう。
垢抜けなかった同級生たちが、クリスマスの夜を女性と共に過ごすために心血を注いでいるとき、
私はどうすれば過去に戻れるか、どうすれば成長を拒否できるか、何も変わることのないものはどこにあるのかを考えていた。
しかし、そんなものはないし、そんなことはどうしても無理なのだ。
それに気づいた私は、荒川の水に別れを告げてクリスマスの装飾輝く赤羽駅へと向かい、家路についた。
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その醜い顔が夜の埼京線の窓に映っている。
そして、その目にうっすら涙をたたえながら、幼い自分と、その頃愛したクリスマスに別れを告げようと、「ダビデの村里」を心の中で歌っている…