人生で当り前のことなんて、何一つない。
今日は暖かかった。まだ1月末なのに、もう春が来たかと錯覚するような陽気。天気予報によると3月下旬から4月上旬頃の気温とのこと。
鶴見川沿いの桜も、そんな目で見ると明日にも咲き始めそうな気配を漂わせているような、いないような・・・もちろん、そんな気配はありませんが、でもじっくり観察すると蕾らしき姿も。
冬対応の格好でジョギングしていたら、5分後には汗だくに。でも、体を動かして汗をかくのはやっぱり気持ちがいい。
体を動かして汗をかくのは当たり前? でもそれは、汗をかくほど体を動かすことが出来ればの話。
最近、つい見入ってしまうTVCMがあります。校庭の隅から、体育の授業を受けている同級生たちの姿を見ている(美)少女。そこに、こんなナレーションが被さります。
“ぼく” はアステラス製薬の薬です。臓器移植をした少女と一緒に闘いながら “夢” を見ている。
私自身、ここ数年の間に何度も足を痛めてしまい、走れない期間が結構ありました。今も完全復調と言うわけにはいかず、自分の足と常に対話しながら慎重に慎重に走っている状況です。
それだけに走れることが嬉しいです。かつて、なんの問題も無く走れていた頃は、走れること自体に何の感慨も持っていませんでしたが、今は “ありがたい” です。
走れる状態にある自分の体に感謝しています。
それは、例えば病気でも同じですよね。健康な時は特に何も感じませんが、病気になって初めて、健康であることがどれだけ “ありがたい” ことなのかを知る。
丸山浩路さん著作 「本気で生きよう!なにかが変わる」の中で登場した、筋ジストロフィーという難病と闘う少年はこんなことを言っていました。
それは自分のことだけに限らず、あなたの周りにいてくれるご両親、奥さんや旦那さん、お子さん、友人、あるいは働くことの出来る仕事だったり、水や空気や地球や・・・・・
あなたのそばにいてくれる、存在してくれる・・・・・それって当たり前?
ある心理学の先生が、こんな話を書かれていました。
その先生は、何年か前に心理カウンセラーの仕事ができなくなった時期があったそうです。それは、先生の2歳のお子さんが小児ガンになって入院した時期でした。
子どもが生きるか死ぬかの病気になってしまったので、冷静にカウンセリンができなくなってしまったのです。
子どもの相談に来る母親に、「子どもが勝手に学校を辞めて困っているんです」と相談されても、「学校になんて行かなくてもいいじゃないか、近くにいてくれれば・・・」と考えてしまう。
「子どもとすぐに殴り合いのケンカになってしまうんです」と相談にきた父親にも、「うらやましいな。息子が大きくなって、ケンカができたらどんなに幸せだろう」と思うと、涙があふれてしまって仕事にならなかったそうです。
「どうして、みんな、今の幸せに気付かないのだろう・・・」
あまりにも当たり前に自分の周りにあるので、それがどんなに幸せなことなのかに気が付かない。
あるセミナーで講師の方が、こんな質問をされました。
「もし、あなたが一週間後に亡くなるとしたら、あなたは何をしますか? やりたいと思ったことをノートにすべて書いてください」
「子どもたちと出来るだけ一緒に過ごす」
「奥さんに感謝の言葉を伝える」
「両親に、この世に生んでくれてありがとう、って言う」
みんながノートに書いたのは、こんなことでした。
そして、講師は話をします。「今、書いたことを現在、行っていますか? 行っていない人はどうして一週間で命が亡くなる場合にできて、時間が十分にある状況だとできないのでしょうか?」
さらに続けて言います。「一週間後に100%生きていると言える人は世の中に一人もいません。今やらなければ、いつやるのでしょうか?」
毎日、忙しく仕事に追われていると、どうしても子ども達と過ごす時間がなくなったり、あるいはTVを見るのに忙しくて、家族に感謝の言葉を伝えることをしなかったり、夢を語ることをしなかったり、本当に大切な時間を失っていくのです。
夜、眠って明日の朝に目が覚めることは、誰も保証できないのです。世の中に当り前のことなんて、何もないんです。大切な人に感謝の気持ちを “今” 伝えないと、二度と伝える機会はないのかも。
「毎日、食事を作ってくれてありがとう」
「毎日、お仕事ご苦労様です」
先日、朝の通学途中、タンクローリーにひかれて亡くなられた小学2年生の男の子のニュースをやっていました。子どもが無事に学校から帰ってくることは当たり前ではないんです。
すべてが人生の一大事。すべてが奇跡。
当たり前なんて考えてしまったら、もったいなさ過ぎて罰があたる。毎日、毎日が神様からの贈り物。奇跡の繰り返し。
無くしてから「そういえば、毎日贈り物が届いていたんだ」なんて気がつくなんてもったいない。
自分がいったい毎日、どれだけの贈り物を受け取っているのか、ちゃんと分かっていれば、それだけで感謝の気持ちがあふれてきます。
「当たり前」なんて、どこにもないのだから。
鶴見川沿いの桜も、そんな目で見ると明日にも咲き始めそうな気配を漂わせているような、いないような・・・もちろん、そんな気配はありませんが、でもじっくり観察すると蕾らしき姿も。
冬対応の格好でジョギングしていたら、5分後には汗だくに。でも、体を動かして汗をかくのはやっぱり気持ちがいい。
体を動かして汗をかくのは当たり前? でもそれは、汗をかくほど体を動かすことが出来ればの話。
最近、つい見入ってしまうTVCMがあります。校庭の隅から、体育の授業を受けている同級生たちの姿を見ている(美)少女。そこに、こんなナレーションが被さります。
「ぼくには夢がある。小さい頃から体育の授業を見学してきたきみ。
きみが、いつか、誰かに恋をして、大好きな彼と、浜辺を全力で走ること。
息を切らし、胸がバクバクする苦しさが、どれだけ気持ちいいか君が知ること。」
きみが、いつか、誰かに恋をして、大好きな彼と、浜辺を全力で走ること。
息を切らし、胸がバクバクする苦しさが、どれだけ気持ちいいか君が知ること。」
“ぼく” はアステラス製薬の薬です。臓器移植をした少女と一緒に闘いながら “夢” を見ている。
私自身、ここ数年の間に何度も足を痛めてしまい、走れない期間が結構ありました。今も完全復調と言うわけにはいかず、自分の足と常に対話しながら慎重に慎重に走っている状況です。
それだけに走れることが嬉しいです。かつて、なんの問題も無く走れていた頃は、走れること自体に何の感慨も持っていませんでしたが、今は “ありがたい” です。
走れる状態にある自分の体に感謝しています。
それは、例えば病気でも同じですよね。健康な時は特に何も感じませんが、病気になって初めて、健康であることがどれだけ “ありがたい” ことなのかを知る。
丸山浩路さん著作 「本気で生きよう!なにかが変わる」の中で登場した、筋ジストロフィーという難病と闘う少年はこんなことを言っていました。
手が動く、足が動く、目が見える、耳が聞こえる、自分の頭で考えることができる・・・。あたり前じゃないよね。奇跡だよね。
自転車に乗ったり、かけっこしたり、ボールをけったり、バットを振ったり、泳げたり、縄跳びができたり・・・。すごいことだよね、それができるなんて。
自転車に乗ったり、かけっこしたり、ボールをけったり、バットを振ったり、泳げたり、縄跳びができたり・・・。すごいことだよね、それができるなんて。
それは自分のことだけに限らず、あなたの周りにいてくれるご両親、奥さんや旦那さん、お子さん、友人、あるいは働くことの出来る仕事だったり、水や空気や地球や・・・・・
あなたのそばにいてくれる、存在してくれる・・・・・それって当たり前?
ある心理学の先生が、こんな話を書かれていました。
その先生は、何年か前に心理カウンセラーの仕事ができなくなった時期があったそうです。それは、先生の2歳のお子さんが小児ガンになって入院した時期でした。
子どもが生きるか死ぬかの病気になってしまったので、冷静にカウンセリンができなくなってしまったのです。
子どもの相談に来る母親に、「子どもが勝手に学校を辞めて困っているんです」と相談されても、「学校になんて行かなくてもいいじゃないか、近くにいてくれれば・・・」と考えてしまう。
「子どもとすぐに殴り合いのケンカになってしまうんです」と相談にきた父親にも、「うらやましいな。息子が大きくなって、ケンカができたらどんなに幸せだろう」と思うと、涙があふれてしまって仕事にならなかったそうです。
「どうして、みんな、今の幸せに気付かないのだろう・・・」
あまりにも当たり前に自分の周りにあるので、それがどんなに幸せなことなのかに気が付かない。
あるセミナーで講師の方が、こんな質問をされました。
「もし、あなたが一週間後に亡くなるとしたら、あなたは何をしますか? やりたいと思ったことをノートにすべて書いてください」
「子どもたちと出来るだけ一緒に過ごす」
「奥さんに感謝の言葉を伝える」
「両親に、この世に生んでくれてありがとう、って言う」
みんながノートに書いたのは、こんなことでした。
そして、講師は話をします。「今、書いたことを現在、行っていますか? 行っていない人はどうして一週間で命が亡くなる場合にできて、時間が十分にある状況だとできないのでしょうか?」
さらに続けて言います。「一週間後に100%生きていると言える人は世の中に一人もいません。今やらなければ、いつやるのでしょうか?」
毎日、忙しく仕事に追われていると、どうしても子ども達と過ごす時間がなくなったり、あるいはTVを見るのに忙しくて、家族に感謝の言葉を伝えることをしなかったり、夢を語ることをしなかったり、本当に大切な時間を失っていくのです。
夜、眠って明日の朝に目が覚めることは、誰も保証できないのです。世の中に当り前のことなんて、何もないんです。大切な人に感謝の気持ちを “今” 伝えないと、二度と伝える機会はないのかも。
「毎日、食事を作ってくれてありがとう」
「毎日、お仕事ご苦労様です」
先日、朝の通学途中、タンクローリーにひかれて亡くなられた小学2年生の男の子のニュースをやっていました。子どもが無事に学校から帰ってくることは当たり前ではないんです。
すべてが人生の一大事。すべてが奇跡。
当たり前なんて考えてしまったら、もったいなさ過ぎて罰があたる。毎日、毎日が神様からの贈り物。奇跡の繰り返し。
無くしてから「そういえば、毎日贈り物が届いていたんだ」なんて気がつくなんてもったいない。
自分がいったい毎日、どれだけの贈り物を受け取っているのか、ちゃんと分かっていれば、それだけで感謝の気持ちがあふれてきます。
「当たり前」なんて、どこにもないのだから。