言葉の力は、アウトプットよりもインプットの中に宿る
2012.08.01 10:30|雑記|
「文章がうまい」「テンポがいい」「論理的に展開されている」「センスを感じる」「余韻がある」「真に迫っている」「深くて考えさせられる」など、文章を肯定的にとらえる表現は様々だが、読み手は何によってそのように感じるのだろうか。
また、ある人に「文章力がある」「良い文章だ」というとき、なぜそのように評価できるのだろうか。そこには法則性や明確な判断基準があり、好き嫌いや価値観、その他の要素を超えた必然として浮かび上がってくるのだろうか。
まず、文章を書くにあたってはトレーニングが必要である。そして、それを効果的に行うメソッドや上手に文章を書くスキルというものが存在する。職業的な物書きであれば、媒体特性やターゲットの違いなどにより硬軟文体を使い分けたり、意図的に個性を排して平板な文章を書くこともできるし、何らかの専門領域を持っている。また、それらは経験を積むことでより精度が高まる。
つまり、文章力を鍛えることはできるし、物書きという職業は日々それを実践するものである。筆者自身でいえば、記事を書く上で一人でも多くの人に読む価値があると感じてもらわなければと思っているが、それは「最低限の文章力を担保する」と言い換えられるかもしれない。
ただ、仮に最低限の文章構成力やそれを支える論理的思考能力を有していたとしても、それだけで読む価値があるとされるわけではない。とにかくポイントをおさえて書きさえすれば、多くの人に読まれる良い文章が出来上がるというほど単純な話でもない。テクニックとしての文章力はあくまで補助的なものであり、「文章力がある」「良い文章だ」という評価は、文章力単体で導き出されるものではないのである。
では、何をもって評価しているのか。こう考えてみるとわかりやすい。文章力と言葉の力は別のものである、と。伝えたいことをできるだけそのままの形で「伝える」ためのものが文章力だとすれば、それを書くにあたってのモチベーションや感性、意思の強さや問題意識の大きさなどによって「伝わる」のが言葉の力であり、読み手はこの両方を感じ取っている。
文章には上手い下手があるが、書き手を彩るあらゆるものの結晶として言葉の力にはそれがない。だからこそ、文頭で書いたように読み手に様々な印象を与え、書き手によって良いとされる部分が大きく分かれるのである。「正しい書き方」といったものが幅をきかせていたら、文章はもっと個性的ではないはずだ。
もちろん、この個性は必ずしも良いものとはされず、「文章が下手クソ」「テンポが悪い」「支離滅裂で冗長」「ナンセンス」「何も残らない」「胡散臭い」「中身がなく薄っぺらい」と否定的とらえられる要因にもなってしまう。
基本的にどのように読むかは読み手に委ねられているから、文章内容そのものへの批判、好き嫌いの話、難癖の類いなどが混ざることもあり、多くの人に受け入れられるのは難しい。同様に、書き手側も評価に納得がいかないと思ったりわかってないと切り捨ててしまうと、両者は平行線を辿ることになる。
「書き手=アウトプット/読み手=インプット」という表面的な構図を切り出して評価してしまうと、インプットとアウトプットいずれかに問題があるという結論ありきで文章の善し悪しが語られることになる。
これでは元も子もない話になってしまうので、そうならないために以下のことを心がける必要があるだろう。
まず、書き手は読み手を安易に見下してはならない。なぜなら、ある文章に対して違和感を覚えたり眉をひそめたりするのは、必ずしも文章そのものを読解する能力がないわけではないからだ。人が文章を読むとき、アウトプットをそのまま受け入れているだけなく、同時に文脈や背景、人となりといったもの、つまりは書き手のインプットを読んでいる。手に取って説明できるものでないにせよ、拒否反応を起こすには十分なのである。
一方で、読み手は書き手を疑いかかってはならない。なぜなら、そこに書かれたもの、つまりはアウトプットの枝葉だけを見て判断することで、その奥にある意志や真に伝えたいことを読み落とすからだ。ネット界隈で巻き起こる陰謀論やレッテル貼りなどがまさにこの状態で、結果的に書き手のモチベーションを大きく損ない、建設的な対話が行われる可能性を摘むことになる。
加えて、書き手・読み手問わず注意したいことがある。それは、他者のアウトプットをあげつらうことで、むしろ自らのインプットの質量が可視化されてしまうこと。そして、他者のインプットを読み取れず、アウトプットに騙されてしまうことである。
アウトプットとインプットを切り離して考え、「なぜこのようなことを書くのか」という部分を取り違えると、光の当て方次第で同じものが美しくも醜くくも見えるようになってしまう。アウトプットされたものが美しい(醜い)のではなく、美しい(醜い)とインプットされたから美しく(醜くく)なるという状態がいかに危険であるかは、言うに及ばないだろう。
ーー「耳を澄ませるんだ。はまぐりのように注意深く」
これは村上春樹著『海辺のカフカ』の一節だが、非常に味わい深いものがある。アウトプットは磨き上げることも、取り繕うこともできるが、インプットは決して嘘をつけない。そのことを端的に示している。言葉の力は、アウトプットよりもインプットの中に宿るのである。
※言論プラットフォーム「アゴラ」に掲載された記事を転載しています
また、ある人に「文章力がある」「良い文章だ」というとき、なぜそのように評価できるのだろうか。そこには法則性や明確な判断基準があり、好き嫌いや価値観、その他の要素を超えた必然として浮かび上がってくるのだろうか。
まず、文章を書くにあたってはトレーニングが必要である。そして、それを効果的に行うメソッドや上手に文章を書くスキルというものが存在する。職業的な物書きであれば、媒体特性やターゲットの違いなどにより硬軟文体を使い分けたり、意図的に個性を排して平板な文章を書くこともできるし、何らかの専門領域を持っている。また、それらは経験を積むことでより精度が高まる。
つまり、文章力を鍛えることはできるし、物書きという職業は日々それを実践するものである。筆者自身でいえば、記事を書く上で一人でも多くの人に読む価値があると感じてもらわなければと思っているが、それは「最低限の文章力を担保する」と言い換えられるかもしれない。
ただ、仮に最低限の文章構成力やそれを支える論理的思考能力を有していたとしても、それだけで読む価値があるとされるわけではない。とにかくポイントをおさえて書きさえすれば、多くの人に読まれる良い文章が出来上がるというほど単純な話でもない。テクニックとしての文章力はあくまで補助的なものであり、「文章力がある」「良い文章だ」という評価は、文章力単体で導き出されるものではないのである。
では、何をもって評価しているのか。こう考えてみるとわかりやすい。文章力と言葉の力は別のものである、と。伝えたいことをできるだけそのままの形で「伝える」ためのものが文章力だとすれば、それを書くにあたってのモチベーションや感性、意思の強さや問題意識の大きさなどによって「伝わる」のが言葉の力であり、読み手はこの両方を感じ取っている。
文章には上手い下手があるが、書き手を彩るあらゆるものの結晶として言葉の力にはそれがない。だからこそ、文頭で書いたように読み手に様々な印象を与え、書き手によって良いとされる部分が大きく分かれるのである。「正しい書き方」といったものが幅をきかせていたら、文章はもっと個性的ではないはずだ。
もちろん、この個性は必ずしも良いものとはされず、「文章が下手クソ」「テンポが悪い」「支離滅裂で冗長」「ナンセンス」「何も残らない」「胡散臭い」「中身がなく薄っぺらい」と否定的とらえられる要因にもなってしまう。
基本的にどのように読むかは読み手に委ねられているから、文章内容そのものへの批判、好き嫌いの話、難癖の類いなどが混ざることもあり、多くの人に受け入れられるのは難しい。同様に、書き手側も評価に納得がいかないと思ったりわかってないと切り捨ててしまうと、両者は平行線を辿ることになる。
「書き手=アウトプット/読み手=インプット」という表面的な構図を切り出して評価してしまうと、インプットとアウトプットいずれかに問題があるという結論ありきで文章の善し悪しが語られることになる。
これでは元も子もない話になってしまうので、そうならないために以下のことを心がける必要があるだろう。
まず、書き手は読み手を安易に見下してはならない。なぜなら、ある文章に対して違和感を覚えたり眉をひそめたりするのは、必ずしも文章そのものを読解する能力がないわけではないからだ。人が文章を読むとき、アウトプットをそのまま受け入れているだけなく、同時に文脈や背景、人となりといったもの、つまりは書き手のインプットを読んでいる。手に取って説明できるものでないにせよ、拒否反応を起こすには十分なのである。
一方で、読み手は書き手を疑いかかってはならない。なぜなら、そこに書かれたもの、つまりはアウトプットの枝葉だけを見て判断することで、その奥にある意志や真に伝えたいことを読み落とすからだ。ネット界隈で巻き起こる陰謀論やレッテル貼りなどがまさにこの状態で、結果的に書き手のモチベーションを大きく損ない、建設的な対話が行われる可能性を摘むことになる。
加えて、書き手・読み手問わず注意したいことがある。それは、他者のアウトプットをあげつらうことで、むしろ自らのインプットの質量が可視化されてしまうこと。そして、他者のインプットを読み取れず、アウトプットに騙されてしまうことである。
アウトプットとインプットを切り離して考え、「なぜこのようなことを書くのか」という部分を取り違えると、光の当て方次第で同じものが美しくも醜くくも見えるようになってしまう。アウトプットされたものが美しい(醜い)のではなく、美しい(醜い)とインプットされたから美しく(醜くく)なるという状態がいかに危険であるかは、言うに及ばないだろう。
ーー「耳を澄ませるんだ。はまぐりのように注意深く」
これは村上春樹著『海辺のカフカ』の一節だが、非常に味わい深いものがある。アウトプットは磨き上げることも、取り繕うこともできるが、インプットは決して嘘をつけない。そのことを端的に示している。言葉の力は、アウトプットよりもインプットの中に宿るのである。
※言論プラットフォーム「アゴラ」に掲載された記事を転載しています