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青木勇気

Author:青木勇気
小説を出していたり絵本も書きたかったりします。物書きと呼ぶにはおこがましいくらいのものですが、物語を書いて生きていけたら幸せだなと思っています。

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livedoorブログに引っ越しました。

2015.05.03 10:39|雑記
こちらです↓

「Write Between The Lines.」
http://blog.livedoor.jp/totti_81/

今後ともよろしくお願いいたします。

青木 勇気

FUTURUS掲載記事:「スマートウォッチ」について

2015.04.10 16:45|雑記
Apple Watchは「腕時計」のトップを狙っているわけではない?

スマートフォンやタブレットに続く新たなスマートデバイスとして期待され、話題沸騰のスマートウォッチ。Apple Watchの発売日が決まり報道が加熱する一方で、2014年に出荷されたデバイス数は約460万台、うちAndroid Wearは72万台と、数値の上ではまだまだ小規模な市場であることも冷静に指摘されている。

米国の調査会社Strategy Analyticsは、2015年度のスマートウォッチ市場は2,810万台まで伸びると予測しているが、果たしてどうなるだろうか。本稿では、現状におけるスマートウォッチの需要と供給、市場の成長性がどの程度のものかを把握しながら、その存在価値について考えたい。


Apple Watchはユーザーニーズに応えられるのか?

さて、まずはApple Watchから。いよいよ4月24日に発売される。モデル数は38、価格は4万2,800円から218万円までと種類の多さ、価格の幅広さが特徴的で、はじめからターゲットを広く設定しているのがわかる。ただ、Apple Watchの天下が始まるかと言えば、首をかしげずにはいられない。

世界中のファンを魅了する新商品の発表はさすがとしか言いようがないものの、iPhoneの新型の機種変更のように爆発的な販売は見込めない。当たり前のことだが、“必需品”ではないからだ。生粋のアップルファンや先進的なウエアラブルデバイスやガジェットを求めるギークであれば、4万2,800円〜という価格感やバッテリー問題などはハードルにならないのかもしれないが、様々な機能により利用シーンが大きく広がると言われても、一般消費者が気軽に購入できるものではないだろう。

では、腕時計としてのニーズはどうだろうか。実際にApple Watchを手に取った専門家の声を少し紹介しよう。ITジャーナリストの本田雅一さんは、Apple Watchをデジタル製品として評価するか、腕時計として評価するかでまったく異なる印象を受けると言っている。また、時計ジャーナリストの広田雅将さんは、スタンダードモデルであるステンレス版(6万6,800~13万2,800円)のケースの質感の良さに驚き、50万~100万円クラスの高級機械式時計に匹敵すると評価している。

つまり、Apple Watchは“スマートウォッチ=デジタルガジェット≠腕時計”とは言い切れない、あくまでも新しい商品なのである。「4万2,800円は安い」、「218万円は高い」というとき、何に対して安い・高いのか、どういう観点でその価値がある・ないと言えるのか、現状は非常に難しい。

ティム・クックCEOは、アップルの歴史における「新たな章の始まり」だと宣言した。曰く、「時間を伝えるだけでなく、 時間の使い方を進化させる時計」がコンセプトだという。その言葉の意味を実感することではじめて、価格以上のものが得られたと感じ、一気に普及するのだろうか。発売後の市場の動きに注目したいところだ。


Kickstarterでメガヒットを記録したPebble Timeの強みとは?

一方、スマートウォッチのニーズの高さをわかりやすく証明している事例がある。スマートウォッチのパイオニア、Pebble Timeの新商品のプロジェクトがクラウドファンディングの『Kickstarter』に掲載中だが、尋常ならざる勢いで2,000万ドル(約24億円)の金額と、7万7,000人以上の支援者を獲得した。クラウドファンディングのプロジェクトとして過去最高額であることもさることながら、Apple Watch発表後に支援額が倍増したことにも注目すべきだろう。

理由としては、スマートウォッチ市場自体の注目が高まったこと、Apple Watchのスペックを見てPebble Timeにより魅力を感じたことなどが挙げられる。後者に関して言うと、Pebble Time Steelの予定市販価格が299ドル(約3万5,700円。初期の予約者は249ドル)で、6万6,800~13万2,800円のApple Watchのステンレス版と比べてかなり割安であることが大きい。先述の通り、一概に商品の値段だけで価値を決めることはできないが、バッテリーの持ちやAndroid/iOS対応など含め、利便性の高いデバイスを選ぶならPebble Timeとなるのも必然と言える。

しかも、Pebble Timeはスマートウォッチのパイオニアであり、すでに自社商品のファンを獲得している。今回の『Kickstarter』のプロジェクトページを見ても、非常にマーケティングがうまいし、確かに魅力的な商品だと感じる。もちろん、アップルのファン数はその比ではないが、スマートウォッチ市場においては新興ブランドであり、勝手が違う部分がある。そう考えるとやはり、市場の成長はスマートウォッチとは何なのか、誰のためのものなのか、この部分をどれだけ伝えられるかにかかってくるのではないだろうか。


高級時計ブランドの参入で群雄割拠の時代が到来?

また、もうひとつ市場の成長を考える上で外せないのが、既存の高級時計ブランドの参入である。先日、スイスの時計ブランドTAG HEUERが、Google、Intelと提携し、Android Wear搭載のスマートウォッチを開発すると発表した。時計大国のスイスではすでに、他のブランドにおいてもAndroid WearやAndroid/iOSの双方に対応するMotionXを搭載したスマートウォッチが開発されている。高級ブランド時計ではTAG HEUERが先陣を切った形となるが、この流れは確実に広がっていくだろう。

ただ、これらはあくまで、Apple Watchをはじめとする新興勢力の侵食を防ぐためのカウンターパートとしての意味合いが強く、従来型の機械式、クオーツ時計に取って代わるものというレベルの話ではないと筆者は考えている。少なくともしばらくは、一部の人気モデルでスマートウォッチバージョンを出すレベルに留まるだろう。既存ユーザーもすぐにスマートウォッチに切り替えることはないはずだ。

重要なのは、スマートウォッチ市場を単体で語り、既存ブランドが参入してレッドオーシャンになると予想することではない。確かに、スマートフォンがPCの利用率を数年で逆転したといった事例はある。だが、ライフスタイルと密接につながった地殻変動レベルの事象とないまぜにして、スマートウォッチはすぐに腕時計と同様に普及し、時計市場自体をも変えてしまうと言い切るのは安易すぎるのではないだろうか。まずは、各社がいかにして“時計”を再定義し、来るビジネスチャンスに備えるのかに注目すべきなのだ。

このことを踏まえて、最後にスマートウォッチは時計なのか、従来の時計のあり方を変えるものなのかという観点で考えてみよう。


スマートウォッチによって時計の存在価値が変わるのか?

スマートウォッチは時計なのか、これは「iPhoneは携帯電話なのか」という議論に似ている。携帯電話はコミュニケーションツールなのだから、通話やメールができればそれでいい。その他の機能は余剰物だ。これはこれで正しい。ただ、iPhoneは当のコミュニケーションのあり方や、デバイスを使う際の体験を劇的に変えた。そしてそれが多くの人に受け入れられ、今では当たり前になっている。スマートフォン=iPhoneではないが、アップルが携帯電話の常識を覆したと言えるだろう。

このロジックを当てはめれば、スマートウォッチが時計の常識を覆すことは十分あり得る。アップルはそれを狙っているのだろうとも思う。ただ、時計とは何か考えてみると、一筋縄ではいかないのがわかる。“時計”を辞書で調べてみると、“時刻を知り、また時間を計るのに使う器機”とある。同じく“腕時計”は、“革・金属などのバンドで手首に巻いて携帯する時計”とある。辞書的な意味では、スマートウォッチは過剰な機能を備えた時計ということになる。時刻を知り、それを手首に巻いて持ち歩くという用途からは逸脱している。ここまではすんなりいく。

しかし、腕時計自体もまた大いに逸脱していることに思い当たる。腕時計とひとことで言っても、実に様々な商品がある。機能も価格も目的も全く違う。腕時計には大きく機械式とクオーツがあり、それぞれメリット・デメリットがある。時刻を知り、時間を計るだけならば、デメリットのあるものに高いお金を出すことは合理的ではないし、そもそも正確な時刻を知るためのものに、メリット・デメリットという見方をすること自体がおかしいのではないかといった疑問も生じる。

常識を覆すという意味で、面白い時計がある。スイスの高級機械式時計メーカー、FRANCK MULLERは、12から始まり時計周りで数字が振られる時計盤のあり方を変えた。『CRAZY HOURS』シリーズは、ランダムに配置された1~12までのインデックスを針がジャンプしながら時間を刻む、その名の通りクレイジーな時計だ。

斬新なアイデアと技術力に感銘を受けるが、このギミックに必然性があるのか、何のためにあるのかと問えば、「いえ、遊び心です」という話になるかもしれない。だとしたら、それは時計として無駄なものだと言っていいのだろうか。はたまた、時計はあくまで嗜好品で、ステータスの象徴みたいなものだから、その問い自体が間違っているという話になるだろうか。

つまり、何が言いたいのかといえば、「スマートウォッチによって時計の存在価値が変わるか否かという議論は無意味である」ということだ。腕時計という固定概念に対する新しいスマートウォッチという構図を描くこと自体がナンセンスなのである。仮に時計のあり方が大きく変わったとしても、それはこれまで変わってきたことと同様に、機能が拡張され、多義的になるというだけの話だ。携帯電話という括りのなかにあるスマートフォンと、腕時計という括りのなかにあるスマートウォッチに大差はない。

スマートウォッチが従来の腕時計とは一線を画した商品であることは間違いない。ただ、形状としては腕時計であり、用途が異なるだけである。スマートウォッチは時計の価値を高め、可能性を広げるものではあっても、それにより時計がいらなくなるという話にはならないのだ。

スマートウォッチに過剰な期待を寄せることなく、従来の腕時計を貶めることなく、その上で自分は何を選ぶか。これで十分ではないだろうか。


「FUTURUS(フトゥールス)」に寄稿した記事</u>を転載しています

Yahoo!ニュース個人掲載記事:「震災の記憶の風化」との向き合い方について

2015.03.30 06:46|雑記
風化する震災の記憶とどう向き合うべきか。~観光客として2度、石巻を訪れた理由

「震災の記憶は風化してしまった。」「復興は遅々として進まず、今も多くの人が不便な生活を強いられている。」

このような誰ともなく向けられた怒りにも諦めにも似た言葉が、繰り返し語られてきた。しかし、現実はそう単純ではなく、時間が経つからこそリアリティを持って語られることや、より正確な情報として整理、共有される事実もある。総じて他人事と捉え、無関心になっているわけではない。また、個別で見ていけば確実に復興は進んでおり、元の姿を取り戻したり新しい形で生まれ変わることで、日常が取り戻されている。

こんな嬉しいニュースがある。3月21日には石巻線が全線運転再開し、来る5月30日には仙石線も全線運転再開する。さらに「仙石東北ライン」(仙石線・東北本線接続線)が新たに開業し、鉄路の利便性が向上するという。

私は2度石巻に行っているが、この4年で仙台駅から石巻駅に直通で行けるようになったのは感慨深いものがある。自分が石巻で見たものはほんの一部に過ぎないが、復興は遅々として進まないと言ったところで、日々多くの人が復興のために黙々とさまざまなことに取り組んでいて、その結果目に見えて変わっていく様子を目の当たりにすることができた。

また、震災の記憶を風化させてはならないというが、この言葉もまた平板で、硬直した表現だ。記憶は時間とともに薄れていくものだし、忘れたいことや見たくないものだってある。震災の象徴だったものが無くなってしまったり注目されなくなったとしても、それは一概に風化したということにはならない。

たとえば、南三陸町防災対策庁舎、石巻市の大川小学校などの震災遺構を例に取るとわかりやすいだろう。安全面やコスト面といった現実的な課題含め存廃の是非についての議論は一筋縄ではいかず、最終的な判断が正しいかどうか計りかねる難しい問題だ。

風化させてはいけない震災の記憶とは何を指しているのか、何をすれば復興したと言えるのか、ここに踏み込むことなく、誰かを責めたり、誰かに同情したりしてはいないだろうか。被災地とそれ以外、被災者と第三者という構図を前提とすることで、大味な議論しかできなくなっているのではないか。私はここに、ずっと違和感を抱き続けてきた。

ただ、そうは言っても、自分自身どのように震災に向き合っていいかわからなかった。身の回りでは、積極的にボランティアや復興支援活動に取り組んでいる人たちがいて、自分にも何かできるのではないか、何かしなければならないのではないかと考えながらも直視するのを恐れ、日々が過ぎた。

行き着いた結論は、ボランティアでも復興支援でもなく、観光客として、とにかく被災地に行ってみることだった。石巻を選んだ理由は、仙台駅から電車とバスを使い日帰りで行けて、かつ時間が経ってもなお震災の傷跡を見ることができると思ったからだ。冷やかし半分の低俗な観光と言われるかもしれないが、まずはそんなことしかできない自分と向き合うことから始める必要があった。

ここから先は、石巻への訪問を通して考えた、自分なりの震災との向き合い方についての話になる。1度目の訪問に関しては、当時の状況と肌で感じたものが伝わりやすいよう現在形で書き、2度目の訪問に関しては、1度目の訪問を追憶しながらその変化について書く。そして最後に、観光客として被災地に行くことで得られたものについてまとめたいと思う。


■ 2012年5月、1度目の石巻訪問

はじめて宮城県仙台市を訪れた際の目的は、日本三景・松島の観光だった。そして今回も中心市街地から入ったため、震災後の姿をうまく想像できなかった。ただ、仙台駅の切符売り場に行くと代行バスに乗り換える旨が書いてあり、まず「線路が途切れてしまっている」事実を認識する。観光名所は、乗り換え場所になっていた。

切符を買い、仙石線に揺られて松島海岸駅のホームに降り立つと、遠目に美しい海岸と青々と生い茂る松林が見える。ここまでは記憶のままだ。改札を抜けるとバスが待っている。平日の昼ではあったがほぼ満席で、乗客の属性も市街を走るバスとそれほど違いはなく、本来はないものに乗っていることを忘れてしまうものがあった。

だが、ほどなく景色はがらりと変わる。ところどころレールが途切れた線路を横目に、海に面した側ががらんどうになっている家屋、傾いた電柱、ひしゃげたガードレールなどに目を奪われ、否応無くそこにあったはずのものに思いを馳せることになる。何もないように見えるところは、そこを行き交う人々の生活の一部だったのだ。そんな風にぼんやりと考えていると、海が見えなくなりのどかな町並みが流れ、終点の矢本駅に到着した。再び仙石線に乗り換え、15分ほどで石巻駅に辿り着く。

プラットフォームに降り立ち、まずはじめに感じたのは「匂い」だった。漁場ならではの、そしておそらくそれだけの理由ではない鼻をつく独特な匂いがした。駅自体はこざっぱりしていて、改札口まで行くとサイボーグ009と仮面ライダーの像が出迎えてくれる。萬画を活かした創造性ある街造りを体現するオブジェは、以前からそこにあるはずなのに今しがた作られたかのようにつややかで、妙に生々しく感じられた。

駅からマンガロードと名付けられた商店街を抜けると、片側が通行できなくなっている橋と、その先に中瀬の角に宇宙船を思わせる建物が見えてくる。石ノ森萬画館だ。遠目には休館中とは思えないほどきれいだが、正面入り口に近づくとそこにはしっかりと津波の爪痕が残されていた。

一階部分は浸水し事務所やショップに水が流れ込み、押し流されてきた家屋や船がぶつかったことで窓や壁が破損している。エントランス部の看板の文字は一部はぎ取られていた。割れてしまった窓の枠に打ち付けられた板には、仮面ライダー海斗のイラストや仮面ライダーを演じた藤岡弘、氏のメッセージをはじめ、一早い復活を願う人々の言葉が所狭しと綴られている。

左手には、修復中の石巻ハリストス正教会、「入らないでください」という黄色いテープが巻き付けられた遊具、半分ほど元の姿を取り戻したヨットハーバーがある。この場所に公園や神社、商業施設があったことを思い浮かべるのは簡単ではない。残存物や復元したものから類推することはできても、そこに日常という風景や彩りを加えることができないのだ。あたりには人影がなく、時がゆっくりと流れているように感じられる。

中瀬の先端に向かって歩き、石巻漁港のある方向に視線を移すと、左半身を失った「自由の女神」がどんよりと曇った空を挑むように見上げている。あまりにも象徴的な存在だ。衰退が進む中心街の再生に向けて作られたものらしいが、事情を知らない者からすると、場違いな舞台に駆り出された役者を見ているような違和感があった。その姿は、堆く積まれた瓦礫の周りをせわしなく動き回るブルドーザーを見守っているようでもあり、ただぼんやりと虚空に無感動な眼差しを向けているようでもある。

象徴的であろうが暗示的であろうが、「自由の女神」は他の流されたものと流されなかったもの、崩れたものと崩れなかったものと何ら変わりはない。解釈を加えるまでもなく、石巻を形作るもののひとつなのだ。静けさの中には、無名の人々が我慢強く、着実に、元通りにしようと取り組んできたことが息づいている。

中瀬の突端に立ち、「見にきてよかった」、ただそう思った。実際のところ、観光することでわずかばかりのお金を落とし地元の人と少しだけ話ができただけで、被災地に対して何か貢献できたわけではない。自分が目にしているのは、物事のひとつの側面に過ぎないということもよくわかった。しかしそれでも、その土地に足を運ぶことを通してしか得られないものがあるという事実を体感できたのは大きい。

「また来よう。たたの自己満足でも、それでいいじゃないか。」震災後はじめて、肩の力が抜けた瞬間だった。


■ 2014年8月、2度目の石巻訪問

2年数ヶ月ぶりに、再び石巻を訪れた。同じく出発地は仙台駅だが、今回は直通の高速バスに乗った。車窓から見える景色も安心して眺めることができる。地方中心都市によく見られる大型の商業施設を経由し、1時間20分ほどで石巻駅に着いた。まずはじめに、あの独特な匂いがなくなっていることに気がつく。

ところどころ新しいお店ができ、にわかに活気付いたマンガロードを歩く。しっかりと補修された橋を渡ると、何事もなかったかのように営業している石ノ森萬画館に辿り着いた。看板や照明が取り替えられており、新たに備え付けられたオブジェたちの歓迎を受ける。ちょうど『サイボーグ009』の50周年記念展示がやっていて、石ノ森萬画館を堪能することができた。

萬画館を後にすると、石巻市中瀬公園があった場所に巨大な銀色の人体像が設置されていることに驚く。調べてみると、石巻市出身の金属造形作家・伊藤嘉英さんのモニュメント作品「輝く人」であることがわかる。鉄製パイプなどで形作りステンレス板で覆われた高さ約9メートルの作品は、芸術文化の祭典「神戸ビエンナーレ2013」のアートコンペティションで審査員特別賞に輝き、神戸港から石巻の方角を望むように設置されていたとのことだ。「震災復興にお手伝いができれば」という伊藤さんの思いに応える形で神戸市から移設された「輝く人」は、復興を目指す新たな象徴となったわけだ。

一方、象徴的な存在だった「自由の女神」は、台座だけになっていた。1度目の訪問では、目の前にあるシンボルが何であるかを知るために「石巻 自由の女神」を検索し、二度目の訪問ではシンボルがなくなった理由を知るために検索する。北日本海事株式会社が2010年に慈善事業の一環として造成した「自由の女神」は、震災後の劣化で危険な状態であったため解体撤去を検討したが、津波に流されなかった復興のシンボルとして残したいという要望を受け、石巻河北新報社に寄贈することになったらしい。

「自由の女神」が見つめていた中瀬の先端部分には、かき小屋ができていた。その他にも様々な変化がある。顔の欠けた狛狐が転がっていた作田島神社は、土台と石碑だけを残して綺麗に片付けられており、旧ハリストス正教会やマリンパークの遊具はなくなっていた。また、こうして過去の訪問を振り返る中で、新たな発見に出会う。何とは無しに石ノ森萬画館の公式サイトを見てみたら、2015年に入り中瀬公園の復旧工事がはじまり、多くの人が集う憩いの場が蘇ろうとしていることがわかる。

津波によって元の形を失い、時間の経過とともに姿を変えていく。同じ場所を訪れて同じような行動を取り、被災地のほんの一部を見ただけでも、さまざまな復興の形を見ることができる。これらはすべて実際に足を運ばなければ、そしてその変化を見届けたいと再度訪問しなければ、決して知ることはなかったことだ。


■ 当事者とそれ以外という構図からの脱却

2度の石巻の訪問でさまざまなものを得たが、中でも一番の収穫は、先で述べた被災地とそれ以外、被災者と第三者という構図を前提として語られることに対する違和感の正体だった。

そこには、個人として体験したことや自分なりの解釈がないのだ。被災した人はある意味で被害者であり、支援されなければならない、ちゃんとフォローできていない者は批判されてしかり…など、それぞれの立場や役割のようなものが予め決められているかのように話される。だから、もっと復興が進んでいなければならない、そんなことでは記憶が風化してしまうではないか、という論調が鋭くなる。

被災地に行き、その変化を目の当たりにすれば、変わるもの、変わらないものどちらが正しいかという話をする前に、手探りしながら日々復興を目指す人々がいることを想像できる。忘れたいこと、嫌でも思い出してしまう類のことは風化しても良いのではないか、復興とは必ずしも元通りにするということではなく、新しい景色、価値をもたらすことこそが必要なのではないか、そんな風に考えるようにもなるだろう。

もちろん、当事者とそれ以外という構図の中で、軽はずみな発言ができないのもわかる。「被災者に寄り添う」といった言葉は非常に耳障りがいい。少なくとも、観光で石巻に行ってきましたというよりは、慎ましく、奥ゆかしいように思える。しかし、「被災者の気持ちを考えろ」などと言うとき、その人は誰の、何を、どんな立場で代弁しているのだろうか。

その人が誰であれ、自分はこう考える、なぜなら~、だから~という話をしなければ、当事者とそれ以外という構図からは脱却できない。震災と向き合う中での「役割」については別の機会で詳しく書きたいと思うが、大切なのは自分にできることは何かを考え、できる範囲で行動することであり、そこから生み出される結果や価値の多寡を問うことではない。

そもそも、被災地や被災者に関して雄弁である必要はないし、どんな行動・立場を取るにしても正解などない。正確な情報や専門知識は重要だが、当事者とそれ以外という構図の中で「正しさ」や「立場」を要求すると、多くの人は自分はこう思う、こうすると言えなくなってしまう。

いまさらなどと言わずに、行きたいところがあれば行ってみればいいし、震災に関して興味があることを調べてみればいいし、当事者でなくても話し合えばいい。震災を風化させたくないのであれば、なおさらである。私の場合は、自分と向き合った結果として、不謹慎だと萎縮したり何か役に立ってみせると背伸びすることなく、観光客として被災地に行った。ただそれだけのことだが、それだけのことで自分なりにスタンスは固まる。

被災者に寄り添うよりも、まずは自分と向き合うこと。震災はあくまで、そのきっかけに過ぎないのだ。


「Yahoo!ニュース 個人」に寄稿した記事を転載しています

FUTURUS掲載記事:「D Free」について

2015.03.19 22:47|雑記
便の時間を教えてくれるだけじゃない!尊厳も守るデバイス「D Free

Apple Watchの発売日が決まり、ウェアラブルデバイス界隈は話題に事欠かないが、最近ではメディカル・ヘルスケア領域においてQOL(クオリティ・オブ・ライフ)の向上を支えるデバイスが注目を浴びている。

お腹に貼るだけで排泄を予知するデバイスと謳われた『D Free(ディーフリー)』は記憶に新しい。


超音波センサーで排泄の兆候を検知

『D Free』は、トリプル・ダブリュー・ジャパン社が医師や識者の協力を得て開発中で、その仕組みは超音波センサーで膀胱や前立腺、直腸をモニタリングし、膨らみや振る舞いをもとに排泄の兆候を検知するというもの。

スマートフォンと連動する専用アプリ経由で「10分後に出ます」と通知してくれるため、トイレまで辿り着けずに焦り苦しむといった窮地を未然に防ぐことができる。誰もが突然の便意に悩まされた経験を持つだけに、ネット上でもその利便性に期待する声は大きい。また、排泄介助が必要な高齢者に対する活用など、具体的な利用シーンを想定しやすいことも特徴的だ。

気になる価格は、199ドルとのことだが、これは5月からクラウドファンディングサイトの『Indiegogo』および『Makuake』で予約を開始する際のもので、米国と日本で先行販売され出荷予定は12月といわれている。一般向け発売の有無、商品バリエーションなど、今後の展開に関する詳細は不明だが、開発者は介護領域での利用促進を期待しているとのことだ。


介護だけでなく、患者の補助ツールとして

ヘルスケアという観点でいえば、先日『ためしてガッテン』でも取り上げられ話題となった病気“便失禁”の患者、特に便意を感じず知らないうちに漏れてしまう“漏出性便失禁”の症状を持つ方にとっても、画期的な補助ツールとなり得る。

「気がついたら下着が汚れていた」、「便意を感じたもののトイレまで間に合わなかった」といった経験をし、ショックを受けた……

便が漏れるというと赤ちゃんか高齢者の話と思われがちだが、国際失禁学会では“自らの意思に反して、社会的、衛生的に問題となる状況で、便が漏れる症状”と定義づけており、実のところ便失禁の患者は、20~65歳で310万人以上、65歳以上で135万人以上ともいわれている。加齢による括約筋機能の低下、痔ろうなどの肛門疾患以外にも、出産後や大腸がんや直腸がんの術後などにもなりやすい。つまり、誰もがなり得る病気なのである。

それだけの患者を抱える病気であるから、排便障害の患者を専門的に診療する専門医や、便失禁治療専用植込み型デバイス(心臓ペースメーカーと同様の形状をした仙骨神経刺激システム)を開発する医療機器メーカーは、治療の選択肢を広げるべく尽力している。

便失禁は、検査を通して原因や症状を明確にし、適切な治療法(薬や医療機器)や、食事、生活習慣の指導により改善を図ることが主流だが、『D Free』によって患者の日々の生活における不安が解消されるのだとしたら、このプロジェクトの価値は計り知れないものがあると言えるだろう。


“尊厳を守ること”こそがケアすべきポイント

筆者がここまで『D Free』に期待する理由は、便失禁ならではの難点にある。それは、“恥”が邪魔をするということだ。一般に排便をコントロールできないのは、2~3歳の幼児までで、それ以降漏れてしまうというのは“恥ずかしいこと”、“失態”とされる。

便失禁治療デバイスを手がける医療機器メーカーのマーケティング担当の方にお話を聞いたところ、異変を感じても恥ずかしいからという理由で周囲に相談しなかったり、病院行くことなく一人で悩んでしまったりするケースが多く、病院で受診した場合でも、専門医の治療を受けている患者はほんのわずかだという。

まずは、便失禁という病気の啓発を目指し、その上で「恥かしいいことではありません」、「一人で悩まないでくださいね」と安心させ、診察を受けることに前向きになってもらう必要があるのだ。

もちろん、症状には個人差があり、適切な診断と治療を受けたとしても、すぐに良くなるとは限らない。だからこそ、本質的な解決とは別の観点で『D Free』のようなツールが活きる。ポイントは、便失禁の患者や介護が必要な高齢者にとっての“尊厳を守る”ことである。

漏れてしまうのは致し方ないことで、恥じる気持ちまでも飲み込む必要はない。体をコントロールできなくても、心をケアすることはできるのだ。

「FUTURUS(フトゥールス)」に寄稿した記事を転載しています

アゴラ掲載記事:「ニュースキュレーションサービスでの出来事」について

2015.03.14 17:30|雑記
とあるニュースキュレーションサービスでの出来事について

昨日、TwitterのTLである記事が炎上していると知り、読んでみた。人材・キャリア領域で活躍する評論家・コラムニストTさんの、某経済系サイトの冠コーナーにおけるインタビュー記事だ。
結論から言うと、炎上と言えるほどのものではなく、内容もドラマのプロデューサーに、登場人物のキャラ設定やストーリーを通して伝えたいことを聞く、自らの主義主張全開の記事というよりは、広告寄りのものだった。

「あいかわらずこのサイトはページ送りが多いな、これなら3ページくらいでいいだろ」、などと全く別のところでツッコミを入れたいくらい、炎上要素を感じなかった。強いて言えば、随所にある対象に対して「ウザい」と連発していたのが良くなかったのかもしれない。

Tさんは、ある経済系ニュースキュレーションサービスでのコメント欄でdisられていること、その内容があまりにも的外れであることに言及していたが、「この記事を読んでそう感じるか?」という意味合いにおいて同感だった。ちゃんと読んでコメントしてる? 読んでないでdisってるんだとしたら、それはただの個人攻撃だよね?と思うのも無理はない。

とはいえ、あらゆる文章は誤配される運命にあり、ある言葉の定義が意図するものと真逆に捉えられたり、読み手自身が批判されているように感じて嫌な気持ちにさせてしまうこともある。つまりは、よくあることである。それが嫌なら書く(読む)のをやめよう。現場からは以上。

…と終わるわけにはいかないので、それこそ炎上しやすいのだが、これまでも何度も語られてきた「不毛な議論」と思われる、書き手と読み手の関係について改めて書こうと思う。


■ 物書きはそもそも不利な立場にある

まず、物書きというのはそもそも不利である。どういうことかというと、日本語で文章を書くこと自体は、特殊能力でも専門家のスキルでもなんでもない一般教養であり、一見すると「誰でもできること」だからだ。さらに、ある文章を読み、それについて何らかのコメントを寄せることは非常にハードルが低い。

これが、絵画や音楽などの領域だったらどうだろうか。感想を言うのは簡単だし、当然中には否定的なものもある。ただ一般に、余程専門的な知識や強い思い入れがない限りは、評価する、批評することは避けるのではないだろうか。つまりは、disるハードルが高いということだ。

念のため誤解がないように言うと、いわゆる芸術と呼ばれるレベルのものと、ネット上の記事を同列視しているわけではない。論点は、自分ができること、やったことがあることか否かが、批評や評論のハードルの高さを決めるということである。

たとえば、ギターを触れたこともない人は、おそらくギタリストの演奏をdisることはないだろうし、少なくとも演奏を聞いてもいないのにイマイチだね、このギタリストは才能ないわと言ったりはしない。純粋に、自分にできないことだからだ。だが、文章に関してはそうではない。場合によっては、記事を読みもせず、批判をしたり、ネガティブなコメントを添えてSNSで拡散させたりする。

私は基本的に、絵描きも音楽かも文筆家も「表現者」という意味では同様であると思っている。(一旦は、村上春樹と自分を一緒にするなよ、この野郎。といったツッコミを控えて読み進めていただきたい)だから、文章を書くことを生業にしている人々を尊敬しろとは言わないが、したり顔で玉石混交だなんだと評論したり、誰でもできることをやっているという目で見るのはおかしな話だと言いたい。少なくとも、自分ができないことをやっている人と捉えてほしい。

Tさんの話に戻すと、専門領域で何十冊も本を書いているプロの作家である。当たり前のことだが、商業出版というのはニーズがないもの、売れないものは取り扱わない。絵や音楽で生計を立てている人と同じで、消費者ができないことをやっている人である。このことを前提にするか否かが大切なのではないだろうか。本を読んだり、文章を書いたりしたことがない人はいないが、お金をもらって文章を書いている人は少ない。単純な話だ。

それにもかかわらず文筆家は、誰にでもできることを偉そうにやっていると思われる。だから、今回のような「よくある話」で傷付き、後味の悪い結果を招くのである。


■ 自分の身に置き換えてみれば簡単なこと

では、どうすればいいのか。子どもの頃、「自分がされて嫌なことは人にもするな」といったお叱りを親や先生から受けたことがある人は多いと思う。実は、このレベルである程度解決する話なのだ。

あるシンクタンクのリサーチャーの方が、Tさんの批判に対する反論記事に対し、書き手は「ちゃんと読め」で終わらず「なぜ伝わらなかったのか」「なぜちゃんと読んでくれなかったのか」「なぜちゃんと読んでない人に批判的な意見を表明させてしまったのか」と考え直した方が良いのでは、といったことをコメントしていた。正直なところ過剰な要求だと思うが、この発言の是非は問わず、立場を逆にして見てみることにしよう。

仮に、この方が記事を読まずにコメントしたのだとしたら、それはこの方が勤めるシンクタンクのサービス内容やリサーチャーとしての仕事も知らずに、あそこの分析レポートはショボいと言ったり、あのリサーチャーは市場を完全に読み違えていると酷評している人と同じ振る舞いをしていることになる。それでも、お前に何がわかる?と思うことなく、なぜそう思われるのかを考え直すのだろうか。その発言があるサイトで一定の支持を得てさえいれば、ちゃんと読まれていなくても受け止めるべきだと。

仕事を持つ人は、誰もがある領域の専門家であり、少なからずそこにプライドを持ち、無闇に批判されたくないと思っているはずだ。今回の件は、書き手と読み手どちらが偉いかといった話やサービス事業者の編集方針云々の話ではなく、書き手がdisられているとき、それは自分が誇りを持って取り組む仕事やテーマを踏みにじられることとイコールなわけだが、自分の身に置き換えてみたらどうか、という話なのである。

私も、某言論系サイトのコメント欄における罵詈雑言や根も葉もないレッテルで嫌な思いをしたことがあるし、反論してさらなる炎上を呼び込んだこともある。一億総評論家時代の到来などと言われて久しいが、プラットフォームができただけで簡単に評論家になれるわけがないことはよくわかっている。

評論家だろうが、文筆家だろうが、シンクタンクのリサーチャーだろうが、その道のプロになるためには、それで生計を立てるためには、相応の経験とスキル、それを鍛えるトレーニングが必要で、誰もができるわけではない。

「ライターになるのなんて資格いらないし、こんなレベルなら書けるけどならないだけ」という人がいたら、私は答えるだろう。「書かないのではなく、それは“書けない”ということなんですよ。現に商業ベースで書いていないわけですから」と。

こんな当たり前の前提が崩れてしまい「よくある話」になっていることがおかしいのであって、ネット上だから、リアルなビジネスの現場では、などと条件付きで話すのではなく、まずは自分の身に置き換えて考えてみればいいのだ。それでも、同じことを言うだろうかと。

※バイアスがかかることを避けるため、最後まで誰の何の話か明言することを控えましたが、背景を知りたい方はこちらをご覧ください。

「NEWS PICKSが嫌いになってしまった このサービスにネットでの議論なんて無理である」


※言論プラットフォーム「アゴラ」に寄稿した記事を転載しています