雄飛
雄飛
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初平2年(191年)、黒山軍の反乱をきっかけに曹操は袁紹によって東郡太守任命を上奏された。この時期、曹操を慕って多くの勇将や策士が彼の下に集まった。この頃、曹操は胡毋班の遺族とともに王匡を殺害した。 初平3年(192年)春、黒山軍の本拠地を攻め、眭固や匈奴の於夫羅に大勝した。同年夏4月、董卓が呂布に暗殺された。また、兗州刺史の劉岱が青州から来た黄巾軍に殺された。そこで鮑信・万潜らは曹操を迎えて兗州牧を引き受けさせた(朝廷より兗州刺史に任命された金尚は追い返した)。曹操は黄巾討伐の詔勅を受け、自ら鎧をまとって黄巾軍を討伐し、黄巾軍の兵30万人、非戦闘員100万人を降伏させ、その中から精鋭を選んで自軍に編入し、「青州兵」と名付けた。これ以降、曹操の実力は大きく上昇した。 袁術の配下の孫堅は豫州刺史であったが、初平2年(191年)頃、袁紹は周喁を豫州刺史として派遣したので、孫堅と孫堅の主である袁術は周喁・周昂・周昕と豫州を奪い合うこととなった。これにより袁術と袁紹が対立することとなり、それぞれ群雄と盟約を結び対抗した。袁紹と同盟したのが曹操・劉表・周喁など、袁術と同盟したのが孫堅・公孫瓚・陶謙などである。袁紹は董卓により擁立された献帝に対抗すべく、劉虞の擁立を計画したが、袁術はこれに反対し、劉虞自身も皇帝になるのを拒否している。 初平4年(193年)頃、袁術は曹操の兗州に攻め込んだ(袁術の侵攻には朝廷により兗州刺史に任命された金尚と馬日磾を伴っていた)。袁術は公孫瓚に救援を求め、公孫瓚は劉備や徐州牧・陶謙を派遣する。曹操は袁紹と協力してこれらと当たり、その全てを打ち破った(匤亭の戦い)。敗れた袁術は、劉表に背後を絶たれ、本拠地の南陽郡を捨て、寿春に落ち延びていった。 この頃、曹操は陶謙に父の曹嵩や弟の曹徳を含めた一族を殺されている 初平4年(193年)秋、その恨みから復讐戦を行うことを決意し、50万の兵力で徐州に侵攻、陶謙から十数城を奪い、彭城での戦いで陶謙軍に大勝し、数万人を殺した。『三国志』武帝紀によれば、通過した地域で多数の者を虐殺したという。このことは後世の『後漢書』によれば、「曹操は数十万人の男女を殺し、曹操の軍の通過した所では、鶏や犬の鳴く声さえ聞こえなくなり、死体のため泗水の流れが堰き止められたと言われるほどの惨状であった」と書かれており、この虐殺に因り曹操は陳宮に背かれている。 興平元年(194年)夏、曹操は再び徐州に侵攻し、通過した地域で多くの人を虐殺した。ところが、親友の張邈が軍師の陳宮と謀り呂布を迎え入れ反逆したため、領地である兗州の大半は呂布のものとなった。 張邈は呂布が袁紹を見限って去った後に呂布と会い、深い親交を結んだために袁紹に嫉妬されていた。曹操は袁紹にそのことを言われるたびに張邈を庇っていたが、張邈の方は彼が袁紹との友誼を優先して自分を殺すのではないかと不安になり、裏切ったとされている。張邈と曹操とは古くからの付き合いで、互いが死んだ時には互いの家族の面倒を見ることを約束するほどの仲だった。それほどまでに信頼していた人間に裏切られた曹操は、愕然とする。 曹操は兗州に戻り、呂布を攻めたが敗れ、青州兵は大打撃を受けた上に、曹操自身も大火傷を負った。幸い荀彧や程昱、夏侯惇などが本拠地を守り抜き、蝗害による飢饉が起き、兵糧の尽き果てた呂布が軍を引いたため、曹操は帰還を果たすことができた。 このような時、袁紹が機を見計らったかのように援助を申し入れてくるが、程昱の反対もあり、曹操はそれを断る。この年の秋、蝗害と旱魃のため穀物の値段は1石50万余銭にもなり、一帯では人が人を食らう状態になっていた。そんな中、徐州では陶謙が死に、劉備がそれに代わっていた。 興平2年(195年)春、定陶を攻撃。南城を陥落させられなかったが、折り良く着陣してきた呂布の軍勢を撃破する。同年夏には鉅野を攻めて薛蘭や李封を撃破し、救援に現れた呂布を敗走させた。呂布は陳宮ら一万と合流して再度来襲してきたが、この時曹操軍はみな麦刈りに出向いて手薄だったので、曹操は急遽軍勢をかき集めると、伏兵を用いて呂布軍を大破した。呂布は劉備を頼って落ち延び、張邈もそれに付き従ったが、曹操は、張邈が弟である張超に家族を預けているのを知ると、張超を攻撃する。同年秋、根拠地の兗州を全て奪還した曹操は、兗州牧に任命された。同年冬、張超を破り、張邈の三族(父母・兄弟・養子)を皆殺しにした。張邈は部下に殺された。 この頃、長安では呂布らを追った李傕らが朝廷の実権を握っていた。しかし、李傕らは常に内紛を続けていた。 建安元年(196年)1月、荀彧と程昱の勧めに従い、長安から逃げてきた献帝を迎え入れるために、曹洪に献帝を迎えに行かせたが、董承に妨害された。同年2月、豫州西部の汝南・潁川に割拠していた黄巾賊の黄邵や劉辟・何儀らを破り、建徳将軍に任命された。同年6月、鎮東将軍に昇進し、費亭侯に封じられた。同年7月、洛陽に赴き、首都を守護したため、韓暹は逃亡した。献帝は曹操に仮節鉞を与え、録尚書事とし、司隷校尉も担当させた。同年9月、董昭の策略を用いて、献帝を自らの本拠である許昌に迎え入れた。献帝は曹操を大将軍とし、武平侯に封じた。同年10月、政敵の楊奉を討伐して、後漢政府から追放したため、楊奉は袁術のもとへ逃走した。曹操は大将軍を袁紹に譲り、自らは司空・車騎将軍に任命された。またこの年、曹操は棗祗・韓浩らの意見を採用して、屯田制を開始している。 建安2年(197年)春、宛に張繡を攻めて降伏させた。この際に曹操は張繡の叔父である張済の未亡人を妾としたが、そのことに張繡が腹を立てていると知って彼の殺害を考えるも、事前にそれを察知した張繡に先制され、敗れる。この敗戦で流れ矢に当たって右臂に怪我をし、長男の曹昂と弟の子の曹安民と忠臣の典韋を失った。 建安3年(198年)、張繡を穣に包囲した。劉表が兵を派遣して張繡を助けたので窮地に陥ったが、伏兵を用いて敵軍を挟み撃ちにして散々に撃破した。同年4月、後漢王朝は裴茂・段煨らを派遣して、李傕を滅ぼした。同年冬、呂布を攻める。呂布は下邳城に籠城したが、水攻めによって城兵の士気を挫き、落城させ、豫州東部と徐州を制圧した。 建安4年(199年)、袁紹は公孫瓚を滅ぼし、河北を平定した。袁術は呂布や曹操に敗北し勢力が衰え、袁紹のもとに身を寄せようとしたが、その途中で病死した。曹操と河北を制圧した袁紹の対決が必至となると、張繡は再び曹操に降伏し、曹操も過去の恨みを呑んで迎え入れた。 関中には馬騰・韓遂が勢力を保っていたため、曹操は鍾繇を司隷校尉に任じ、関中方面の軍事と統治を任せた。鍾繇は馬騰・韓遂を説得して、曹操に従わせ、馬騰・韓遂の子供を人質として献帝に参内させた。
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