『1Q84』の「マザ」と「ドウタ」が意味するもの
2013.01.15 00:58|雑記|
以前、『1Q84』をありのまま受け入れるということという記事を書いたが、今回はその続編であり、前回と同様に書評というよりは物語との向き合い方についての話である。
まず、『1Q84』は決して優しい(あるいは易しい)物語ではない。「1984」と「1Q84」が交錯する物語の中で、『空気さなぎ』という物語が描かれる。そして、「リトル・ピープル」なるものがつくり出す「空気さなぎ」は、ある物語を書き換える「もうひとつの物語」として機能する。『1Q84』の登場人物はそれぞれ自らの物語を脅かされ、此岸と彼岸の淵に立たされることになる。また同時に、読者も『1Q84』という複合的な物語との対峙を余儀なくされる。つまり、わかりやすい形で登場人物に感情移入して物語を読み進めることを許してくれないのである。
『1Q84』は「◯◯小説」と一言で表現することができない、むしろ物語のあり方、読者としての向き合い方を問う物語である。だとすれば、どう向き合うべき物語なのか。それを紐解くカギが、本作に登場する宗教的な概念「マザ(レシヴァ:受け入れるもの)」と「ドウタ(パシヴァ:知覚するもの)」だ。このマザとドウタの関係性の中にこそ、『1Q84』の構造が示されている。登場人物があるときは「マザ」となり、またあるときは「ドウタ」となる。しかし、本来「マザ」と「ドウタ」は二つのものではなく、一つのものの中にある。
どういうことか、これは『空気さなぎ』は誰が書いたのか、どのようにして出来上がったのかを考えればわかりやすい。アザミは戎野の娘という設定だが、『空気さなぎ』を代筆したとされる人物であるにもかかわらず、一度も登場しない。「アザミ」は便宜的な呼称であり、ふかえりがマザとドウタの一人二役を演じて(切り分けて)書いたとするのが妥当である。「リトル・ピープル」に対抗すべきストーリーの原型を象ったところで天吾に白羽の矢が立ち、『空気さなぎ』は小説として完成する。
もちろん、ここで完成したのは小説だけではない。マザとドウタの関係も同時に「継承」されている。リーダーとふかえりのマザとドウタの関係性が、雷の日の“儀式”により半ば強引に受け継がれ、天吾は「1984」の住人から「1Q84」の登場人物となる。そして、青豆もまたリーダーの「息の根を止める」ことと引き換えにあゆみを失い、「1Q84」に足を踏み入れることになる。ストーリーの中で別のストーリーの担い手からバトンを渡され、さらに別のストーリーが紡がれるという構図だ。
またこれは、作者である村上春樹と『1Q84』、「1Q84」という世界と登場人物、そして『1Q84』とそれを手に取る読者というように、光の当て方次第でそれぞれがマザにもドウタにもなると言い換えられる。読者は、ただ小説に身を委ねるだけでなく、自分自身の人生の主人公であり、ストーリーテラーであることを問われ、マザとドウタ(本体と分身)が分かれないよう注意を払う必要があると示唆されている。
宗教団体「さきがけ」から失踪してきた少女の様子に見て取れるが、本来ひとつのものであるはずのマザとドウタが別のものとして分たれてしまうと、光を失い、言葉を失い、そこは闇となり、空白となる。そうなれば、リトル・ピープルはその空白にアナザーストーリーを書き込んでしまう。『1Q84』における宗教団体は自分自身の物語を見失った状態のメタファーであり、その状況下においてはリトル・ピープルに対抗する術はない。
言うまでもなく、それに対抗できるストーリーが『空気さなぎ』であるが、これは「悪しき存在としてのリトル・ピープルから身を守るためのもの」ではなく、「自分自身を失うことなく自らの意志で生きることを気づかせる装置のようなもの」である。(だからこそ、ベストセラーになり多くの人に読まれる必要があった)
こう考えると、『1Q84』は決してわかりやすい小説ではないものの、テーマはごくシンプルなのではないかと思えてくる。ふかえりのストーリーに巻き込まれた天吾と、リーダーのストーリーに誘い込まれた青豆が『1Q84』で出会い、二人のストーリーを描こうともがく中で、「新しい命=小さきもの」が生まれる。その小さきものは新たなるストーリーの象徴であり、希望でもある。重層的な構造を持つストーリーの中に、ごくシンプルな形で連綿と続く親と子の関係性を見出すことができるのだ。
複合的に語られる「マザ」と「ドウタ」は、自分がどこにいるのか、自分はどうあるべきなのかを教えてくれる。『1Q84』の登場人物がそうであるように、どのような人生を歩むかは人それぞれであり、必ずしも思い通りにはならないし、理不尽なことに巻き込まれてしまうこともある。ただ、それでも自分自身であることを放棄せず、人生の主人公として物語を紡いでいかなければならない。つまりそれは、生き抜くということだからである。
※「Yahoo!ニュース 個人」の記事を転載しています
まず、『1Q84』は決して優しい(あるいは易しい)物語ではない。「1984」と「1Q84」が交錯する物語の中で、『空気さなぎ』という物語が描かれる。そして、「リトル・ピープル」なるものがつくり出す「空気さなぎ」は、ある物語を書き換える「もうひとつの物語」として機能する。『1Q84』の登場人物はそれぞれ自らの物語を脅かされ、此岸と彼岸の淵に立たされることになる。また同時に、読者も『1Q84』という複合的な物語との対峙を余儀なくされる。つまり、わかりやすい形で登場人物に感情移入して物語を読み進めることを許してくれないのである。
『1Q84』は「◯◯小説」と一言で表現することができない、むしろ物語のあり方、読者としての向き合い方を問う物語である。だとすれば、どう向き合うべき物語なのか。それを紐解くカギが、本作に登場する宗教的な概念「マザ(レシヴァ:受け入れるもの)」と「ドウタ(パシヴァ:知覚するもの)」だ。このマザとドウタの関係性の中にこそ、『1Q84』の構造が示されている。登場人物があるときは「マザ」となり、またあるときは「ドウタ」となる。しかし、本来「マザ」と「ドウタ」は二つのものではなく、一つのものの中にある。
どういうことか、これは『空気さなぎ』は誰が書いたのか、どのようにして出来上がったのかを考えればわかりやすい。アザミは戎野の娘という設定だが、『空気さなぎ』を代筆したとされる人物であるにもかかわらず、一度も登場しない。「アザミ」は便宜的な呼称であり、ふかえりがマザとドウタの一人二役を演じて(切り分けて)書いたとするのが妥当である。「リトル・ピープル」に対抗すべきストーリーの原型を象ったところで天吾に白羽の矢が立ち、『空気さなぎ』は小説として完成する。
もちろん、ここで完成したのは小説だけではない。マザとドウタの関係も同時に「継承」されている。リーダーとふかえりのマザとドウタの関係性が、雷の日の“儀式”により半ば強引に受け継がれ、天吾は「1984」の住人から「1Q84」の登場人物となる。そして、青豆もまたリーダーの「息の根を止める」ことと引き換えにあゆみを失い、「1Q84」に足を踏み入れることになる。ストーリーの中で別のストーリーの担い手からバトンを渡され、さらに別のストーリーが紡がれるという構図だ。
またこれは、作者である村上春樹と『1Q84』、「1Q84」という世界と登場人物、そして『1Q84』とそれを手に取る読者というように、光の当て方次第でそれぞれがマザにもドウタにもなると言い換えられる。読者は、ただ小説に身を委ねるだけでなく、自分自身の人生の主人公であり、ストーリーテラーであることを問われ、マザとドウタ(本体と分身)が分かれないよう注意を払う必要があると示唆されている。
宗教団体「さきがけ」から失踪してきた少女の様子に見て取れるが、本来ひとつのものであるはずのマザとドウタが別のものとして分たれてしまうと、光を失い、言葉を失い、そこは闇となり、空白となる。そうなれば、リトル・ピープルはその空白にアナザーストーリーを書き込んでしまう。『1Q84』における宗教団体は自分自身の物語を見失った状態のメタファーであり、その状況下においてはリトル・ピープルに対抗する術はない。
言うまでもなく、それに対抗できるストーリーが『空気さなぎ』であるが、これは「悪しき存在としてのリトル・ピープルから身を守るためのもの」ではなく、「自分自身を失うことなく自らの意志で生きることを気づかせる装置のようなもの」である。(だからこそ、ベストセラーになり多くの人に読まれる必要があった)
こう考えると、『1Q84』は決してわかりやすい小説ではないものの、テーマはごくシンプルなのではないかと思えてくる。ふかえりのストーリーに巻き込まれた天吾と、リーダーのストーリーに誘い込まれた青豆が『1Q84』で出会い、二人のストーリーを描こうともがく中で、「新しい命=小さきもの」が生まれる。その小さきものは新たなるストーリーの象徴であり、希望でもある。重層的な構造を持つストーリーの中に、ごくシンプルな形で連綿と続く親と子の関係性を見出すことができるのだ。
複合的に語られる「マザ」と「ドウタ」は、自分がどこにいるのか、自分はどうあるべきなのかを教えてくれる。『1Q84』の登場人物がそうであるように、どのような人生を歩むかは人それぞれであり、必ずしも思い通りにはならないし、理不尽なことに巻き込まれてしまうこともある。ただ、それでも自分自身であることを放棄せず、人生の主人公として物語を紡いでいかなければならない。つまりそれは、生き抜くということだからである。
※「Yahoo!ニュース 個人」の記事を転載しています
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