指名投票
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「1880年共和党全国大会」の記事における「指名投票」の解説
月曜日の朝10時、大会議長のホアが小槌を叩いて開会を告げた。ユージーン・ヘイルが即座に大統領候補の指名投票に進むという動議を出し、ロスコー・コンクリングがその動議を支持した。新聞では投票の結果を予測しており、代議員達は勝者が確定するまでに何度も投票を行うことになると分かっていた。投票の点呼の間に、イリノイ州のジョン・A・ローガンが、自分の州は代議員が42人であり、そのうち24人のみがグラントを支持すると宣言して、会場を驚かせた。ローガンが以前にグラント支持派に宣伝していたように「固まって」はいないということだった。ニューヨーク州も同様な状況にあった。70人の代議員の中で51人がグラントを支持し、17人はブレイン、残り2人がシャーマンだった。ペンシルベニア州はさらに悪く、58人の代議員のうち、32人のみがグラント支持となっていた。 すべての州が態度を表明し、集計が行われた。グラントは304票、ブレインは284票、シャーマンは93票を得ており、バーモント州の上院議員ジョージ・E・エドマンズが23票、グラント政権で駐フランス大使を務めたエリフ・B・ウォッシュバーンが30票、ミネソタ州上院議員ウィリアム・ウィンダムが10票という結果だった。「トリアンビレイト」のいる州の中では、60人の代議員がグラントを支持していなかった。どの候補者も指名に必要な379票に達していなかったので、その日は投票が続いた。 ワシントンD.C.では、ブレインもシャーマンも第1回投票結果を聞いて失望していた。ブレインは1回目で300票近辺を予測すべきと言われていたが、それよりも16票足りず、1876年の第1回投票で得た数字よりも1票少なかった。シャーマンは110票と予測されていた。つまりブレインやグラントに予測される票数よりもかなり少なかった。しかし、シャーマンはグラントの票が割れたとすれば、指名に至る可能性があると考えていた。シャーマンが第1回投票結果を聞いた後で、「投票の幾らかは投票が始まる前に自分から逃げて行った」ことに明らかに怒り始めていた。オハイオ州の代議員のうち9人が自分から逃げてブレインに投票したことに動揺していた。シャーマンはブレインが「虚偽と冷笑と背信という(手段)」でオハイオ州の代議員を寝返らせたことを非難した。イリノイ州ガリーナでは、第1回投票結果を告げられてもグラントがいかなる感情もあらわさなかった。ある新聞記者が「黙した軍人はいつもの平静さで葉巻をくゆらせていた」と報告していた。グラントの妻、ジュリアは膠着状態を予測し、夫にシカゴを訪問して代議員達を驚かせてはと提案した。グラントはそれが不運としつけの悪さという印象を与えるので、賢明ではないと考えた。妻はグラントの心を変えさせようとしたが、グラントは決めたことに拘ったままだった。 こうしている間にも大会の代議員達は、勝者が決するまで投票を繰り返していた。その日の2回目の投票で、W・A・グライアというペンシルベニア州の代議員がジェームズ・ガーフィールドに投票した。しかし、その日の大半でガーフィールドに対する支持はその1票のままだった。夕食休憩までに18回の投票が行われた。夕食後にさらに10回の投票を行った。それでも勝利に必要な379票に近づいた候補者は居なかった。投票が12時間続いた後、マサチューセッツ州代議員ウィリアム・ラバリングがその日は休会にする動議を出した。グラント派の代議員数人が反対したが、休会動議は賛成446票、反対308票で可決された。28回の投票が終わり、グラント307票、ブレイン279票、シャーマン91票であり、残りはウィリアム・ウィンダムやジョージ・F・エドマンズのような特定州出身の候補者に割れた。 「ダークホース」の候補者を導入するという提案が起こり始めていた。各候補者を後押しする者達は同程度に指名を獲得すると決めていたが、投票の場に新しい代議員が投入されなければ、膠着状態を破れないと考えた者もいた。シャーマンやブレインの支持者が休会になった後に会合を持った。チャンドラーがその考えを説明した。ブレインは300票近くを得ており、単純に指名争いから降りるわけにはいかなかった。チャンドラーの説明では、「ブレインがその支持者を自由に投票させたとしても、アイオワ州、カンザス州、ネバダ州、カリフォルニア州、オレゴン州の票と準州の12票は、グラントに行くだろう。また南部州の票も同様だ」と予想していた。両陣営は朝の2時あるいは3時まで協議したが、何も決まらなかった。その夜、グラント派の指導者達はグランド・パシフィック・ホテルのロスコー・コンクリングのスイートルームに集まっていた。彼らは3期目に抵抗する者など、グラント指名に障害となる因子を議論した。多くの者がグラントは指名を受けないことになると予測した。グラント支持者達は他の2人の候補者のことを検討して、どちらも受け入れられないことで合意した。コンクリング自身がグラントの代わりに立つべきと要求する者もいた。グラントを外した場合に、コンクリングは共和党公認を得るためにあまり抵抗されないと論じていた。しかし、コンクリングは大統領候補に指名されるという考えを受け入れられなかった。 大会で私が他の票を全てを受けたとしても、私自身の票が欠けており、私は自分に投票しない。私は最後までグラント将軍を支持するニューヨーク州の代理人としてここにいる。このような条件下で彼のために来た者は選出されるに値しないだろうし、選出されるべきでない 。 6月8日火曜日朝の第1回投票は結果に2つの変化があった。マサチューセッツ州がその21票をジョージ・エドマンズ上院議員からジョン・シャーマンに乗り換え、シャーマンは116票となってそれまでの最高となった。ウィリアム・チャンドラーがミネソタ州代議員のうち3人を、同州出身のウィリアム・ウィンダムからジェイムズ・G・ブレインに切り替えさせた。32回目の投票では、ブレインが前夜と比べて6票落とし、グラントは309票に増えていた。票の動きは比較的小さかったが、コンクリングは「ニューヨーク州代議員団はグラントが午後1時までに指名を獲得すると主張する」と自信ありげに語った。33回目の投票で、ウィスコンシン州代議員団の9票がグラントからエリフ・ウォッシュバーンに移った。次の投票では、ウィスコンシン州20票のうち16票がジェームズ・ガーフィールド支持に変わった。ガーフィールドは即座にホア議長に、規則の問題を投げかけた。自分の同意がなければ、得票すべきではないと主張して「発表の正確さに異議」を提出した。ホアはガーフィールドの異議を却下し、ホアは規則の1点だけで大統領の候補が消されるのを見たくなかった、すなわちガーフィールドが候補に指名される機運を消したくなかったので、ガーフィールドの異議を却下したと、後に語っていた。その時の投票ではグラント312票、ブレイン275票、シャーマン107票、ガーフィールド17票だった。35回目の投票では、インディアナ州のベンジャミン・ハリソンが自州の27票(大半はブレイン支持だった)をガーフィールドに移すと発表した。メリーランド州代議員4人とミシシッピ州、ノースカロライナ州各1人もガーフィールド支持に切り替え、合計は50票になった。 ブレインは指名を得る確率が落ちて行っていると見ており、ブレインを踏みとどまらせようと来ていた訪問者に対して、「低落する市場でカードを浪費する」必要はないとコメントしていた。それはブレインに会うためにその客が訪問カードを出していたが、その会見は生産的なものにならないという意味だった。 ブレインは最も適した候補者がジェームズ・ガーフィールドだと感じ取っていた。ガーフィールドは親友であり、ガーフィールドを支持することでグラントとコンクリングを破ることができ、さらにガーフィールド政権で役職に指名されることもあると考えた。同様にシャーマンは仲間からの助言を聞いており、自分への支持をガーフィールドに向ける決断をし、「共和党を救う」と言った。両人はその支持者達にガーフィールドの指名を支持するよう伝えた。 36回目の投票で、ガーフィールドは399票を獲得し、グラントより93票多く、共和党公認候補の指名を獲得した。ブレインは42票、ウォッシュバーンが5票、ジョン・シャーマンが3票、残りは泡まつ候補に分かれた。ガーフィールドは指名を得た後の圧倒されるような感動の中にあったので、「インター・オーシャン」の記者が「死んでいるように青ざめ、友人から祝福の言葉を投げかけられても半分は意識に無いように見えた」と報道していた。大会は数千の人々がガーフィールドの名前を唱え、後には『自由の喊声』の斉唱に加わったので、狂乱の様相を呈していた。ロスコー・コンクリングなどグラントの支持者達は「むっつりした顔で」見ているだけであり、「その落胆の色を隠さなかった」。コンクリングは、全投票を通じて306人の代議員がグラント支持を崩さなかったことを誇りに思った。コンクリングはグラントの支持者と共に「306人の衛兵」協会を作った。この協会は毎年晩餐会を開き、「古い衛兵」と彫られた記念コインを発行すらしている。 その後でホア議長が小槌を叩き「ジェームズ・A・ガーフィールド、オハイオ州、アメリカ合衆国大統領候補に指名する」と宣言した。ガーフィールドは妻に宛てた手紙で、「もしこの結果が貴女の承認を得られるならば、(指名に)満足するべきだろう」と記した。妻のルクレティアは夫が指名されたことに感動し、承認を与えた。その後ガーフィールドは1881年に始まる任期で選ばれていたアメリカ合衆国上院議員の職を辞し、オハイオ州議会は代役にシャーマンを選出した。 ガーフィールドを支持したオハイオ州代議員団は、ニューヨーク州のストールワート派を、ガーフィールドの副大統領候補に臨んだ。これにはコングリングを宥める意味もあり、また出身州の地域的バランスも考慮された。リーヴァイ・モートンは副大統領候補になることについてコンクリングに相談したが、コンクリングはグラントが落選したことでその時も不満な状態であり、モートンに出馬しないよう助言したので、モートンも辞退した。ロスコー・コンクリングとの結びつきが強いチェスター・A・アーサーが推薦された。コンクリングはアーサーにも受け付けないよう説得しようとしたが、アーサーは副大統領を「今まで得られるとは夢見たこともないような栄誉」であると言って推薦を受けることにした。アーサーは指名投票で468票を獲得した。次点はエリフ・ウォッシュバーンの193票、続いてマーシャル・ジュウェルの44票だった。元テキサス州知事のエドマンド・J・デイビスも副大統領候補に挙がっていたが、ほとんど支持は無かった。大会議長、マサチューセッツ州のジョージ・フリスビー・ホアが、6月8日午後7時25分に小槌を叩き、それまでで最長の共和党全国大会は閉会となった。 大統領候補指名投票 投票回数1回目2回目3回目4回目5回目6回目7回目8回目9回目10回目11回目12回目13回目14回目15回目16回目17回目18回目19回目20回目ユリシーズ・グラント304305305305--305306308305305304305305309306303305305308ジェイムズ・G・ブレイン284282282281--281284282282281283285285281283284283279276ジョン・シャーマン93949395--9491909293928989888890919693ジョージ・F・エドマンズ34323232--3231313131313131313131313131エリフ・B・ウォッシュバーン30313131--3132323232333335363636353235ウィリアム・ウィンダム10101010--1010101010101010101010101010ジェームズ・ガーフィールド0111--21222110000011ベンジャミン・ハリソン0010--00000000000000ラザフォード・ヘイズ0000--00011100000000ジョージ・ワシントン・マクラリー0000--00000010000000エドマンド・J・デイビス0000--00000000001000ジョン・ハートランフト00000000000000000011大統領候補指名投票 投票回数21回目22回目23回目24回目25回目26回目27回目28回目29回目30回目31回目32回目33回目34回目35回目36回目ユリシーズ・グラント305305--302303306307305306308309309312313306ジェイムズ・G・ブレイン276275--28128027727927827927627027627525742ジョン・シャーマン9697--94939391116120118117110107993ジョージ・F・エドマンズ3131--31313131121111111111110エリフ・B・ウォッシュバーン3535--35363635353337444430235ウィリアム・ウィンダム1010--1010101074334430ジェームズ・ガーフィールド11--2222221111750399ジョン・ハートランフト11--000000000000フィリップ・シェリダン00--000001000000ロスコー・コンクリング00--000000100000副大統領候補指名投票 チェスター・A・アーサー468エリフ・B・ウォッシュバーン193マーシャル・ジュウェル44ホーレス・メイナード30ブランシェ・ブルース8ジェイムズ・L・アルコーン4エドマンド・J・デイビス2トマス・セトル1ステュワート・L・ウッドフォード1
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