論理的思考には訓練が必要
それぞれ伝統的論理学、形式論理学が対応するけれど、形式論理学は1年はおろか半年の内容にも足りないと考えられているのか、アタリマエに習熟していると考えられているからか、数学科の講義にはそういうものはなかった。
対して、伝統的論理学の方は、教養の講義(論理学)にちゃんとあって、形式論理もこの講義の中で少し触れらていたと思うけれど、内容はギリシア哲学の思弁、詭弁についてであったと思う。
大学の講義は名前が同じでも、内容は教官の趣味で決まるから、これが一般的かと言われたら、他の講義は知らないから、何とも言えない。
で、どちらの論理も使いこなす、つまり論理的思考を行うには、訓練が必要だと思う。
形式論理の方から書くけれど、高校のときに関連書を読んで、演習問題で論理式の操作を練習したことがある。この勉強が役にたったと思ったのは、ε-δ論法の理解。
ε-δ論法というのは、周知のとおり極限(無限)の概念を記述(定義)するものだけれど、これが極限の定義になるということを了解するのには、やはり形式論理、とりわけ限定命題に親しんで、その思考方法を身に付けていないと難しかったのではないかと思う。
そして、その思考方法・記述方法というのに慣れれば、前にも書いたけれど(限定記号の使用例)、それに代えられるツールはない。
限定命題の「強さ」もしっかり意識している人は必ずしも多くはないと思う(説明されれば納得するだろうけど)。
∀x∀y [P(x,y)] ⇒ ∃x∀y [P(x,y)] ⇒ ∀x∃y [P(x,y)] ⇒ ∃x∃y [P(x,y)]
次に伝統的論理学の方だけれど、これが役に立つのは詭弁や詐欺への備えである。
冒頭にあげた大学の論理学の講義でも、アリストテレス論理学でいう「虚偽論」がおもしろかった。
Wikipediaの、「詭弁」や、「誤謬」にさまざまなタイプの虚偽論理が説明されている。
「集団的自衛権は主権国家には認められた権利(だから行使して当然)」(⇒憲法と安全保障)
権利があるということとそれを行使することは別で、主体的な判断の問題。日本はその判断に基づいて行使しないとし、それを憲法解釈として対外的に説明してきたのである。そのことを議論すべきなのである。
関連して、耳を疑うような言説が耳に入った。
「憲法9条を改正しないと立憲主義が空洞化することになる」
一昨日就任の新防衛大臣の発言だという。
ちなみに以前防衛大臣を務め先日都知事になった人の都庁初仕事は、日本国憲法無効・大日本帝国憲法への復帰を唱える人を政務担当特別秘書に選任したことらしい。
いずれも「論点先取の虚偽」と理解される詭弁である。はじめに結論(主張)があり、それを推論の結果であるかのように見せかける一種の循環論理である。
こうした言説は論理的には意味はないが、アジテーション効果が期待される。
「このものの後にある、ゆえにこのものゆえにある(post hoc ergo propter hoc)」(前後即因果の誤謬)=時間的順序関係を因果関係にすり替える手法=もよく政治家によって使われる。
政策の効果を、それを行った場合と行わなかった場合を比較して評価するのではなく、結果としてのみ評価する(効果がなかったら「道半ば」と言う)方法である。
また、以前、「わら人形論法」にも言及したことがある。論点をすりかえて相手を攻撃するテクニックである。
蛇足だけれど、私は結論の是非について主張するものではない。あくまで論理的陥穽に注意しているだけである。
形式論理という言葉は、論理学を知らない人からは「実体のともなわない空疎な理屈」という悪い意味で使われることがある。
「あなたの言ってることは形式論理だ。形式論理は完璧だ。」⇒「あなたの言ってることは完璧だ。」
(多義語の誤謬)
そして詭弁を論駁する上では、形式論理の使用、つまり相手の陳述の言替え(トートロジー)を駆使することが有効になる場合もある。
【例】
「集団的自衛権は主権国家には認められた権利(だから行使して当然)」という命題を正しいとすると、集団的自衛権を行使しないと主権国家として認められない、つまり永世中立の孤立主義国は主権国家ではなくなる。それを詭弁というなら、集団的自衛権を保有していてもその行使は主体的に判断すれば良いという理屈になるはずだ。
前記の詭弁は、そうとわかって使っているなら悪人だし、論理的誤謬に気づいていないなら愚人だろう。