尊攘派の蹉跌(1863年 - 1864年)
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「幕末」の記事における「尊攘派の蹉跌(1863年 - 1864年)」の解説
この頃、京都へ尊王攘夷派の志士が集い、「天誅」と称して反対派を暗殺するなど、治安が極端に悪化していた。安政の大獄に関わった九条家家臣の島田左近の暗殺に端を発したこれらのテロ行為は、幕臣や公家を恐怖に陥れた。逆に、尊攘派の代表と見られた姉小路公知が暗殺される事件(朔平門外の変)や尊攘志士の本間精一郎が暗殺される事件も起きた。岩倉具視ら公武合体派の公家は排除され、三条実美ら尊王攘夷派の公家が朝議を動かすようになり、公武合体派の勢力は低下した。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}長州藩は8000名と言われる駐在兵を京都に置き、シンパを含めれば三万を動員できるとされた[要出典]。 こうした尊攘派により討幕が行われることを憂う孝明天皇の思惑とは裏腹に、尊王攘夷派の真木和泉らは討幕・王政復古を実現させるべく運動し、1863年9月25日(文久3年8月13日)、天皇が神武天皇陵・春日大社に行幸して攘夷を祈願して親征の軍議を行うという詔が出る。これを受け、かねてより中川宮朝彦親王を介して天皇の真意を知っていた薩摩藩の高崎左太郎は、会津藩の秋月悌次郎を通じて松平容保を説いた。容保は帰藩途中の会津藩兵を呼び戻し、中川宮とともに綿密な計画を練り、天皇の同意のうえで薩摩藩と30日(文久3年8月18日)に宮廷の御門を制圧し、長州藩兵および三条ら7人の公卿を長州へ撤退させるクーデタを決行し(八月十八日の政変、七卿落ち)、真木や久坂玄瑞ら長州藩系の尊攘勢力の一掃に成功した。 いっぽう1864年2月7日(文久3年12月30日)以降、徳川慶喜・松平春嶽・松平容保・伊達宗城(宇和島藩主)・島津久光による初の諸侯会議となる参預会議が開催され、神奈川鎖港談判、長州藩の処置、大坂港の防備強化などの議題が話し合われた。春嶽・久光ら諸侯は自論の開国論を唱えるが、幕府を代表する慶喜が横浜鎖港を主張して対立し、結局幕府の思惑どおり何の実績もあげられぬまま、翌年3月に解散となった。春嶽らは帰国し参預会議体制はわずか数ヶ月しか持たなかった。薩摩藩はこれを機に幕府や慶喜との確執を深めていくこととなる。この後、朝廷から禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮に任ぜられた慶喜は、京都守護職松平容保(会津藩主)・京都所司代松平定敬(桑名藩主)兄弟らとともに、江戸の幕閣から半ば独立した動きをみせることとなる(一会桑体制)。 この頃、各地で尊攘過激派による実力行使の動きが見られたが、いずれも失敗に終わっている。1863年9月29日(文久3年8月17日)、大和では公卿中山忠光、吉村寅太郎・池内蔵太(土佐藩士)、松本奎堂(三河刈谷藩士)、藤本鉄石(岡山藩士)、さらには河内の大地主水郡善之祐らも加わった天誅組の変が勃発し、続いて但馬では澤宣嘉(前年京都から追放された七卿の一人)・平野国臣(福岡藩士)らによる生野の変が連鎖的に発生した。また土佐藩では一藩勤皇を唱えた武市瑞山が率いる土佐勤王党(前年に藩執政吉田東洋を暗殺)が公武合体に戻った元藩主の山内豊信により弾圧され尊攘勢力は後退した。 さらに水戸藩では1864年5月2日(元治元年3月27日)、藤田小四郎・武田耕雲斎ら天狗党が筑波山で挙兵。水戸藩の要請を受けた幕府軍の追撃により壊滅させられる事件も発生した(→天狗党の乱)。 このような状況下、前年の八月十八日の政変以降影響力を減退していた尊王攘夷派の中心・長州藩では、京都への進発論が沸騰。折から京都治安維持に当たっていた会津藩預かりの新撰組が、池田屋事件で長州藩など尊攘派の志士数人を殺害したため、火に油を注ぐこととなり、ついに長州藩兵は上京。1864年8月20日(元治元年7月19日)、京都守備に当たっていた幕府や会津・薩摩軍と激突し、御所周辺を巻き込んだ合戦が行われた(→禁門の変)。この戦で、一敗地にまみれた長州藩は逆賊となり京から追放され、幕府から征伐軍が派遣されることとなる。さらに9月5日(元治元年8月5日)には、前年の下関における外国船砲撃の報復として、イギリス・フランス・アメリカ・オランダ4国の極東艦隊が連合して下関を攻撃。装備に劣る長州はここでも敗れ、長州藩は窮地に陥った(四国艦隊下関砲撃事件)。
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