「集合知」を形成するための重要なファクターについて
2012.01.30 00:03|雑記|
昨日の朝、twitterのTLには「朝まで生テレビ!」の感想ツイートが流れていたが、そのほとんどが具体的なビジョン・政策を掲げる橋下徹氏に対してぶつけられる感情論に辟易するものだった。結果的に橋下氏は少なからず支持率を上げ、一方で反ハシズム派は評価を落としただろう。
私はこう思うという意思を持った「主張」と、それはダメだという「リアクション」では響く程度が違うのは当然で、否定することと代替案を持った議論とは違うということが浮き彫りにされたように思える。私自身、大阪都構想を完全に理解できていないし、それが実現したときに何が起きるのか想像できていないが、どうやらそれ以前の話に終始してしまったようだ。
本題に入ろう。ここで朝生の続きをやりたいわけではなく、橋下氏と反ハシズム派の対立構造を見るにつけ、「ノイジー・マイノリティ」を再定義する必要性を感じたのである。「ノイジー・マイノリティ」とは、意見・主張に論理性や道義的裏付けが乏しく、声の大きさに任せて騒ぎ立てる「少数者」を指すが、そのアピールが強烈なため、少数派であるにもかかわらず、消極的な姿勢の「多数派」(サイレント・マジョリティ)よりも目立つ傾向があることを指す。
多数派に見えて少数派、多数派に見えて少数派ということは往々にしてあるだろうが、多数派から少数派への「降格」と少数派から多数派への「昇格」もよく見られる。例に挙げた朝生の場合は1対6(一旦東浩紀氏は外して考える)、数の上では完全に少数派と多数派の対決である。
だが実際はどうだろう。多数派であるはずの反ハシズム派の非論理性が明るみに出て、「ノイジー・マイノリティ」になってしまっている。というより、元々「ノイジー・マイノリティ」であったことが明るみに出たという表現の方が正しいかもしれない。大きな声は遠くまで届き、キャッチーな言葉は人の目につき、拡散していく。そしてそれがいつしか主流の情報源となり、“通説”として取り入れられることになる。「ノイジーか否か」、つまり情報の確からしさを決めるものが「多数の支持」ではないのにもかかわらず。
特に、「原発問題」はここが難しい。学者や医師が「福島で健康被害は出ない」と言ったところで、そもそも放射能そのものが危険と議論をすり替えられてしまうからだ。確かに、放射能は不確かな部分が多い「得体の知れないもの」ではある。現実に原子力発電所で事故が起こっているわけだし、次なる大震災が懸念される現状においては、なおさらリスキーだと言われるだろう。だが、不確かという部分にのみフォーカスして、分からないから危険、目に見えないが汚染は広がっているというのは論理性に欠ける。そんな中で絶対安全か否かの話をするのは、あまりにもアンフェアだ。
つまり、健康被害が出るか出ないかの具体的なラインを決めていく立場は、不利なのである。たとえそれに根拠があったとしても、危険ではないと口にしたら下手をすると「ノイジー・マイノリティ」にされてしまう。専門知識を持つ者として誤った情報が流れることを差し止めようとしただけなのに、「御用学者」と呼ばれ、嘘つきだの金が動いているだの罵詈雑言の銃弾を浴びせられるのだ。
こうなると、志半ばにして「サイレント・マジョリティ」の立場に舞い戻ることになりかねない。主張が変わらなくても目立たなくなってしまうのである。嘘つきであることを指摘されたから黙るのではないし、黙ったからといって攻撃した側の勝ちではない。繰り返すが、反対意見を潰して「多数派」であろうしても、確からしさは獲得できないのだ。
ここで視点を変えて、ひとつ例を出そう。
「たばこを吸うことは危険である」と明示された警告表示である。これを見て、本当はもっと危険なのに売れなくなるから嘘をついていると言うだろうか。それとも、そんな危険なものをつくり出すのは犯罪行為だと非難するだろうか。はたまた、喫煙OKの喫茶店に入った客がマスターに「殺す気か!」と食い下がるだろうか。
こう言うと、たばこと一緒にするなと非難されるかもしれないが、もちろん一緒ではない。たばこは、有害であっても生活に密着し商品として受け入れているが、原発はそうではない。これから警告表示をつくっていかなければならないものであり、それは事故の被害に対する具体的な解決策のひとつなのだ。そこに取り組む者に対し「御用学者」「原発推進派」などとレッテルを貼ることは、発がん率に目くじら立て愛煙家を「がん推進派」と叩くこと以上にナンセンスなのである。
健康被害が出るか出ないかのラインを決めていく立場は不利だと述べたが、あえて自らをマイノリティにしてでも声を出す必要がある。たとえマジョリティに見える者たちから攻撃を受けても、不確かな情報が飛び交い人々を不安にさせている状況を打破するためには避けて通れないからだ。今や、マジョリティかマイノリティかではなく、「コレクトネス」や「フェアネス」を問うフェーズに入っているのである。
正当性や公平性を追求した結果、枝分かれして新しい立場が生まれたとしても、それはもう従来の意味での「マイノリティ」ではない。集合知を形成するための重要なファクターなのだ。「原発問題」はこの構造を可視化した。「ノイジー・マイノリティ」は自ら名乗り出ることになるのだ。
※言論プラットフォーム「アゴラ」に掲載された記事を転載しています
私はこう思うという意思を持った「主張」と、それはダメだという「リアクション」では響く程度が違うのは当然で、否定することと代替案を持った議論とは違うということが浮き彫りにされたように思える。私自身、大阪都構想を完全に理解できていないし、それが実現したときに何が起きるのか想像できていないが、どうやらそれ以前の話に終始してしまったようだ。
本題に入ろう。ここで朝生の続きをやりたいわけではなく、橋下氏と反ハシズム派の対立構造を見るにつけ、「ノイジー・マイノリティ」を再定義する必要性を感じたのである。「ノイジー・マイノリティ」とは、意見・主張に論理性や道義的裏付けが乏しく、声の大きさに任せて騒ぎ立てる「少数者」を指すが、そのアピールが強烈なため、少数派であるにもかかわらず、消極的な姿勢の「多数派」(サイレント・マジョリティ)よりも目立つ傾向があることを指す。
多数派に見えて少数派、多数派に見えて少数派ということは往々にしてあるだろうが、多数派から少数派への「降格」と少数派から多数派への「昇格」もよく見られる。例に挙げた朝生の場合は1対6(一旦東浩紀氏は外して考える)、数の上では完全に少数派と多数派の対決である。
だが実際はどうだろう。多数派であるはずの反ハシズム派の非論理性が明るみに出て、「ノイジー・マイノリティ」になってしまっている。というより、元々「ノイジー・マイノリティ」であったことが明るみに出たという表現の方が正しいかもしれない。大きな声は遠くまで届き、キャッチーな言葉は人の目につき、拡散していく。そしてそれがいつしか主流の情報源となり、“通説”として取り入れられることになる。「ノイジーか否か」、つまり情報の確からしさを決めるものが「多数の支持」ではないのにもかかわらず。
特に、「原発問題」はここが難しい。学者や医師が「福島で健康被害は出ない」と言ったところで、そもそも放射能そのものが危険と議論をすり替えられてしまうからだ。確かに、放射能は不確かな部分が多い「得体の知れないもの」ではある。現実に原子力発電所で事故が起こっているわけだし、次なる大震災が懸念される現状においては、なおさらリスキーだと言われるだろう。だが、不確かという部分にのみフォーカスして、分からないから危険、目に見えないが汚染は広がっているというのは論理性に欠ける。そんな中で絶対安全か否かの話をするのは、あまりにもアンフェアだ。
つまり、健康被害が出るか出ないかの具体的なラインを決めていく立場は、不利なのである。たとえそれに根拠があったとしても、危険ではないと口にしたら下手をすると「ノイジー・マイノリティ」にされてしまう。専門知識を持つ者として誤った情報が流れることを差し止めようとしただけなのに、「御用学者」と呼ばれ、嘘つきだの金が動いているだの罵詈雑言の銃弾を浴びせられるのだ。
こうなると、志半ばにして「サイレント・マジョリティ」の立場に舞い戻ることになりかねない。主張が変わらなくても目立たなくなってしまうのである。嘘つきであることを指摘されたから黙るのではないし、黙ったからといって攻撃した側の勝ちではない。繰り返すが、反対意見を潰して「多数派」であろうしても、確からしさは獲得できないのだ。
ここで視点を変えて、ひとつ例を出そう。
喫煙は、あなたにとって肺がんの原因の一つとなります。疫学的な推計によると、喫煙者は肺がんにより死亡する危険性が非喫煙者に比べて約2倍から4倍高くなります。
「たばこを吸うことは危険である」と明示された警告表示である。これを見て、本当はもっと危険なのに売れなくなるから嘘をついていると言うだろうか。それとも、そんな危険なものをつくり出すのは犯罪行為だと非難するだろうか。はたまた、喫煙OKの喫茶店に入った客がマスターに「殺す気か!」と食い下がるだろうか。
こう言うと、たばこと一緒にするなと非難されるかもしれないが、もちろん一緒ではない。たばこは、有害であっても生活に密着し商品として受け入れているが、原発はそうではない。これから警告表示をつくっていかなければならないものであり、それは事故の被害に対する具体的な解決策のひとつなのだ。そこに取り組む者に対し「御用学者」「原発推進派」などとレッテルを貼ることは、発がん率に目くじら立て愛煙家を「がん推進派」と叩くこと以上にナンセンスなのである。
健康被害が出るか出ないかのラインを決めていく立場は不利だと述べたが、あえて自らをマイノリティにしてでも声を出す必要がある。たとえマジョリティに見える者たちから攻撃を受けても、不確かな情報が飛び交い人々を不安にさせている状況を打破するためには避けて通れないからだ。今や、マジョリティかマイノリティかではなく、「コレクトネス」や「フェアネス」を問うフェーズに入っているのである。
正当性や公平性を追求した結果、枝分かれして新しい立場が生まれたとしても、それはもう従来の意味での「マイノリティ」ではない。集合知を形成するための重要なファクターなのだ。「原発問題」はこの構造を可視化した。「ノイジー・マイノリティ」は自ら名乗り出ることになるのだ。
※言論プラットフォーム「アゴラ」に掲載された記事を転載しています