横須賀線
横須賀線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/04 05:04 UTC 版)
横須賀線は、蒸気機関車が列車を牽引していた時代の1925年4月1日改正のダイヤでは東京 - 横須賀間110分、電気機関車牽引時の1929年9月15日改正のダイヤでは85分、電車化による1930年3月15日改正の時刻表では、東京 - 横須賀間68分で上り42本、下り41本(うち1往復は東京 - 大船間)の列車が記載されていた。32系導入後の1931年10月1日改正の時刻表では、東京 - 横須賀間68分で平日44本・休日36本の列車が運行されており、平日の朝夕は15分間隔、その他は30分間隔、停車駅は東京、新橋、品川、横浜、保土ケ谷、戸塚、大船、北鎌倉、鎌倉、逗子、田浦、横須賀であった。 運行開始時の編成は基本編成が4-5両編成、付属編成は2-3両編成で、1932年4月頃の編成は以下の通りであった。なお、同年時点での電車列車の最大の編成両数は中央線(東京-立川)7両、山手線(東京-田端-赤羽)・京浜線(東京-鶴見)8両、横須賀線(東京-横須賀)7両であり、また、1935年時点の電車列車の表定速度は最も早い横須賀線で55.1 km/h、次いで東海道線吹田 - 明石間52.0 km/h、山陽線神戸 - 明石間48.0 km/hであった。 基本5編成(2運用)、付属は下記編成と合わせて7編成(5運用) ← 横須賀 東京 → 基本編成 付属編成 モハ32サハ48サロ45モハ32クハ47サロハ46モハ32基本5編成(3運用、荷物・郵便車組込)、付属は上記編成と合わせて7編成(5運用) ← 横須賀 東京 → 基本編成 付属編成 モハユニ30サハ48サロハ46モハ32クハ47サロハ46モハ32基本7編成(4運用)、付属2編成(2運用) ← 横須賀 東京 → 基本編成 付属編成 モハ32サハ48サロ45サハ48モハ32クハ47モハ32その後1935年のモハユニ44形の導入とサロハ46形とサハ48形への便所の設置に合わせて、同年もしくは1937年より基本編成が4両編成、付属編成が3両編成に統一され、以下の通りとなり、不足するサロ45形の補充として31系のサロ37形のうち37001, 37002が横須賀線に転用された。 基本的な編成 ← 横須賀 東京 → 基本編成 付属編成 モハ32サハ48サロハ66モハ32クハ47サロ45モハ32荷物・郵便車組込 ← 横須賀 東京 → 基本編成 付属編成 モハユニ44サハ48サロハ66モハ32クハ47サロ45モハ32その後輸送力増強のため一部基本編成が5両編成となった以下のような編成も運行されている。 荷物・郵便車組込 ← 横須賀 東京 → 基本編成 付属編成 モハユニ44モハ32サハ48サロハ66モハ32クハ47サロ45モハ32この間、1942年4月から逗子 - 横須賀間での区間運転が実施されており、同区間で7-10分間隔で列車が運行されていた。1944年4月1日には横須賀 - 久里浜間が開業しており、同年10月11日改正の下り時刻表には51本の列車が掲載されており、区間列車を合わせると60本の運行となった。この時刻表では東京 - 久里浜間23本、東京 - 横須賀間22本、横浜 - 横須賀間3本、品川 - 横須賀間、大船 - 横須賀間、大船 - 久里浜間各1本で、うち15本に二等車が連結されていた。 省電の二等車は1938年10月31日に関西急電と横須賀線を除いて廃止され、これに伴い51系のクロハ69形のうち69001, 69002が横須賀線に転用された。その後横須賀線の二等車も横須賀 - 久里浜間が開業した1944年4月1日に一旦廃止されたが、横須賀に軍港を控える特殊性から、海軍の要請により8月16日に二等車の連結が再開されている。なお、前述のとおり、サロハ46形全車とサロ45形の一部の通勤車化改造が進んでいたため、二等車の連結は一部の列車に限定され、サロ45形のほか、サロ37形2両、クロハ69形1両も使用された。 戦後の1946年9月23日にすべての二等車が連合軍専用車に、11月2日から連合軍専用の白帯車となった。当初は「U. S. Army Section」であったが、後に「Allied Forces Sction (AFS)」もしくは「Allied Forces Car (AFC)」となり、その後1947年8月には空席があった場合に日本人の乗車が許可され、1949年7月30日には二等車の併結が再開され、9月には全編成に併結されて、編成中にAFCと二等車が1両ずつ組みまれたが、その後、1952年3月には白帯車は廃止された。1947年6月1日時点ではAFCを1両連結した以下のような7両編成で運行されていた。 運用9編成、予備1編成、検査2編成 ← 横須賀 東京 → モハ32もしくはモハユニ44サハ48ほかモハ32もしくはモハ30クハ47ほかサハ48ほかAFCサロ45ほかモハ32戦前は32系を基本に運行されていた横須賀線であるが、戦争末期には同線を所管する田町電車区から状態の良い車両を他線区に疎開させ、代わりに状態の悪い車両を横須賀線に転用することとなり、1945年6月から32系の常磐線、赤羽線、横浜線への疎開が実施され、1947年9月までに田町電車区に戻っている。こういった流れの中、戦中には40系など、戦後の混乱の中でさらに30系や50系などが転入し、1949年からは63系が、1950年からは関西で使用されていた42系と52系が転入して、32系とともに運用された。その後、1951年3月に70系の最初の10両が導入されて以降増備が進められたことに伴い、モハ32形は1951年3月以降順次飯田線、身延線へ転用された一方でサロ45形とサハ48形の一部はこれらの形式と編成を組んで引続き横須賀線で運用された。戦後1940年代から1950年代にかけての、横須賀線(および東海道線)の電車を所管する田町電車区(伊東支区を除く)の配置は以下の通りであった。 田町電車区配置一覧32系42系52系51系40系30系31系33系50系63系70系(80系)木造合計モハ32 クハ47 サロ45 サハ48 クロ49 小計1947年6月1日36 7 5 18 2 684 3 15 11 2 1 10 5 1191949年5月1日40 7 5 21 2 753 3 15 11 3 6 56 1 1731951年1月1日 36 5 5 16 2 6935 5 2 28 3 2 174 3181953年7月1日 5 13 2321 5 1 2 2 99 201 1 355^ このほか5両が他区貸出 ^ このほか6両が他区貸出 ^ 1950年に42系で63系を置換 ^ 1949年5月15日時点で4両が伊東支区配置 ^ 1949年5月15日時点で3両が伊東支区配置 ^ 代用二等車のサロ48の5両を含む ^ 70系で32系を置換 ^ 代用二等車のサロ48の6両を含む ^ クロハ49の2両が伊東支区配置 ^ 関西から転入した35両の42系のうち、1951年中にモハ42形7両中5両が伊東支区へ、クハ58形9両中の2両が伊東支区へ、7両が静岡地区へ転出 この間、1947年6月には基本7両編成・付属2両編成の最長9両編成に変更となり、1949年2月以降は基本7両編成・付属3両編成の最長10両編成で運行されていた。1951年3月の70系導入後は基本7両編成・付属4もしくは5両編成を併結した11-12両編成での運行となり、付属編成の逗子駅での連結開放作業は12月17日から実施された。その後、1959年2月1日に基本編成が6両編成に変更され、これを併結した12両編成での運行が実施されているほか、横須賀 - 久里浜間の2両編成での運行が開始されている。 横須賀線では最終的にクハ47形、サロ45形、サハ48形が1960年代半ばに113系に置換えられるまで運用されており、クハ47072, 47073を3扉化改造したクハ68210, 68211およびサハ48018, 48027が1964年まで、サロ45004, 45005, 45007, 45008, 45012が1964-1965年まで横須賀線に残っていた。
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