風化する震災の記憶とどう向き合うべきか。~観光客として2度、石巻を訪れた理由「震災の記憶は風化してしまった。」「復興は遅々として進まず、今も多くの人が不便な生活を強いられている。」
このような誰ともなく向けられた怒りにも諦めにも似た言葉が、繰り返し語られてきた。しかし、現実はそう単純ではなく、時間が経つからこそリアリティを持って語られることや、より正確な情報として整理、共有される事実もある。総じて他人事と捉え、無関心になっているわけではない。また、個別で見ていけば確実に復興は進んでおり、元の姿を取り戻したり新しい形で生まれ変わることで、日常が取り戻されている。
こんな嬉しいニュースがある。3月21日には石巻線が全線運転再開し、来る5月30日には仙石線も全線運転再開する。さらに「仙石東北ライン」(仙石線・東北本線接続線)が新たに開業し、鉄路の利便性が向上するという。
私は2度石巻に行っているが、この4年で仙台駅から石巻駅に直通で行けるようになったのは感慨深いものがある。自分が石巻で見たものはほんの一部に過ぎないが、復興は遅々として進まないと言ったところで、日々多くの人が復興のために黙々とさまざまなことに取り組んでいて、その結果目に見えて変わっていく様子を目の当たりにすることができた。
また、震災の記憶を風化させてはならないというが、この言葉もまた平板で、硬直した表現だ。記憶は時間とともに薄れていくものだし、忘れたいことや見たくないものだってある。震災の象徴だったものが無くなってしまったり注目されなくなったとしても、それは一概に風化したということにはならない。
たとえば、南三陸町防災対策庁舎、石巻市の大川小学校などの震災遺構を例に取るとわかりやすいだろう。安全面やコスト面といった現実的な課題含め存廃の是非についての議論は一筋縄ではいかず、最終的な判断が正しいかどうか計りかねる難しい問題だ。
風化させてはいけない震災の記憶とは何を指しているのか、何をすれば復興したと言えるのか、ここに踏み込むことなく、誰かを責めたり、誰かに同情したりしてはいないだろうか。被災地とそれ以外、被災者と第三者という構図を前提とすることで、大味な議論しかできなくなっているのではないか。私はここに、ずっと違和感を抱き続けてきた。
ただ、そうは言っても、自分自身どのように震災に向き合っていいかわからなかった。身の回りでは、積極的にボランティアや復興支援活動に取り組んでいる人たちがいて、自分にも何かできるのではないか、何かしなければならないのではないかと考えながらも直視するのを恐れ、日々が過ぎた。
行き着いた結論は、ボランティアでも復興支援でもなく、観光客として、とにかく被災地に行ってみることだった。石巻を選んだ理由は、仙台駅から電車とバスを使い日帰りで行けて、かつ時間が経ってもなお震災の傷跡を見ることができると思ったからだ。冷やかし半分の低俗な観光と言われるかもしれないが、まずはそんなことしかできない自分と向き合うことから始める必要があった。
ここから先は、石巻への訪問を通して考えた、自分なりの震災との向き合い方についての話になる。1度目の訪問に関しては、当時の状況と肌で感じたものが伝わりやすいよう現在形で書き、2度目の訪問に関しては、1度目の訪問を追憶しながらその変化について書く。そして最後に、観光客として被災地に行くことで得られたものについてまとめたいと思う。
■ 2012年5月、1度目の石巻訪問はじめて宮城県仙台市を訪れた際の目的は、日本三景・松島の観光だった。そして今回も中心市街地から入ったため、震災後の姿をうまく想像できなかった。ただ、仙台駅の切符売り場に行くと代行バスに乗り換える旨が書いてあり、まず「線路が途切れてしまっている」事実を認識する。観光名所は、乗り換え場所になっていた。
切符を買い、仙石線に揺られて松島海岸駅のホームに降り立つと、遠目に美しい海岸と青々と生い茂る松林が見える。ここまでは記憶のままだ。改札を抜けるとバスが待っている。平日の昼ではあったがほぼ満席で、乗客の属性も市街を走るバスとそれほど違いはなく、本来はないものに乗っていることを忘れてしまうものがあった。
だが、ほどなく景色はがらりと変わる。ところどころレールが途切れた線路を横目に、海に面した側ががらんどうになっている家屋、傾いた電柱、ひしゃげたガードレールなどに目を奪われ、否応無くそこにあったはずのものに思いを馳せることになる。何もないように見えるところは、そこを行き交う人々の生活の一部だったのだ。そんな風にぼんやりと考えていると、海が見えなくなりのどかな町並みが流れ、終点の矢本駅に到着した。再び仙石線に乗り換え、15分ほどで石巻駅に辿り着く。
プラットフォームに降り立ち、まずはじめに感じたのは「匂い」だった。漁場ならではの、そしておそらくそれだけの理由ではない鼻をつく独特な匂いがした。駅自体はこざっぱりしていて、改札口まで行くとサイボーグ009と仮面ライダーの像が出迎えてくれる。萬画を活かした創造性ある街造りを体現するオブジェは、以前からそこにあるはずなのに今しがた作られたかのようにつややかで、妙に生々しく感じられた。
駅からマンガロードと名付けられた商店街を抜けると、片側が通行できなくなっている橋と、その先に中瀬の角に宇宙船を思わせる建物が見えてくる。石ノ森萬画館だ。遠目には休館中とは思えないほどきれいだが、正面入り口に近づくとそこにはしっかりと津波の爪痕が残されていた。
一階部分は浸水し事務所やショップに水が流れ込み、押し流されてきた家屋や船がぶつかったことで窓や壁が破損している。エントランス部の看板の文字は一部はぎ取られていた。割れてしまった窓の枠に打ち付けられた板には、仮面ライダー海斗のイラストや仮面ライダーを演じた藤岡弘、氏のメッセージをはじめ、一早い復活を願う人々の言葉が所狭しと綴られている。
左手には、修復中の石巻ハリストス正教会、「入らないでください」という黄色いテープが巻き付けられた遊具、半分ほど元の姿を取り戻したヨットハーバーがある。この場所に公園や神社、商業施設があったことを思い浮かべるのは簡単ではない。残存物や復元したものから類推することはできても、そこに日常という風景や彩りを加えることができないのだ。あたりには人影がなく、時がゆっくりと流れているように感じられる。
中瀬の先端に向かって歩き、石巻漁港のある方向に視線を移すと、左半身を失った「自由の女神」がどんよりと曇った空を挑むように見上げている。あまりにも象徴的な存在だ。衰退が進む中心街の再生に向けて作られたものらしいが、事情を知らない者からすると、場違いな舞台に駆り出された役者を見ているような違和感があった。その姿は、堆く積まれた瓦礫の周りをせわしなく動き回るブルドーザーを見守っているようでもあり、ただぼんやりと虚空に無感動な眼差しを向けているようでもある。
象徴的であろうが暗示的であろうが、「自由の女神」は他の流されたものと流されなかったもの、崩れたものと崩れなかったものと何ら変わりはない。解釈を加えるまでもなく、石巻を形作るもののひとつなのだ。静けさの中には、無名の人々が我慢強く、着実に、元通りにしようと取り組んできたことが息づいている。
中瀬の突端に立ち、「見にきてよかった」、ただそう思った。実際のところ、観光することでわずかばかりのお金を落とし地元の人と少しだけ話ができただけで、被災地に対して何か貢献できたわけではない。自分が目にしているのは、物事のひとつの側面に過ぎないということもよくわかった。しかしそれでも、その土地に足を運ぶことを通してしか得られないものがあるという事実を体感できたのは大きい。
「また来よう。たたの自己満足でも、それでいいじゃないか。」震災後はじめて、肩の力が抜けた瞬間だった。
■ 2014年8月、2度目の石巻訪問2年数ヶ月ぶりに、再び石巻を訪れた。同じく出発地は仙台駅だが、今回は直通の高速バスに乗った。車窓から見える景色も安心して眺めることができる。地方中心都市によく見られる大型の商業施設を経由し、1時間20分ほどで石巻駅に着いた。まずはじめに、あの独特な匂いがなくなっていることに気がつく。
ところどころ新しいお店ができ、にわかに活気付いたマンガロードを歩く。しっかりと補修された橋を渡ると、何事もなかったかのように営業している石ノ森萬画館に辿り着いた。看板や照明が取り替えられており、新たに備え付けられたオブジェたちの歓迎を受ける。ちょうど『サイボーグ009』の50周年記念展示がやっていて、石ノ森萬画館を堪能することができた。
萬画館を後にすると、石巻市中瀬公園があった場所に巨大な銀色の人体像が設置されていることに驚く。調べてみると、石巻市出身の金属造形作家・伊藤嘉英さんのモニュメント作品「輝く人」であることがわかる。鉄製パイプなどで形作りステンレス板で覆われた高さ約9メートルの作品は、芸術文化の祭典「神戸ビエンナーレ2013」のアートコンペティションで審査員特別賞に輝き、神戸港から石巻の方角を望むように設置されていたとのことだ。「震災復興にお手伝いができれば」という伊藤さんの思いに応える形で神戸市から移設された「輝く人」は、復興を目指す新たな象徴となったわけだ。
一方、象徴的な存在だった「自由の女神」は、台座だけになっていた。1度目の訪問では、目の前にあるシンボルが何であるかを知るために「石巻 自由の女神」を検索し、二度目の訪問ではシンボルがなくなった理由を知るために検索する。北日本海事株式会社が2010年に慈善事業の一環として造成した「自由の女神」は、震災後の劣化で危険な状態であったため解体撤去を検討したが、津波に流されなかった復興のシンボルとして残したいという要望を受け、石巻河北新報社に寄贈することになったらしい。
「自由の女神」が見つめていた中瀬の先端部分には、かき小屋ができていた。その他にも様々な変化がある。顔の欠けた狛狐が転がっていた作田島神社は、土台と石碑だけを残して綺麗に片付けられており、旧ハリストス正教会やマリンパークの遊具はなくなっていた。また、こうして過去の訪問を振り返る中で、新たな発見に出会う。何とは無しに石ノ森萬画館の公式サイトを見てみたら、2015年に入り中瀬公園の復旧工事がはじまり、多くの人が集う憩いの場が蘇ろうとしていることがわかる。
津波によって元の形を失い、時間の経過とともに姿を変えていく。同じ場所を訪れて同じような行動を取り、被災地のほんの一部を見ただけでも、さまざまな復興の形を見ることができる。これらはすべて実際に足を運ばなければ、そしてその変化を見届けたいと再度訪問しなければ、決して知ることはなかったことだ。
■ 当事者とそれ以外という構図からの脱却2度の石巻の訪問でさまざまなものを得たが、中でも一番の収穫は、先で述べた被災地とそれ以外、被災者と第三者という構図を前提として語られることに対する違和感の正体だった。
そこには、個人として体験したことや自分なりの解釈がないのだ。被災した人はある意味で被害者であり、支援されなければならない、ちゃんとフォローできていない者は批判されてしかり…など、それぞれの立場や役割のようなものが予め決められているかのように話される。だから、もっと復興が進んでいなければならない、そんなことでは記憶が風化してしまうではないか、という論調が鋭くなる。
被災地に行き、その変化を目の当たりにすれば、変わるもの、変わらないものどちらが正しいかという話をする前に、手探りしながら日々復興を目指す人々がいることを想像できる。忘れたいこと、嫌でも思い出してしまう類のことは風化しても良いのではないか、復興とは必ずしも元通りにするということではなく、新しい景色、価値をもたらすことこそが必要なのではないか、そんな風に考えるようにもなるだろう。
もちろん、当事者とそれ以外という構図の中で、軽はずみな発言ができないのもわかる。「被災者に寄り添う」といった言葉は非常に耳障りがいい。少なくとも、観光で石巻に行ってきましたというよりは、慎ましく、奥ゆかしいように思える。しかし、「被災者の気持ちを考えろ」などと言うとき、その人は誰の、何を、どんな立場で代弁しているのだろうか。
その人が誰であれ、自分はこう考える、なぜなら~、だから~という話をしなければ、当事者とそれ以外という構図からは脱却できない。震災と向き合う中での「役割」については別の機会で詳しく書きたいと思うが、大切なのは自分にできることは何かを考え、できる範囲で行動することであり、そこから生み出される結果や価値の多寡を問うことではない。
そもそも、被災地や被災者に関して雄弁である必要はないし、どんな行動・立場を取るにしても正解などない。正確な情報や専門知識は重要だが、当事者とそれ以外という構図の中で「正しさ」や「立場」を要求すると、多くの人は自分はこう思う、こうすると言えなくなってしまう。
いまさらなどと言わずに、行きたいところがあれば行ってみればいいし、震災に関して興味があることを調べてみればいいし、当事者でなくても話し合えばいい。震災を風化させたくないのであれば、なおさらである。私の場合は、自分と向き合った結果として、不謹慎だと萎縮したり何か役に立ってみせると背伸びすることなく、観光客として被災地に行った。ただそれだけのことだが、それだけのことで自分なりにスタンスは固まる。
被災者に寄り添うよりも、まずは自分と向き合うこと。震災はあくまで、そのきっかけに過ぎないのだ。
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「Yahoo!ニュース 個人」に寄稿した記事を転載しています