どきどきすいこでんは、アイレム恒例のエイプリルフールネタでアップされたフィクション企画。
攻略可能なヒロインが108人という前代未聞の恋愛SLGという触れ込みで、よくもまあ108人分も設定を考えたものだ……と、笑いながらも感心した覚えがある。
それを本当に作ってしまうのが、アイレムのすごいところ。まあ、もう1つのエイプリルフールネタだった
みんなでスペランカーが配信される時点で、もしかしたらという思いはあったけれども。セガが何となく落ち着いてしまった印象のある昨今、おバカな方向でのゲームを期待できるのはアイレムだけなのかもしれない。
肝心のゲーム内容に入ろう。何しろ攻略対象は108人。1人あたりのクリアまでに要する時間はせいぜい30分程度だ。しかし、すごいことに、各ヒロインごとに3つのエンディングを用意しているのだ。 どれだけ遊ばせてくれるんだアイレム! しかし、ここでアイレムは面白い仕掛けを用意していた。3つのエンディングのうち、グッドエンディングとバッドエンディングはわかる。が、もう1つのエンディングも「バッド」。ノーマルエンディングが存在しないのだ。2大ゲームシステムとうたわれている“愛の大波動”と“ラブドース”の2システムに失敗すると、別のバッドエンディングになってしまうのである。しかも、そのバッドさは並大抵ではない。ネタバレを防ぐため詳細は書かないが、恋愛SLGとは思えない、人の生き死にに踏み込んだものさえ出てくるのだ。気軽に遊び始めた人は衝撃さえ受けるだろう。
しかし、それは不思議と悲しいものにならない。生き死にが軽いのではない。そこには、「人は如何に生き、如何に死ぬか」という力強いメッセージさえもが感じられる。おそらくは、北方水滸伝の影響だろう。「どきどきすいこでん」は、ただの人数あわせで108人になったのではない。恋愛SLGでありながら、水滸伝の精神までもを組み込んだのだ。これはアイレムだからこそ許される荒技である。仮にコナミが『幻想水滸伝』シリーズでこれをやってしまったら、大批判の嵐が巻き起こることだろう。
本作は、いうなれば「ウソから出たマコト」だ。しかし、だからこそ、強い意志を持って“水滸伝”を組み込んだのだろう。108人もヒロインがいれば、「ステレオタイプばっかり」、「どっかで見たようなストーリー」という批判が巻き起こっても不思議はない。だが、そこに北方水滸伝の精神を組み込むことで、そういった批判を封じ込めつつ、ここにしかない「どきどき」を作り出すことに成功したのである。
そう、タイトルの「どきどき」は、単なる「ときめき」の亜流ではない。恋愛SLGには味わえない、ほんもののドキドキがここにあるのだ。もちろん、“愛の大波動”と“ラブドース”システムが成功したときの、マシンガンのような告白トークも爆笑モノである。そして、サブタイトルの「ふりむいて1わたしがいるよ……」の意味が分かった時、あなたは涙を流すことだろう。
ウソから出たマコトの素晴らしさ、ぜひみなさんにも味わってほしいものだ。
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ゲーム歴史if
もし『バンゲリングベイ』の操作方法が十字キーと合致していたらもし光の勇者が竹やりでゾーマを倒してしまったとしたらもしソニーが任天堂と一緒にプレイステーションを作っていたらファイナルファンタジーが文字通り“ファイナル”だったとしたら
かつて、ソニーは任天堂と共にスーパーファミコン用CD-ROMを開発していた。この話は
ウィキペディアに詳しい。そこで、この計画がポシャらず、そのまま進んでいった歴史ifを考えてみよう。
【並び立つ次世代3ハード】
ソニーと任天堂とで共同開発されたプレイステーションは、当初の計画通りスーパーファミコン用の拡張CD-ROMとして発売された。当初、業界およびゲームファンの間では「PCエンジンCD-ROMの後追いか?」「声が出るだけなんだろ?」「マリオがアニメになったってしょうがないじゃん」などと冷ややかな見方が大勢を占めていた。しかし、プレイステーションによって可能となった3Dポリゴン処理で作られた「スーパーマリオPS」(!)が、その見方を覆す。
「マリオの世界って立体にするとこうなってたんだ!」
「カクカクしてるのに違和感ねーじゃん」
「TAMA転がしてるだけなのにおもしれー!」
任天堂はポリゴンの角張りを巧みにドット風味に表現していたのだ。これにより、スーパーファミコンのドット絵に慣れ親しんだ層は安心感を得ることができ、スムーズに3Dポリゴンの世界へ入り込むことができたのである。
一方、ソニーは任天堂のセカンドハウスとして、3Dポリゴンを生かしたゲームを数多く開発していった(なお、販売はSMCであるが、開発を担当したのは『田代まさしのプリンセスがいっぱい』で有名なEPICソニーである)。これにより、ソニーはソフトウェア開発力に磨きをかけていくことになる。
一方、任天堂とソニーの連合軍に対抗すべく、NECは松下電器と組んでPC-3DOを発表する。元々、松下電器が携わっていた規格にNECとハドソンが乗った形である。「三つ集まってDOすんの?」という冷やかしの声もあったものの、PCエンジンのコア構想がようやく形になるところまで到達したのだ。後のテレビCMで「DoDoDo!」を連呼したのは、コア構想の願いを込めてのものと言われている。
さて、最後に残ったセガであるが、連合軍に組することなく、単独で新ハードを開発することを発表する。その名はセガジュピター。雄々しさ、雄大さをイメージしたそのハードは、スプライト機能と3Dポリゴン機能の双方のよさを残していた。比率にすると2対8である。当初は変形スプライト機能を強化する方針で開発が進められていたが、スーファミ用プレイステーションの3Dポリゴン処理能力に対抗すべく、ポリゴン処理を強化する方向に転換したのである。これが後に大きな意味を持つことになる。
【両雄、並び立たず。そして……】
順風満帆に見えたスーファミ用プレイステーションだが、泣き所もあった。任天堂の製品であるにも関わらず、故障が頻発したのだ。実を言えば、任天堂は当初からCD-ROMに懐疑的であった。CDの読取装置やCDそのものの寿命の短さを疑問視していたのである。また、ソニーと任天堂との間で、「スーパーファミコンの次」を担うハードの考えかたが大きく異なっていたことも原因であった。そのため、スーファミ用CD-ROMであるプレイステーションは、わずか2年でその役目を終えることになった。任天堂は再びハードを単独開発する道を選び、ソニーもまた、自社でのゲームハード開発を進めることになったのである。
これに困ったのはスクウェアだった。開発中の『FFVII』を発売するハードがなくなってしまったのだ。任天堂かソニーの新ハードを待つか、それとも……。そして、スクウェアは1つの決断をする。『FFVII』をセガジュピターで発売することを発表したのだ。セガハードへのまさかの移籍劇は、セガジュピターのポリゴン処理能力を買ってのものだった。人気絶頂のスクウェアを自陣営に引き込むことで、任天堂の後塵を配し続けていたセガが、初めてゲームハード戦争に勝利したのである。
しかし、任天堂とソニーの新ゲームハードの発売はついそこまできていた。セガがこのまま突っ走るのか、PC- 3DOに逆転の秘策はあるのか……。過去に4種類のゲームハードが同時に並立していた歴史はほとんどない。どこが勝利を収めるのか、次世代機戦争から今後も目が離せない。
『ファイナルファンタジー』は、「売れなかったら1作で終了しよう」という理由で“ファイナル”と名付けられた。しかし、売り上げがよかったことから続編が制作され、「ファイナルは究極という意味ですよ」ということになったのは、みなさんもよくご存知だろう。では、もし仮に『ファイナルファンタジー』が本当に最後だったとしたら……。つまり、II以降が出なかったらどうだったのだろうか。
『ファイナルファンタジー』を作る前、スクウェアは中堅どころのメーカーだった。パソコンでは評価が高かったものの、ファミコンではあまり売れなかった『テグザー』。キャッチコピーはかっこよかった『キングスナイト』。どこかで見たような『とびだせ大作戦』に『ハイウェイスター』『ディープダンジョン』……。そんなゲームばかりである。『ファイナルファンタジー』がヒットしなければ、ゲーム業界から撤退していたか、中堅どころのメーカーで終わっていたことだろう。当然のことながら、ファミコンやスーファミの全盛期を支えることもなく、PS陣営への移籍もなければ、映画版のFFもエニックスとの合併もありえなかったことになる。
特にPS陣営に与える影響はかなりのものだろう。次世代機の趨勢を決めた移籍劇がないため、セガサターンとの決着も容易でなかったはずだ。もちろん、セガの命運も変わることになる。ドリームキャストの投入時期も意味合いも変化し、湯川専務が常務になることもなかったかもしれない。元々がマイナーな後藤喜男に至っては、表舞台に立つことすらなかったことだろう。
では、さかのぼってファミコン時代での影響はどうだっただろうか。『ファイナルファンタジー』は、『ドラゴンクエスト』のヒットを受けて作られたものだ。その後、それらのシリーズが競いあうように続いていく中で、二大RPGという位置付けをされるようになっていく。だから、『ファイナルファンタジー』が文字通りファイナルになれば、ファミコンもさほど盛り上がることはなかったかもしれない。ファミコンRPGの“進化”も遅れただろう。しかし、『ファイナルファンタジー』が潰えたとしても、どこか違うメーカーが他社と切磋琢磨しながら、『ドラゴンクエスト』の対抗軸となるゲーム……、“ネクストファンタジー”を作り上げていたのではないだろうか。そこに歴史の必然を感じるのは、『ファイナルファンタジー』の存在の大きさゆえなのかもしれない。
……ただ、ちょっと略しにくいよね。ネクファン。
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もし『バンゲリングベイ』の操作方法が十字キーと合致していたらもし光の勇者が竹やりでゾーマを倒してしまったとしたらもしソニーが任天堂と一緒にプレイステーションを作っていたらファイナルファンタジーが文字通り“ファイナル”だったとしたら