方面作戦とは? わかりやすく解説

方面作戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/07/25 16:39 UTC 版)

タラホーマ方面作戦」の記事における「方面作戦」の解説

この方作戦最初動きは、実際に6月23日始まったグランジャー指揮下の予備隊の一部ミッチェル指揮下の騎兵師団がマーフリーズバラから真西のトライユヌに動き念入りな陽動行動始めた。これはブラッグ想定していた北軍主力攻撃シェルビービル方向にある南軍左側面から来るということ実際に演じようとしたのだった同時に第21軍ジョン・パーマー師団南軍右側面の向こう、ブラディビルに移動し、そこで南軍騎兵隊押し返しマンチェスター方向進んで南軍背後回り込めるものとされていた。ローズクランズがその軍団指揮官達にこれからの方面作戦について詳細な命令伝えたのはこれらの動き進行中のときだった。 ローズクランズの念入りな作戦はこの6ヶ月間を使って広範な訓練行ったその試験考えたものであり、グランジャー軍団左翼動きシェルビービル接近路を抑え軍隊大きく右旋回させることだった。ブラッグ注意強固に防御施されシェルビービル向けられており、トーマス軍団はマンチェスター・パイクを南東進軍しハーディ軍団右側面であるフーバーズ・ギャップに向かうこととされた。この道はほとんど守備隊がいなかったので、ローズクランズの作戦では速度重要だった。 ローズクランズは春の間に騎兵増強繰り返し求めていたが、ワシントン拒否されており、1個歩兵旅団騎兵として装備させる許可得ていた。レイノルズ師団ジョン・T・ワイルダー大佐旅団、第17および第72インディアナ連隊と第98および第123イリノイ連隊田園地帯で馬やロバ見付け白兵戦のために長い柄のついた手斧装備したので、この旅団冷笑的に「手斧旅団」と呼ばれることになった。そのより強力な武器スペンサー7連発ライフル銃であり、全員携行したワイルダー旅団機動性火力有しただけでなく、フーバーズ・ギャップが補強される前に急襲することに必要とされる部隊として高い士気をも持っていた。 我々の連隊は泥と水の中丘陵斜面にあり、土砂降りとなっていたが、砲弾一つ一つ我々の近く悲鳴をあげ、次は我々を粉々にすると思わせた。この時、敵は我々の十分近くにおり、我々の砲列への突撃可能だったが、事実やってきた。我々の部隊一瞬のうちに総立ちとなり、「スペンサー」からの恐ろしい銃火前進してくる連隊よろめきその軍旗は地に倒れたが、一瞬のうちにその軍旗は再び掲げられ前進してきた。我々の大砲再装填される前に砲列に届くと考えているようだったが、「大事な点を見落として結論出しており」、我々がスペンサー銃持っていることを知らなかった。敵の突撃雄叫びには次の一斉射撃応え次から次へと休むことなく続き憐れ連隊文字通り粉々になるまで続いた突撃試みた20テネシー連隊のほとんど誰も再度突撃しようとする者は無かった。 —Major James A. Connolly, Wilder's Brigade ワイルダー旅団初日戦闘でフーバーズ・ギャップへの急行とそこを占領することに成功しその結果稲妻旅団という渾名貰った対する第1ケンタッキー騎兵連隊短時間小競り合い演じて圧力の下に後退したが、十分に餌を与えられ稲妻旅団の馬たちの前にはフーバーズ・ギャップに届かなかった。ケンタッキー連隊部隊ごとにバラバラになり、南軍にとって不運に騎兵隊任務であるはずのその上官の作戦本部北軍の動き伝えることを怠ったワイルダーはその騎馬旅団のかなり後方主力歩兵部隊支援があったが、南軍援軍到着できるまえにその道から押しだし確保しておくことに決めた南軍ウィリアム・B・ベイト准将旅団ブッシュロッド・ジョンソン准将師団幾らか砲兵支援得てワイルダー陣地襲ったが、スペンサー銃集中射撃後退させられ146名の死傷者(その部隊のほぼ4分の1)を出しワイルダー隊の損失61名だった。ワイルダー旅団第14軍団主力歩兵部隊到着するまでフーバーズ・ギャップを死守その後攻撃にも陣地守った軍団指揮官トーマス将軍ワイルダー握手して、「今日勇敢な行動で貴方は何千という命を救った。私は3日掛けてもこの道を確保できるとは予想していなかった。」と告げた。 6マイル (10 km)西のリバティ・ギャップでは同じよう戦闘起こった。マクック軍団先遣隊T・Jハリソン大佐指揮する39インディアナ連隊であり、やはり馬に乗りスペンサー・ライフル銃を装備していた。彼等敵対した数人南軍哨戒兵捕虜取り、リバティ・ギャップにはほんの2個連隊かいないことを見出した。マクックは主力歩兵部隊到着を待つまでもなく、オーガスト・ウィリッチ准将旅団にできる限り早い前進命じた。ウィリッチ部隊道路両側に1個連隊ずつを配置して斜面駆け上がった胸壁対す正面攻撃実行不可能だったので、南軍セントジョン・R・リドル准将パトリック・クリバーン准将旅団対す激し側面攻撃起こった。ウィリッチ部隊支援するために2番目の旅団夕方到着したとき、北軍はリバティ・ギャップの南入口から半マイル (0.8 km)押し込んでいた。 この方作戦1日目激しい雨の中で遂行され、その天候17日間も続くことになった(この作戦中に北軍兵は、タラホーマという名前がギリシャ語で「タラ」は泥、「ホーマ」はさらなる泥を意味するというユーモアのある噂を広めた)。この天候北軍進行遅らされたが、この日はカンバーランド軍によって「ローズクランズの作戦絶対的に欠陥のない実行」を記した北軍はハイランド・リムで2つ重要な道を確保しブラッグ軍の右側面を向く位置にいた。 6月25日ベイトジョンソンはフーバーズ・ギャップにいる北軍駆逐しようという試み再開し一方クリバーンは同じ事をリバティ・ギャップでやった。双方共に不成功であったが、クリバーンは北軍援軍到着するまでの暫くの間ウィリッチ部隊後退させ、第77ペンシルベニア連隊20%損失を出させた。ローズクランズはそのカンバーランド軍前進させ、道路ぬかるんできたので停止させた。しかし、この小康状態の間、ブラッグはその騎兵隊指揮官達が信頼できる情報伝えてこなかったためにローズクランズ軍に対抗する有効な措置を採らなかった。フォレスト北軍右側面の攻撃が弱いということ伝えなかったし、ウィーラーはクリッテンデン軍団がブラディビルを通ってブラッグ軍の後方回り込んでいることを報告できなかった。 ブラッグ6月26日になって自軍右側面の戦闘が重要であり、左側面の行動陽動に過ぎないことが分かったブラッグポーク軍団夜間行軍しガイズ・ギャップを通ってマーフリーズバラに向かい、リバティ・ギャップにいる北軍後方から攻撃し一方ハーディには前面から攻撃するよう命じたポークはその任務難しさ抗議しブラッグトーマス軍団からの脅威認識するようになってその攻撃結局は中止した一方、ローズクランズはマクックにリバティ・ギャップから退き、北のハイランド・リムの上周辺部移動し、フーバーズ・ギャップでのトーマス突破有効に利用するよう命令したハーディもまたブラッグ抱え困難さ助長していた。過去数ヶ月テネシー軍将官達の間に拡がった不信戦略について直接話し合いがほとんど行われずポークハーディブラッグ作戦しっかりと把握していなかった。ハーディはタラホーマの陣地不適切であることをこぼしていたが、ブラッグジョセフ・ジョンストン戦略的立場理解しハーディ自身彼等作戦について十分な知識が無い考えるよりも、歴史家スティーブン・E・ウッドワースが述べているように、「彼(ハーディ)は単にその状況を前から持っていたブラッグ馬鹿だという考え証明するものとしており」、さらに流れの中で「その指揮官が馬鹿である軍隊を救うために最善を尽くす」ことを追求した。その考えにそってハーディは、フーバーズ・ギャップにいるアレクサンダー・P・スチュアート少将部隊にウォートレイス方向に退くよう命令した。もし彼がマンチェスター方向退いておれば、経路沿いにあった絶好防御陣地使ってローズクランズ軍の進行遅らせブラッグ反撃実行できたであろうが、単にトーマス突破をさらに有効にしただけで、ブラッグには6月27日にタラホーマへ向けてポークハーディ後退命令を出すしか選択肢無くさせた。 ワイルダー旅団6月27日午前8時にマンチェスター到着し、その師団正午までに町を占領したルソーブラノンは、スチュアートが退くに従って、その師団をウォートレイスまで進ませた。西方ではグランジャースタンリーがガイズ・ギャップを前にまだ示威行動をしていたが、前進試み命令受けたスタンリー騎兵隊容易に南軍の反撃押しのけ、このときはポーク軍団撤退でほとんど放棄されていたシェルビービル胸壁接近した幾らか抵抗勢力残っており、ロバートH・G・ミンティ大佐が自らミシガン騎兵の「サーベル旅団」を率い胸壁越えて騎乗突撃敢行撤退する南軍兵を追った6月28日ワイルダー旅団ブラッグ軍の後方にある鉄道施設破壊するための襲撃進発し、ナッシュビル・アンド・チャタヌーガ鉄道沿いの小さな町、南のデチャードに向かった脹れ上がったエルク川は大きな障害となっていたが、近く製材所解体し、筏を組んでその榴弾砲渡した。デチャードでは南軍小さな守備隊打ち破り軌道300ヤード (270 m)を剥がし南軍食料満ちていた操車場燃やした翌朝旅団カンバーランド山脈の麓に乗り入れスワニーの町に到着して鉄道支線破壊したスワニー数年前レオニダス・ポーク将来サウス大学建設する場所として選んだ所だった。南軍大部隊に追撃されたが稲妻旅団6月30日正午までにマンチェスター帰り着いた。この襲撃一人も失わなかった。 ブラッグその後方における襲撃大きな心配は抱かず破壊され鉄道素早く修復された。その軍隊防御施されたタラホーマに入って7月1日予測されるローズクランズの正面攻撃待った。しかし、ポークはその話し合い一時的にでも持たれないので軍隊運命大い危ぶんでおり、ブラッグ撤退奨めた。ハーディブラッグに全く信頼置いていなかったので、具体的に撤退奨めることすら拒んだが、留まって戦うことを奨励することもしなかった。1日後の6月30日午後3時ブラッグエルク川を渉って夜間撤退する命令発した北軍の攻撃前に撤退することで、ブラッグカンバーランド軍重大な損失与え可能性諦めたテネシー軍エルク川下流の陣地取ったが、ハーディポークはさらに南のコーワンの町へ動くことでブラッグ説得したスティーブン・E・ウッドワースは、「毅然としてよく練られている北軍前進と、常にあら探し協力もしない将軍達ブラッグ身体的に精神的に打ち壊したように思われと書いており、またブラッグには体の病が集中しており、痛みを伴う腫れ物もあって、戦線を探るために馬にも乗れない状態だった。コーワンの陣地は守るには不適だったのでそこには7月2日の夜までしか留まっていなかった。ブラッグ軍団指揮官達と相談するともなく7月3日チャタヌーガへの撤退命じたテネシー軍7月4日テネシー川を渉った。フィリップ・シェリダン指揮する追撃騎兵隊ブラッグ軍が川を渉る前にその後衛を捉えようとしたが失敗した南軍全軍7月7日までルックアウト近く露営した

※この「方面作戦」の解説は、「タラホーマ方面作戦」の解説の一部です。
「方面作戦」を含む「タラホーマ方面作戦」の記事については、「タラホーマ方面作戦」の概要を参照ください。

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