『1Q84』をありのまま受け入れるということ
2012.09.27 02:20|雑記|
『1Q84』について少し書きたいことがある。書評というよりはむしろ構造的な話であり、物語との向き合い方についてだ。
まず、私は村上春樹ファンである。彼の小説はすべて読んでおり、ストーリーテラーとしての村上に全幅の信頼を寄せている。しかも、本作は主人公が小説の中で小説を書くという好みのストーリーだったから、おもしろくないはずがないと思っていた。だが、読み進めるほどにある種の違和感を覚えることとなった。
『1Q84』にはこれまでの作品になかった点がある。ひとつは『1Q84』はこれまでで一番長く、かつ「終わり」が明確でない点。そしてもうひとつは、主人公による一人称ではなく、三人称で書かれている点だ。前者で言えば、これまでもすべての物語がすっきりと終わったわけではないという見方もあるが、少なくとも本作のようにBOOK1、BOOK2という形で展開されたものはない。ページ数の関係で上下巻に分けるのとはわけが違う。BOOK3で終わりとすることもできるが、描かれるべきものをいくつも残しており、BOOK4、BOOK5と続きが出てもおかしくない。
また後者に関しては、三人称で書かれた二人の主人公の章が交互に展開されることで、従来の「僕」に憑依する読み方ができなくなっている。読み手にとって物語が客体となることで、村上春樹のストーリーテリング特有のドライブ感は薄められる。その意味で首を傾げたファンも多いのではないだろうか。逆に、自意識の強い「僕」に馴染めなかった人は、はじめて村上作品を好意的に受け入れることができたかもしれない。
では、このように物語と読み手の距離感を変え、未完成な部分を残すことにはどんな意味があるのだろうか。おそらく多くの人が様々な批評をしているだろうが、私は「受け入れがたさ」をどう捉えるかを読者に委ねているのではないかと思っている。言い換えれば、物語の中で描かれる受け入れがたい事柄をどれだけ受け入れられるかを試されているということだ。
ひとつめの「受けれがたいもの」。それは、荒唐無稽な設定、説明不足な部分が目立つことだ。タクシーの中からはじまる物語への伏線の張り方、「1Q84」への入り口の描写には大いに引き込まれるものがあったが、そこから先は日本を代表する作家のそれとは思えないレベルの綻びが散見される。たとえ制裁が必要な人間のクズだとしても、唯一無二の親友と女主人の愛娘の報われない死というエピソードを持ち出したところで、その方法含め青豆が人殺しになるのは無理があるし、スタートから躓いている。リトルピープルはもちろんのこと、謎に包まれたもの、描写自体が欠落したものなど、全体を通してクエスチョンマークがつく箇所は枚挙に暇がない。
そしてもうひとつの「受けれがたいもの」は、作中の登場人物がこの受け入れがたいものを受け入れていること、それ自体である。フィクションは多少なりとも無理があったり矛盾したりするものなのだから、至って普通のことかもしれない。しかし、私は村上が意図的にそうしたと考える。結論からいうと、青豆も天吾もそれぞれ身の回りで起こる非現実的なことに流され自分の人生を生きていないという「受動的な受け入れ」と、「1Q84」に迷い込み青豆と天吾が互いを求めることで運命を切り開いていく「能動的な受け入れ」という構図を描いたのではないかと思っている。(青豆)と(天吾)の章が交互に展開され、最終章で(天吾と青豆)となるのもそのためであろう。
このように考えると、必然的に異物としての「牛河」の存在が浮上してくる。BOOK3では、青豆と天吾の間に割り込むかのように牛河の章が加えられるが、彼は一般的にいって容貌、人格ともに愛されるキャラクターではなく、「準主役」を演じるには役不足とさえ言える。そして実際に、「受け入れがたい」人物、役どころとして描かれており、彼の末路もまた受け入れがたいものがあった。二人を追いつめた結果「1Q84」に入り込み、これ以外にできることはないと確信して突き進んだが、それはすでに必要のない行いになっており、しかも極めて救いがたい形で排除されてしまう。読み手に「なぜこうならなくてはならなかったのか」と後味の悪さを残し、牛河本人もそのように嘆くことになる。
「1Q84」に迷い込んだという意味では同じなのに、なぜこうも結末が違ってしまったのか。青豆と天吾の邂逅を阻もうとしたことで、牛河は神の裁きを受けたのだろうか。いや、そうではない。『1Q84』は徹底して青豆と天吾の物語のように見えるが、決してそうではない。受け入れがたい要素の詰まった『1Q84』は青豆と天吾の物語であるが、同時に「私」の物語でもある。人は決して他者の人生を歩めないし、別の人間にもなれない。自らの人生を顧みず他者の人生に介入することで、知らず知らずのうちに理不尽な世界に飲み込まれてしまう。そのことを牛河が身をもって教えてくれているのである。
一方、青豆と天吾はあらゆる受け入れがたいものを受け入れ、村上の言葉を借りるならば「精神的な囲い込み」に絡め取られないように、自分自身の物語「1Q84」を生きた。言い換えれば、青豆と天吾は人生の目的を見出したことにより、本当の意味で物語の主人公になったのである。だからこそ、青豆は特別な力を持った教団のリーダーの預言を覆すことができ、天吾は新たに小説を書き始めることができたのだ。
私ははじめに、小説との距離に対して違和感を覚えたと書いたが、その違和感を抱えたまま二人の行く末を見守るだけでは、この物語は完結しない。だから、『1Q84』では物語の主人公=「僕」に憑依する必要はなく、むしろ「私」の物語として読むことが求められるのである。天吾が『空気さなぎ』ではなく、自らの物語を完成させなければならないように、私たちもまたそれぞれの物語を生きなければならない。
青豆にとっての天吾、天吾にとっての青豆、そして二人にとっての「小さきもの」。何に代えても守らなければならないものは、一人ひとりの物語の中にある。冒頭でタクシーの運転手が
と言ったように、それは1984年であろうと、「1Q84」であろうと変わらない。『1Q84』を自分の物語としてありのまま受け入れよ、これが私が受け取ったメッセージである。
※「Yahoo!ニュース 個人」の記事を転載しています
まず、私は村上春樹ファンである。彼の小説はすべて読んでおり、ストーリーテラーとしての村上に全幅の信頼を寄せている。しかも、本作は主人公が小説の中で小説を書くという好みのストーリーだったから、おもしろくないはずがないと思っていた。だが、読み進めるほどにある種の違和感を覚えることとなった。
『1Q84』にはこれまでの作品になかった点がある。ひとつは『1Q84』はこれまでで一番長く、かつ「終わり」が明確でない点。そしてもうひとつは、主人公による一人称ではなく、三人称で書かれている点だ。前者で言えば、これまでもすべての物語がすっきりと終わったわけではないという見方もあるが、少なくとも本作のようにBOOK1、BOOK2という形で展開されたものはない。ページ数の関係で上下巻に分けるのとはわけが違う。BOOK3で終わりとすることもできるが、描かれるべきものをいくつも残しており、BOOK4、BOOK5と続きが出てもおかしくない。
また後者に関しては、三人称で書かれた二人の主人公の章が交互に展開されることで、従来の「僕」に憑依する読み方ができなくなっている。読み手にとって物語が客体となることで、村上春樹のストーリーテリング特有のドライブ感は薄められる。その意味で首を傾げたファンも多いのではないだろうか。逆に、自意識の強い「僕」に馴染めなかった人は、はじめて村上作品を好意的に受け入れることができたかもしれない。
では、このように物語と読み手の距離感を変え、未完成な部分を残すことにはどんな意味があるのだろうか。おそらく多くの人が様々な批評をしているだろうが、私は「受け入れがたさ」をどう捉えるかを読者に委ねているのではないかと思っている。言い換えれば、物語の中で描かれる受け入れがたい事柄をどれだけ受け入れられるかを試されているということだ。
ひとつめの「受けれがたいもの」。それは、荒唐無稽な設定、説明不足な部分が目立つことだ。タクシーの中からはじまる物語への伏線の張り方、「1Q84」への入り口の描写には大いに引き込まれるものがあったが、そこから先は日本を代表する作家のそれとは思えないレベルの綻びが散見される。たとえ制裁が必要な人間のクズだとしても、唯一無二の親友と女主人の愛娘の報われない死というエピソードを持ち出したところで、その方法含め青豆が人殺しになるのは無理があるし、スタートから躓いている。リトルピープルはもちろんのこと、謎に包まれたもの、描写自体が欠落したものなど、全体を通してクエスチョンマークがつく箇所は枚挙に暇がない。
そしてもうひとつの「受けれがたいもの」は、作中の登場人物がこの受け入れがたいものを受け入れていること、それ自体である。フィクションは多少なりとも無理があったり矛盾したりするものなのだから、至って普通のことかもしれない。しかし、私は村上が意図的にそうしたと考える。結論からいうと、青豆も天吾もそれぞれ身の回りで起こる非現実的なことに流され自分の人生を生きていないという「受動的な受け入れ」と、「1Q84」に迷い込み青豆と天吾が互いを求めることで運命を切り開いていく「能動的な受け入れ」という構図を描いたのではないかと思っている。(青豆)と(天吾)の章が交互に展開され、最終章で(天吾と青豆)となるのもそのためであろう。
このように考えると、必然的に異物としての「牛河」の存在が浮上してくる。BOOK3では、青豆と天吾の間に割り込むかのように牛河の章が加えられるが、彼は一般的にいって容貌、人格ともに愛されるキャラクターではなく、「準主役」を演じるには役不足とさえ言える。そして実際に、「受け入れがたい」人物、役どころとして描かれており、彼の末路もまた受け入れがたいものがあった。二人を追いつめた結果「1Q84」に入り込み、これ以外にできることはないと確信して突き進んだが、それはすでに必要のない行いになっており、しかも極めて救いがたい形で排除されてしまう。読み手に「なぜこうならなくてはならなかったのか」と後味の悪さを残し、牛河本人もそのように嘆くことになる。
「1Q84」に迷い込んだという意味では同じなのに、なぜこうも結末が違ってしまったのか。青豆と天吾の邂逅を阻もうとしたことで、牛河は神の裁きを受けたのだろうか。いや、そうではない。『1Q84』は徹底して青豆と天吾の物語のように見えるが、決してそうではない。受け入れがたい要素の詰まった『1Q84』は青豆と天吾の物語であるが、同時に「私」の物語でもある。人は決して他者の人生を歩めないし、別の人間にもなれない。自らの人生を顧みず他者の人生に介入することで、知らず知らずのうちに理不尽な世界に飲み込まれてしまう。そのことを牛河が身をもって教えてくれているのである。
一方、青豆と天吾はあらゆる受け入れがたいものを受け入れ、村上の言葉を借りるならば「精神的な囲い込み」に絡め取られないように、自分自身の物語「1Q84」を生きた。言い換えれば、青豆と天吾は人生の目的を見出したことにより、本当の意味で物語の主人公になったのである。だからこそ、青豆は特別な力を持った教団のリーダーの預言を覆すことができ、天吾は新たに小説を書き始めることができたのだ。
私ははじめに、小説との距離に対して違和感を覚えたと書いたが、その違和感を抱えたまま二人の行く末を見守るだけでは、この物語は完結しない。だから、『1Q84』では物語の主人公=「僕」に憑依する必要はなく、むしろ「私」の物語として読むことが求められるのである。天吾が『空気さなぎ』ではなく、自らの物語を完成させなければならないように、私たちもまたそれぞれの物語を生きなければならない。
青豆にとっての天吾、天吾にとっての青豆、そして二人にとっての「小さきもの」。何に代えても守らなければならないものは、一人ひとりの物語の中にある。冒頭でタクシーの運転手が
見かけにだまされないように、現実とは常にひとつきりです
と言ったように、それは1984年であろうと、「1Q84」であろうと変わらない。『1Q84』を自分の物語としてありのまま受け入れよ、これが私が受け取ったメッセージである。
※「Yahoo!ニュース 個人」の記事を転載しています