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Author:青木勇気
小説を出していたり絵本も書きたかったりします。物書きと呼ぶにはおこがましいくらいのものですが、物語を書いて生きていけたら幸せだなと思っています。

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女のズルさと男のずるさについて。

2011.11.27 23:11|雑記
結論から言うと、女のズルさは「(現場にいながらにして)ゆっくりと~しないように仕向けること」、そして男のずるさは「(現場で)短期的に~するための口実、理由をつくること」である。前者は折り返し運転をする各駅停車であり、後者は終点まで止まらない急行だ。

どういうことかを説明する前に、この「現場」が意味するところを述べよう。それは時間でもあり空間でもある。ある男と女がお互いに好き合っている状況でのアウトプット・インプットの違いにより、その時間空間がどのように変化するかを見て取れるものとして、「現場」という言葉を使いたい。巷でまことしやかに囁かれる「オトコってズルいよね」という言葉はどういう状況を指しているのか。そして、それはあくまで見解の違いによるものであり、オンナも同様にズルいのではないか。そこで私は、現場で起きている事実をベースに持論を展開し、女のズルさと男のずるさについて検証したい。

それではまず、わかりやすい例を挙げよう。ここではあえて、恋愛そのものに関する議論や男女の間に友情は成立するか否かといったことは割愛させてもらうが、たとえば、男性が結婚することを親しい(親しかった)女性に報告したとする。すると女性はこう言う。「ちょっとさみしいな…(いや、何をどうするというわけじゃないんだけど)」と。その立場が逆転した場合、男は「さみしいけど、俺らの関係は変わらないし(旦那とは違う形でうんたらかんたら)」と言う。

この違いは大きい。「さみしさ」の意味合いが違うのだ。女性のさみしさはぼんやりとした感情であり、何かにコミットする種類のものではない。純粋に、ただ自分の心がさみしいのだ。一方で、男はそのさみしさに縋り付こうとする。感情のやりどころに困った挙げ句、さみしいという言葉を相手に向けて放つのだ。つまり、女の言う「さみしい」は、男のさみしさと同じものではないと考えるのが論理的だと言える。そして、この差こそが女性の構造的ズルさを浮き彫りにする。
よく「女は感情的な生き物だ」と言われる。だが、この感情というやつは非常に厄介で、必ずしも感情的であることが情緒や義理人情というものに繋がらない。一般に、理詰めで話をする人間は「冷たい」と言われ、論理がなくとも感情に訴えかける人間は「熱い」と言われる。しかし、「現場」ではそうでない。感情的であり、義理人情に滅法弱いのはむしろ男の方で、女はさみしいと口にしながらも、あくまで冷静だ。

より(下世話に)わかりやすく言おう。男が最終段階の口説きに入ったとき、女はかなりの確率で「そういう自分をみせるのが恥ずかしいから」「イヤでじゃないけど、それだけは…」といったことを言いがちだが、これはいけない。小田急線では急行が快速急行に、東海道線でいえば普通が通勤快速になるくらい、マズい。冒頭で述べたように男という生き物は、「~するための理由をつくる」わけだから、余計に焚き付けることになる。

ただ、男がスティーブン・セガールも真っ青の暴走特急になると、女は信じられないくらいシステマティックに遮断機を降ろす。男はそこではじめて、自分が線路の上を走らされていたことを知る。真っ青になるのはセガールではなく、自分なのだ。「同じ電車に乗り込んだはずじゃなかったのか?」と。ここで男は初めて、女のズルさを知る。話が違うと喚いてみても、女は一言もそんな約束はしていない。厳しい現実だ。ただ、男の方にチャンスがないわけではない。

女は原則的に自分自身のルールを頑までに遵守するが、一度それが壊れるとまたすぐに新たなるルールを構築するからだ。システマティックな分、切り替えは早い。踏切で遮断機が降りるという状況は、逆説的に暴走特急とレールだけの世界をつくるということにもなり得る。女は、「現場」では踏切を渡ろうとする車や人々、整備士などを遮断することができるのだ。もちろん、こうなるともう、その先はどこにもたどり着かない暗闇の荒野が続くだけになるが。なし崩しの先には泥沼しかない。ブレーキの壊れた特急列車として部分的に目標を達成できるチャンスがあるだけで、決して明るい未来への道は切り開かれない。

また、女というものは、たとえ相手と自分が「共犯」であることを知りながらもそれを口にしないし、「主犯」にならないようにする。反対に、男はそれを見て終身刑覚悟で(本当は覚悟などないが)「主犯」になろうとする。覚悟がないまま行動に走る、これこそが男のずるさであり、愚かさである。現場において、そんなことをしたらこうなるということなんてわかっているという男は、本質的にわかろうとしていない。むしろ、ずるくさえない。冒頭で述べた、男が合目的的に動くことはズルさへのアンチテーゼなのだ。男はズルくなれない。見苦しく、しつこく、感情的にはなれるが。

でも、女は現実的だ。〜しないように動くことができる。何かが起きるときは、ルールを口にしながら男に助け舟を出している。向こう岸に渡れる信号を。許可を出さなくても、物理的にそれが可能な状況にさせてしまう。唯一男がずるくなれるのはこのシーンだろう。甘んじてそれを受け入れる鈍感さを持ち合わせている。言っていることとやっていることの矛盾を度外視して、自然とそうなったと思い込むことができる。そういうずるさだ。

長々と書いてしまったが、「ズルい・ずるい」と書き分けた意味や語感がもたらす効果がうまく伝わればと思う。もともと男と女はどちらがズルいかという議論ではないし、これはあくまで私感である。いや、それでもやはり女はズルいと思う。悪いのは大抵男だけれど。