大粛清
大粛清
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「ラヴレンチー・ベリヤ」の記事における「大粛清」の解説
1938年8月にスターリンはNKVDの議長代理としてベリヤをモスクワに送り込んだ。NKVDはソヴィエト連邦の治安と警察権力を統轄する組織であった。当時NKVDは、内務人民委員部(1934年にGPUはここに統合された)の長官ニコライ・エジョフのもと、数百万人もの人々に及んだ大粛清として知られる「ソヴィエト連邦と人民の敵(とみなされた者)」の告発活動に従事していたが、粛清が余りに過剰であったため、ソヴィエト国家、経済、軍隊の基盤にダメージをもたらした。スターリンによる大粛清の最中、スターリンは粛清の実行者であったエジョフを遠ざけるようになり、代わってベリヤが1938年8月22日にエジョフの内務人民委員代理に任命され、徐々にエジョフに代わって粛清の指揮をとるようになる。11月25日には正式にエジョフが内務人民委員を解任されてベリヤが内務人民委員となり、エジョフやその配下の機関員たちを粛清して、大粛清の総仕上げにあたった。スターリンは、(エジョフによる)粛清の行き過ぎを抑える決定を下し、同年9月にベリヤがNKVD内の連邦治安管理局(GUGB)の長官に任命され、ついで11月にはエジョフの後任としてNKVDの議長となった(エジョフは1940年にベリヤの部下に尋問され、銃殺刑に処された)。またNKVDの人員たちも粛清され、人員の半数がコーカサス出身のベリヤに忠実な人物と入れ替わった。 ベリヤの名は大粛清に密接に結び付けられているが、彼が実際にNKVDの議長となったときは、弾圧が緩和された頃であった。ベリヤ着任後に10万人以上の人々が労働キャンプから解放されると共に、大粛清に不正と行き過ぎがあったこと、その責任がエジョフに帰せられることが公式に認められた。ただし、この粛清緩和はあくまで相対的なものであり、その後も逮捕と処刑は継続された。1939年3月にベリヤは政治局員候補となり、最高指導者の1人となっていた。 1940年に粛清のペースが再び加速され始めた。この時期のベリヤはポーランドとバルト三国の占領及び同国の人々の強制移住を指揮した。1941年には内務人民委員部の議長となっており、当時のソ連の警察官僚システムにおいて最高の地位にあった。同年2月に彼は人民委員会議副議長となり、同年6月にナチス・ドイツがソ連に侵入すると、連邦国防委員となった。第二次世界大戦中の彼は主に国内問題に当たり、NKVDの労働キャンプに収容されていた数百万もの人々を、戦時生産活動に使役した。彼はマレンコフと共に武器・航空機・航空機エンジンの生産を監督したが、これがベリヤとマレンコフとの同盟の始まりであり、後に大きな意味を持つことになる。 1941年2月には人民委員会議副議長(副首相)に就任し、独ソ戦中もこの職にあった。彼の配属下にあった部隊は前線で脱走兵の処刑やスパイの摘発などで力を奮った。また、北カフカス地方に赤軍とNKVDを派遣しクリミア・タタール人その他国内の対独協力の嫌疑をかけられたドイツ系少数民族の強制移住を実行。その過程で多くの死者を出し、足手まといになる住民は問答無用に殺害してスターリンから要求された期限を厳守した。さらに、彼は悪名高いカティンの森事件の首謀者であり、シベリア抑留など外国人捕虜を収容する収容所を管轄する最高責任者でもあった。対ドイツ戦終結後の1945年7月9日にソ連邦元帥の階級を得て、翌1946年3月には党政治局員となる。 1944年にベリヤはドイツ軍に協力したとされる、または協力すると疑われた様々な少数民族の処理にあたった。これらの多くの人々はソ連領の中央アジアに移住させられた。同年12月にソ連の原子爆弾開発プロジェクトの監督に当たることになった。この関係で彼はアメリカの核兵器プログラムへの諜報活動を開始し、その結果ソ連は核兵器開発の技術を得て、1949年には核兵器の開発と実験を行うに至った。 しかし彼の最も重要な貢献(そして恐らく彼がこのプロジェクトを課せられた主な理由)は必要な労働力の捻出であった。実際の核開発プロジェクトは、有能な核物理学者グループだけではなく、しばしば危険を伴う様々な作業のために膨大な労働力を必要とした。強制収容所はウラン採掘・ウラン加工施設の建設と稼動・核実験施設の建設のために数十万人もの労働力を提供した。NKVDもこのプロジェクトの安全性と機密保持の確保にあたった。1945年にソヴィエト警察の階級システムが軍隊システムに変更されたことに伴い、ベリヤの階級もソヴィエト連邦元帥に相当するものとなった。彼は軍隊の指揮権を持つことは無かったが、戦時生産の組織化を通じて、第二次世界大戦に於けるソ連の勝利に重要な寄与をすることとなった。さらに東ヨーロッパ系の警察組織もベリヤの支配下に組み込まれ、ベリヤの警察権力は絶頂を迎えた。
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