方面作戦
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この方面作戦の最初の動きは、実際には6月23日に始まった。グランジャー指揮下の予備隊の一部とミッチェル指揮下の騎兵師団がマーフリーズバラから真西のトライユヌに動き念入りな陽動行動を始めた。これはブラッグが想定していた北軍の主力攻撃はシェルビービルの方向にある南軍左側面から来るということを実際に演じようとしたものだった。同時に第21軍団ジョン・パーマーの師団は南軍の右側面の向こう、ブラディビルに移動し、そこで南軍の騎兵隊を押し返し、マンチェスターの方向に進んで南軍の背後に回り込めるものとされていた。ローズクランズがその軍団指揮官達にこれからの方面作戦について詳細な命令を伝えたのはこれらの動きが進行中のときだった。 ローズクランズの念入りな作戦はこの6ヶ月間を使って広範な訓練を行ったその試験を考えたものであり、グランジャー軍団は左翼に動き、シェルビービルの接近路を抑え、軍隊を大きく右旋回させることだった。ブラッグの注意は強固に防御を施されたシェルビービルに向けられており、トーマスの軍団はマンチェスター・パイクを南東に進軍しハーディ軍団の右側面であるフーバーズ・ギャップに向かうこととされた。この道はほとんど守備隊がいなかったので、ローズクランズの作戦では速度が重要だった。 ローズクランズは春の間に騎兵の増強を繰り返し求めていたが、ワシントンに拒否されており、1個歩兵旅団を騎兵として装備させる許可は得ていた。レイノルズ師団のジョン・T・ワイルダー大佐旅団、第17および第72インディアナ連隊と第98および第123イリノイ連隊は田園地帯で馬やロバを見付け、白兵戦のために長い柄のついた手斧を装備したので、この旅団は冷笑的に「手斧旅団」と呼ばれることになった。そのより強力な武器はスペンサー7連発ライフル銃であり、全員が携行した。ワイルダー旅団は機動性と火力を有しただけでなく、フーバーズ・ギャップが補強される前に急襲することに必要とされる部隊として高い士気をも持っていた。 我々の連隊は泥と水の中の丘陵斜面にあり、雨が土砂降りとなっていたが、砲弾が一つ一つ我々の近くで悲鳴をあげ、次は我々を粉々にすると思わせた。この時、敵は我々の十分近くにおり、我々の砲列への突撃が可能だったが、事実やってきた。我々の部隊は一瞬のうちに総立ちとなり、「スペンサー」からの恐ろしい銃火で前進してくる連隊はよろめきその軍旗は地に倒れたが、一瞬のうちにその軍旗は再び掲げられ前進してきた。我々の大砲が再装填される前に砲列に届くと考えているようだったが、「大事な点を見落として結論を出しており」、我々がスペンサー銃を持っていることを知らなかった。敵の突撃の雄叫びには次の一斉射撃が応え、次から次へと休むことなく続き、憐れな連隊が文字通り粉々になるまで続いた。突撃を試みた第20テネシー連隊のほとんど誰も再度突撃しようとする者は無かった。 —Major James A. Connolly, Wilder's Brigade ワイルダーの旅団は初日の戦闘でフーバーズ・ギャップへの急行とそこを占領することに成功し、その結果稲妻旅団という渾名も貰った。対する第1ケンタッキー騎兵連隊は短時間小競り合いを演じて圧力の下に後退したが、十分に餌を与えられた稲妻旅団の馬たちの前にはフーバーズ・ギャップに届かなかった。ケンタッキー連隊は部隊ごとにバラバラになり、南軍にとって不運にも騎兵隊の任務であるはずのその上官の作戦本部に北軍の動きを伝えることを怠った。ワイルダーはその騎馬旅団のかなり後方に主力歩兵部隊の支援があったが、南軍の援軍が到着できるまえにその道から押しだし確保しておくことに決めた。南軍ウィリアム・B・ベイト准将の旅団がブッシュロッド・ジョンソン准将の師団と幾らかの砲兵の支援を得てワイルダーの陣地を襲ったが、スペンサー銃の集中射撃で後退させられ、146名の死傷者(その部隊のほぼ4分の1)を出し、ワイルダー隊の損失は61名だった。ワイルダー旅団は第14軍団の主力歩兵部隊が到着するまでフーバーズ・ギャップを死守しその後の攻撃にも陣地を守った。軍団指揮官のトーマス将軍はワイルダーと握手して、「今日の勇敢な行動で貴方は何千という命を救った。私は3日間掛けてもこの道を確保できるとは予想していなかった。」と告げた。 6マイル (10 km)西のリバティ・ギャップでは同じような戦闘が起こった。マクック軍団の先遣隊はT・J・ハリソン大佐の指揮する第39インディアナ連隊であり、やはり馬に乗りスペンサー・ライフル銃を装備していた。彼等に敵対した数人の南軍哨戒兵を捕虜に取り、リバティ・ギャップにはほんの2個連隊しかいないことを見出した。マクックは主力歩兵部隊の到着を待つまでもなく、オーガスト・ウィリッチ准将の旅団にできる限り素早い前進を命じた。ウィリッチ部隊は道路の両側に1個連隊ずつを配置して斜面を駆け上がった。胸壁に対する正面攻撃は実行不可能だったので、南軍セントジョン・R・リドル准将とパトリック・クリバーン准将の旅団に対する激しい側面攻撃が起こった。ウィリッチ部隊を支援するために2番目の旅団が夕方に到着したとき、北軍はリバティ・ギャップの南入口から半マイル (0.8 km)押し込んでいた。 この方面作戦の1日目は激しい雨の中で遂行され、その天候は17日間も続くことになった(この作戦中に北軍兵は、タラホーマという名前がギリシャ語で「タラ」は泥、「ホーマ」はさらなる泥を意味するというユーモアのある噂を広めた)。この天候で北軍の進行は遅らされたが、この日はカンバーランド軍によって「ローズクランズの作戦の絶対的に欠陥のない実行」を記した。北軍はハイランド・リムで2つの重要な道を確保し、ブラッグ軍の右側面を向く位置にいた。 6月25日、ベイトとジョンソンはフーバーズ・ギャップにいる北軍を駆逐しようという試みを再開し、一方クリバーンは同じ事をリバティ・ギャップでやった。双方共に不成功であったが、クリバーンは北軍の援軍が到着するまでの暫くの間ウィリッチ部隊を後退させ、第77ペンシルベニア連隊に20%の損失を出させた。ローズクランズはそのカンバーランド軍を前進させ、道路がぬかるんできたので停止させた。しかし、この小康状態の間、ブラッグはその騎兵隊指揮官達が信頼できる情報を伝えてこなかったためにローズクランズ軍に対抗する有効な措置を採らなかった。フォレストは北軍右側面の攻撃が弱いということを伝えなかったし、ウィーラーはクリッテンデン軍団がブラディビルを通ってブラッグ軍の後方に回り込んでいることを報告できなかった。 ブラッグは6月26日になって自軍の右側面の戦闘が重要であり、左側面の行動は陽動に過ぎないことが分かった。ブラッグはポークの軍団に夜間に行軍しガイズ・ギャップを通ってマーフリーズバラに向かい、リバティ・ギャップにいる北軍を後方から攻撃し、一方ハーディには前面から攻撃するよう命じた。ポークはその任務の難しさに抗議し、ブラッグはトーマス軍団からの脅威を認識するようになってその攻撃を結局は中止した。一方、ローズクランズはマクックにリバティ・ギャップから退き、北のハイランド・リムの上縁周辺部に移動し、フーバーズ・ギャップでのトーマスの突破を有効に利用するよう命令した。 ハーディもまたブラッグの抱える困難さを助長していた。過去数ヶ月でテネシー軍の将官達の間に拡がった不信で戦略について直接の話し合いがほとんど行われず、ポークもハーディもブラッグの作戦をしっかりと把握していなかった。ハーディはタラホーマの陣地が不適切であることをこぼしていたが、ブラッグやジョセフ・ジョンストンが戦略的立場を理解し、ハーディ自身が彼等の作戦について十分な知識が無いと考えるよりも、歴史家のスティーブン・E・ウッドワースが述べているように、「彼(ハーディ)は単にその状況を前から持っていたブラッグは馬鹿だという考えを証明するものとしており」、さらに流れの中で「その指揮官が馬鹿である軍隊を救うために最善を尽くす」ことを追求した。その考えにそってハーディは、フーバーズ・ギャップにいるアレクサンダー・P・スチュアート少将の部隊にウォートレイス方向に退くよう命令した。もし彼がマンチェスター方向に退いておれば、経路沿いにあった絶好の防御陣地を使ってローズクランズ軍の進行を遅らせ、ブラッグが反撃を実行できたであろうが、単にトーマスの突破をさらに有効にしただけで、ブラッグには6月27日にタラホーマへ向けてポークとハーディに後退命令を出すしか選択肢を無くさせた。 ワイルダーの旅団は6月27日の午前8時にマンチェスターに到着し、その師団が正午までに町を占領した。ルソーとブラノンは、スチュアートが退くに従って、その師団をウォートレイスまで進ませた。西方ではグランジャーとスタンリーがガイズ・ギャップを前にまだ示威行動をしていたが、前進を試みる命令を受けた。スタンリーの騎兵隊は容易に南軍の反撃を押しのけ、このときはポーク軍団の撤退でほとんど放棄されていたシェルビービルの胸壁に接近した。幾らかの抵抗勢力が残っており、ロバート・H・G・ミンティ大佐が自らミシガン騎兵の「サーベル旅団」を率い胸壁を越えて騎乗突撃を敢行し撤退する南軍兵を追った。 6月28日、ワイルダーの旅団はブラッグ軍の後方にある鉄道施設を破壊するための襲撃に進発し、ナッシュビル・アンド・チャタヌーガ鉄道沿いの小さな町、南のデチャードに向かった。雨で脹れ上がったエルク川は大きな障害となっていたが、近くの製材所を解体し、筏を組んでその榴弾砲を渡した。デチャードでは南軍の小さな守備隊を打ち破り、軌道300ヤード (270 m)を剥がし、南軍の食料で満ちていた操車場を燃やした。翌朝、旅団はカンバーランド山脈の麓に乗り入れ、スワニーの町に到着して鉄道の支線を破壊した。スワニーは数年前にレオニダス・ポークが将来サウス大学を建設する場所として選んだ所だった。南軍の大部隊に追撃されたが稲妻旅団は6月30日正午までにマンチェスターに帰り着いた。この襲撃で一人も失わなかった。 ブラッグはその後方における襲撃に大きな心配は抱かず、破壊された鉄道は素早く修復された。その軍隊は防御を施されたタラホーマに入って7月1日に予測されるローズクランズの正面攻撃を待った。しかし、ポークはその話し合いが一時的にでも持たれないので軍隊の運命を大いに危ぶんでおり、ブラッグに撤退を奨めた。ハーディはブラッグに全く信頼を置いていなかったので、具体的に撤退を奨めることすら拒んだが、留まって戦うことを奨励することもしなかった。1日後の6月30日午後3時、ブラッグはエルク川を渉って夜間に撤退する命令を発した。北軍の攻撃前に撤退することで、ブラッグはカンバーランド軍に重大な損失を与える可能性を諦めた。 テネシー軍はエルク川下流の陣地を取ったが、ハーディとポークはさらに南のコーワンの町へ動くことでブラッグを説得した。スティーブン・E・ウッドワースは、「毅然としてよく練られている北軍の前進と、常にあら探しし協力もしない将軍達がブラッグを身体的にも精神的にも打ち壊したように思われ」と書いており、またブラッグには体の病が集中しており、痛みを伴う腫れ物もあって、戦線を探るために馬にも乗れない状態だった。コーワンの陣地は守るには不適だったのでそこには7月2日の夜までしか留まっていなかった。ブラッグは軍団指揮官達と相談することもなく、7月3日にチャタヌーガへの撤退を命じた。テネシー軍は7月4日にテネシー川を渉った。フィリップ・シェリダンが指揮する追撃騎兵隊はブラッグ軍が川を渉る前にその後衛を捉えようとしたが失敗した。南軍全軍は7月7日までルックアウト山近くで露営した。
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