吉村家
吉村家
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(駿河国富士郡比奈村(現在の静岡県富士市比奈)、東京府北豊島郡日暮里町(現在の東京都荒川区東日暮里)、東京都三鷹市) 戦国時代の武将福島正則の家臣吉村又右衛門宣充(のぶみつ)は吉村家の始祖と言い伝えられてきた。主家没落後又右衛門は浪人になった。桑名藩主となった松平定綱は彼を寛永20年(1643年)に名目は五千石、実質は一万石で招いた。吉村又右衛門宣充は慶安3年(1650年)に没し、桑名顕本寺に葬られた。今も顕本寺に墓があり、桑名市指定史跡となっている。その後の吉村家は本家、分家の二家系とも松平家の家老として代々勤めた。 吉村昭の一族は、福島正則が広島を去り、越後の配所へ流されるとき、広島を去って富士山麓の比奈に定住したと言い伝えられてきた。ここに帰農して農耕に従事し、地方の豪族として村を治めた。長学寺所蔵の「過去帳」によれば初代は萬右衛門宗感、二代は萬右衛門理安、三代は萬右衛門久甫、四代は萬右衛門浄底、五代は萬右衛門、六代は権右衛門日儀、七代は権右衛門日持、八代は萬右衛門日宣、九代は権右衛門、十代は権右衛門、十一代は萬右衛門、十二代は権右衛門とつづく。昭の父の隆策家は三代目の久甫の家から分家したものである。久甫には浄底、重兵衛、知恵の三兄妹があった。四代目を浄底が継いだ。知恵は二代目萬右衛門の三男利左衛門日行を婿養子に迎えて分家した。この利左衛門が隆策家の初代である。その後二代目から六代目までは利左衛門を引き継いで名乗った。七代目は儀左衛門、八代目は利八、九代目は昭の父隆策である。二代目の利左衛門、六代目の利左衛門、七代目の儀左衛門は養子で六代目と七代目は比奈の叔父吉村郡一家から養子にきた。 曽祖父・儀左衛門(豆腐屋、米屋) 文政8年(1825年)生 - 慶応4年(1868年)8月没 家業の豆腐屋とともに米屋を営んでいたが、十七歳の時山で怪我をし足が不自由になった。店の前には豪農の渡辺家があり、儀左衛門はその米の取扱いをするようになった。慶応4年(1868年)8月、海辺の得意先に掛取りに出掛けた時、三人の暴漢に襲われ殺害された。吉村昭はこの曽祖父殺害の事実を調べるため静岡に出かけたが、詳細はわからなかったという。 曽祖母・えい(静岡県富士郡須津村中里、菊池氏の娘) 祖父・利八(米屋、玉子[要曖昧さ回避]屋、乾物屋、綿屋) 1903年(明治36年)2月没 利八は「其の人となり信義に厚く、商才に秀いで、苦境に処して屈せず卓論不羈の風格があった」。1903年(明治36年)2月24日、憲政本党の森田勇次郎をかついで衆議院議員の選挙に奔走していた利八は急死した。 祖母・てる(静岡県富士郡吉原町依田原、土屋豊次郎の妹) 1939年(昭和14年)4月没 父・隆策(実業家) 1891年(明治24年)2月生 - 1945年(昭和20年)12月没 吉村昭の少年時代、家は家父長と呼ばれる父親を中心に営まれた。その権威は絶対的なものだった。1901年(明治34年)4月町立沼津商業学校に入学した。あまり勉強好きではなかったようで、父利八の死後学校に行かなくなった。青少年時代の隆策は極道息子だった。母てるが甘やかして育てたせいといわれている。秘かに不動産の権利書を持ち出し、金に換え、遊興にふけった。隆策の酒と女と博打で吉村家は没落していった。「富士郡で一、二」といわれた製綿業者で、職人を三十人以上も使っていた家業は傾いた。生まれ故郷を捨てることを決意した。このとき隆策25歳だった。横須賀市若松町に綿屋を開いた。生活は貧しかった。五男敬吾が生まれて三ヵ月後に夜逃げをするように横須賀市を去り、東京府下北豊島郡日暮里町元金杉千百五番地の貸工場に落ち着いた。日暮里は田畑のなかに点々と家屋が建っている新開地だった。綿の打直しの仕事はたくさんあった。1919年(大正8年)4月、田宮惣左衛門から百二十五坪の地所を借り、住宅十一坪五合、工場三十八坪、綿機三台、電動機一台をそなえた家が新築された。「吉村製作所」の看板をかけた。1932年(昭和7年)からは日暮里町四丁目二番地で綿糸紡績業を営み、東洋商業学校を卒業した長男利男に管理させた。 母・きよじ(静岡県富士郡大宮町(現在の富士宮市宝町)、清亀次郎の長女) 母の父亀次郎は母きよじを厳しく躾た。祖父の躾は母を通して吉村昭に伝えられた。 兄 利男 1911年(明治44年)9月生 - 没 武夫(実業家・花嫁わた社長、郷土史家) 1912年(大正元年)12月生 - 英雄 1914年(大正3年)6月生 - 政司 1916年(大正5年)12月生 - 疫痢で生後八ヵ月足らずで亡くなる。 敬吾 1918年(大正7年)4月生 - 1941年(昭和16年)8月戦死。 健造 留吉 1923年(大正12年)6月生 - 1923年(大正12年)6月没。留吉は誕生した日に亡くなる。 姉・富子 1924年(大正13年)7月生 - 7歳の夏、疫痢にかかり亡くなる。 弟・隆 - 1981年(昭和56年)8月没。末期の癌で亡くなる。その闘病録として執筆したのが、『冷い夏、熱い夏』である。 妻・節子(松文産業の専務北原芳司の次女、作家) 1928年(昭和3年)6月生 - 長男 長女
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