ラプラタ沖海戦
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ラプラタ沖海戦(ラプラタおきかいせん)は、第二次世界大戦中の1939年12月13日にラプラタ川河口の沖合いで生起した海戦。開戦以来大西洋、インド洋で通商破壊を行っていたドイツのドイッチュラント級装甲艦「アドミラル・グラーフ・シュペー」がイギリスの巡洋艦3隻と交戦した。戦闘後、損傷を受けた「アドミラル・グラーフ・シュペー」は中立国ウルグアイのモンテビデオ港に入港し、17日に港外で自沈した。
- 1 ラプラタ沖海戦とは
- 2 ラプラタ沖海戦の概要
ラプラタ沖海戦
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「エイジャックス (軽巡洋艦)」の記事における「ラプラタ沖海戦」の解説
詳細は「ラプラタ沖海戦」を参照 第二次世界大戦勃発前夜、「エイジャックス」と重巡洋艦「エクセター」からなる南アメリカ戦隊(ヘンリー・ハーウッド(英語版)代将、「エクセター」座乗)は新たに作られた南大西洋艦隊に移された。「エイジャックス」は戦争勃発の1週間前にリオデジャネイロに入港した。「エイジャックス」の艦長はチャールズ・ウッドハウス大佐であった。 ウッドハウスは「エイジャックス」の位置をドイツ側に把握されなくするとともに、その存在でドイツ商船の出航をためらわさせることを狙って「エイジャックス」を出港させ、ラプラタ川へ向かっている途中で戦争勃発を知らせる電文を受信した。「エイジャックス」は9月3日にラプラタ川沖でドイツ船「オリンダ (Olinda)」(4576トン)を、9月4日にリオグランデ・ド・スルの東南東200浬でドイツ船「カール・フリッツェン (Carl Fritzen9」(6594または6954トン)を沈めた。両船はともに自沈し、「エイジャックス」が4インチ砲で処分した。 9月9日、「エイジャックス」は「エクセター」と合流した。ハーウッドは、ドイツ商船がフォークランド諸島を襲撃しようとしているかもしれないと思い、「エイジャックス」をポート・スタンリーへ派遣した。ドイツ船が会合するとの情報が9月24日にあり、その場所へ重巡洋艦「カンバーランド」が派遣されることに伴い、その穴を埋めるために「エイジャックス」はリオデジャネイロへ戻された。 9月30日、イギリス船「クレメント」がドイツ装甲艦「アドミラル・グラーフ・シュペー」に沈められた。10月5日までに「エクセター」、「エイジャックス」、駆逐艦「ハヴォック」、「ホットスパー」はリオデジャネイロ水域に集結し、戦闘に備えた。10月27日、ハーウッドは「エイジャックス」に移った。 ラプラタ川での給油の問題についてアルゼンチン海軍当局と議論するため、11月6日にハーウッドは「エイジャックス」でブエノスアイレスを訪れた。「エイジャックス」は11月8日にブエノスアイレスを離れ、ラプラタ川水域を哨戒した。11月22日、「エイジャックス」と軽巡洋艦「アキリーズ」はドイツ船「Lahn」と「Tacoma」を捜索したが、発見できなかった。11月25日に「エイジャックス」はラプラタ川を離れ、搭載機でバイアブランカを偵察した後フォークランド諸島へ向かい、11月27日に着いた。 12月2日、南大西洋で「アドミラル・グラーフ・シュペー」はイギリス船「ドリク・スター」を沈めた。同日、「エイジャックス」はラプラタ川へ向けて出航し、夕刻ハーウッドは「ドリク・スター」が沈められたことを知った。ドイツ船「Ussukuma」がバイアブランカより出航したとの情報が12月5日にあり、「エイジャックス」はアルゼンチン沿岸を南下。同日、「エイジャックス」は「Ussukuma」を発見。「Ussukuma」は自沈した。 12月13日、襲撃先を予想していた英艦隊(エイジャックス、アキレス、エクセター)は、ラプラタ沖でグラーフ・シュペーと邂逅した。砲火力で劣る英艦隊は、数的優勢と機動力を活用して対抗する。エイジャックスが戦闘前に発進させたフェアリー・シーフォックスも大いに活躍した。 海戦が始まると、最初にベル艦長が指揮するエクセターが被弾して深刻な損傷を受け、戦線離脱を余儀なくされた。シュペーが大破したエクセターにとどめを刺そうとしたので、エイジャックスとアキリーズが割って入る。今度はエイジャックスとアキリーズがシュペーの11インチ砲(28cm砲)を浴びせられた。グラーフ・シュペーの激しい砲火に曝されたエイジャックスは、2度の直撃弾を含む7度の砲撃を受け、第三砲塔、および第四砲塔が使用不能になり、竜骨が一部損傷し、死傷者数は12人(死者7人を含む)に及んだ。だがシュペーが発射した魚雷を本艦の水上偵察機が発見して報告したので、回避することが出来た。 一方で、グラーフ・シュペーも英巡洋艦3隻から20発ほどの直撃弾を受けていた(エキセターより3発、残りは6インチ砲)。艦首に損傷を受け、非装甲部分への損害も無視できず、燃料浄化装置も損傷した。結局、ドイツ豆戦艦は英巡洋艦3隻にとどめをささず、モンテビデオ港まで撤退する。まだ戦闘力を維持していた連合軍軽巡2隻はシュペーを追いかけ、同艦がモンテビオ港に入ると外で監視をおこなう。さらに僚艦カンバーランドと合流し、応急修理に追われるグラーフ・シュペーに圧力をかけた。再戦の機会を伺いながら、あたかも英艦隊の増援を待っているように見せかけたのである。イギリス側の各種宣伝作戦が功を奏し、ドイツ側はイギリス空母アークロイヤル (HMS Ark Royal, 91) 、巡洋戦艦レナウン (HMS Renown) がラプラタ河口沖に到着したと信じ込む。損傷したシュペーがイギリス海軍の包囲網を突破して母国に辿りつける見込みはなく、レーダー元帥とシュペー艦長ハンス・ラングスドルフ大佐は自沈を決断した。 シュペーの最期を見届けたのち、エイジャックスはポート・スタンリーで給油を受け、巡回任務に帰還した。
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