竹宮ゆゆこ「とらドラ10!」
2009/03/09/Mon
「おもしろかった、といっていいと思う。でも率直にいって手放しで絶賛というほどの完成度でもなかったかなって思いは私のなかに最終巻を読み終えたあとから免れたく残ってるのであって、それは端的にいうなら、本作は自身が提起してきた課題のすべてには洩れなく対決するということができてなくて、それはとうていこのラスト1巻で収まりうる内容のものでもなかったから、10巻で終りって情報が知れたときから予想ができた類の失敗ではあったかな。つまり「とらドラ!」って作品はいくつかのとても示唆に富む問題を提出してくれたのだけど、本巻で描かれた部分はこれは読了した人のだれもが納得してくれるものだと思うけど、真摯に決着をつけられえたのは竜児ただひとりであって‥実は大河の問題に関してはスルーしちゃってるところがあって、そこは少し残念かな‥作中、重要な位置を占めたであろうみのりんについては、まだ大きな課題が立ちはだかってるのでないかなって思いが、私には拭えない。そして、竜児はみのりんのことがけっきょくわからなかった。でも、それは、しかたないことであるかもだけど。それはみのりんと竜児の人となりは、その型としては、ぜんぜん異なった二人だっていってもよろしかもなのだから。」
「ま、竜児の葛藤については上手く処理することができたといったところかしらね。いろいろ意見はあるのでしょうけれど、しかし竜児が大河を連れ出し逃げて、そのまま社会からいろいろなものを放り投げて、つまりこれまで築いてきた自分の負った歴史を捨てて、消えてしまう可能性もあったことを思えば、今回、彼がくだした決断というものは評価してよいものであったのでしょう。とくにこのまま大河との愛だけに溺れ、ほかを省みなくなるのは破滅につながる道だと気づけたのは、竜児が真にこれまでの経験を昇華し、変化した証拠と見てよいでしょう。人は変われば変われるものなのかしらね。ま、終盤の竜児はちょっと多幸感が強すぎてあれと思う場面もあったのだけれど。」
『泰子のエゴイスティックな保護欲と、それに応えなくてはそもそも存在する意味さえないと思える空虚な自己像が竜児の前には立ちはだかった。そして大河の母親も、大河を竜児から引き離そうとして立ちはだかった。』
竹宮ゆゆこ「とらドラ10!」
「実際的な家族の不在を設定として用意して、それなのに女の子や何かで擬似的な家族を構成しちゃう傾向があるラノベにおいて、実の親を捨てた泰子と泰子を捨てようとした竜児、そして紡ぐ因果の恐怖によって祖父母に頼った孫の姿は、私には竹宮ゆゆこの視点の卓抜さを示すものにほかならないのじゃないかなって思うかな。それは安易に子どもたちだけで気楽な家族を形作るのに逃げるのじゃなくて‥つまり現実にある親や兄弟とはあんまり楽しくないから、理想の家族像としてかわいい女の子で囲まれた生活集団を、ラノベが描きがちなことと対照されてるのだよね。そして本作でも竜児は大河と逃げ出そうとして、現実からの逃避による空虚な理想の実現に行きそうになったのだけど、それを拒否したのが彼の男らしいとこ。ここは素直に私は竜児を見直したかな。やるじゃない、竜児‥現実をどうしようもない現実として認識するということであって、それは自分のためだけでない、要するに環境が彼に課した運命的な責任を、竜児は主体的に泥を被ることによって乗り越えようとした意志を象徴するものでこそあるのだよね。‥人は、ときに自分のせいじゃないのに、重荷を負うべき場合がある。それを十字架って表現してもよろしかもだけど、でも私は、それが生きるための与件ならって、腹をくくる竜児の態度には大人を感じたっていいたい。そう、今回の竜児はなかなか大人だった。感情に流されまいとしてふんばるとこなんて、素敵じゃない。」
「竜児が母子家庭に生まれたのも、祖父母と断絶して生きてきたのも、すべては竜児の責任ではなくただ状況がそういうものだったというだけであるのよね。ただしかし、そのまったく自分には責任がないはずの不運な状態に、人は何かしら意味づけを与えてしまいたくなるものであって、本作でも竜児は運命だの罪だのといろいろ悩んでしまうのは、ある意味、実に人間らしい懊悩だといって良いのでしょう。ただそれは、運命でも罪でも、まして必然でもないのよ。ただ状況がそうあったというだけであって、それは大河にしろ実乃梨にしろ、異なるところはないのでしょうね。しかしいえるのは、人はただの不運に運命という意味を与え、勝手に絶望してしまいがちな存在である、か。はてさて、ならばそういう傾向から逃れるにはどうすればよいのか。それがこの作品の最終的なテーマだったと思って良いのでしょう。」
『そうやって、生きて生きて、生き残ったから、今ここにいる。でも、簡単にここまで辿り着いたわけじゃない。よろよろで、傷だらけで、満身創痍のボロ布みたいになって、それでも生きて、過ぎ行く過去を渡ってきたのだ。自分だけじゃなくて、生きている奴はみんな『今』を目指してボロボロになって、それでもやってきたのだと竜児は思う。』
竹宮ゆゆこ「とらドラ10!」
「この認識にたどり着いた竜児が、不運と絶望に満ちた運命を受諾する場面が、本巻のいちばんの見どころであって、竜児は自己の孤独を分つ片われとしての存在である大河との愛を信じること、一途に信じることによって、暗黒に染まろうとする自分の心に光明を点しつづけることを決意する。そして大河もまた愛を得るのであって、まさにこれは私がいってきた『それは運命だから絶望的だといわれる。しかるにそれは運命であるからこそ、そこにまた希望もあり得るのである。』を証するかのようで、私は、うれしかったかな。‥たぶん最終巻で胸に来ちゃうのは、竜児と大河がようやく両思いになれたってことであって、回り道を重ねてきた迂遠な二人であったからこそ、結ばれてからの関係性の表現は最高のカタルシスがあったのだと思う。でもなんていうのかな、二人は以前もいったけど、本質的に適合してるのでないかなって思えちゃうほど相性のよい性質同士であったから、そのうち傍にいたらうざくなっちゃうくらいのバカップルになるだろうなって私は気がするかな。というか、本巻でもさいごのほうそんな雰囲気だったから、亜美さんあたりは近いくらいに怒ってくれてもよろしかも。‥でも、それはそれでよいのかもかな。大河がしずかに幸せになれたことは、私もうれしい。それは、よかった。」
「ただ大河の家族関係ももう少し余裕をもって描かねばならなかったと思えてしまうのが、なんとも惜しいのよね。竜児をしっかりと描写しきったのだから、相棒である大河も疎かにしてはならなかったとは思えるのだろうけど、はてさて、真正面からとりあげられる日はいつか来るのかしら? それに実乃梨の問題は、何かしらね、「とらドラ!」では核心には触れられずじまいだったという印象は残るのであり、実乃梨の闇の問題は、おそらく竹宮ゆゆこという作家にとって、未だ向わねばならない課題として在るのでしょう。ま、しかし、ひとまずこの作品がこれで区切りというのは妥当なのでしょうね。楽しませてもらったのは事実でしょうし、素直にそこは感謝かしら。しかし、本作はまだこれから考えねばならない部分は多いでしょう。そこは私たちとしても、気を緩めてはならないところなのでないかしら。ま、はてさて、ね。」
『桜の季節が終わる頃、メチャクチャだった大河と出会った。騒々しい八方破れの日々が、そこから始まった。やがてどうしようもなく惹かれあって、いつしか恋に転がり落ちた。無様に転げて、死ぬかと思った。どうにかこうにか起き上がって、やっと心は重なりあった。そうして今、高須竜児は、逢坂大河を、愛している。
こんなにも愛している限り、二人を繋ぐ絆は決して断たれはしないと思う。繋ごうと思う限り、大丈夫なのだと自分自身を信じる。いずれこの愛は声になって溢れ出すだろう。堪えきれない呼び声となって、お互いの名を叫びあうだろう。肉体も、心も、魂も、引き寄せる力に抗えずに、やがて世界のどこかで二人は必ずぶつかりあうだろう。
そうしたら、その後はまるで帰り道を見つけたみたいに、竜児と大河は同じところを目指して生きていくのだ。大河と一緒に生きていけるなら、ともに歩めるのなら、その先に果てなんてなくてもいい。ずっと続いていっていい。永遠でさえいいと竜児は思った。そこにはただ、愛がある。』
竹宮ゆゆこ「とらドラ10!」
竹宮ゆゆこ「とらドラ10!」
→竹宮ゆゆこ「とらドラ!」1巻
→竹宮ゆゆこ「とらドラ2!」
→竹宮ゆゆこ「とらドラ3!」
→竹宮ゆゆこ「とらドラ4!」
→竹宮ゆゆこ「とらドラ5!」
→竹宮ゆゆこ「とらドラ6!」
→竹宮ゆゆこ「とらドラ7!」
→竹宮ゆゆこ「とらドラ8!」
→竹宮ゆゆこ「とらドラ9!」
→竹宮ゆゆこ「とらドラ・スピンオフ! 幸福の桜色トルネード」
→竹宮ゆゆこ「とらドラ・スピンオフ2! 虎、肥ゆる秋」
→絶叫「とらドラ!」1巻
→竹宮ゆゆこ、絶叫「とらドラ!」2巻
→とらドラ雑感 微妙な距離感
→とらドラ雑感 恋愛と自己愛のバランス
→「とらドラ!」にみる男の奇妙な性心理
→「とらドラ!」は現代の「人間失格」なのかな
→大河をツンデレとするオタク的気質の問題とか
→「とらドラ!」雑感 嘘の囚われ人としての実乃梨
→自尊心の処理の問題 「とらドラ!」と「山月記」に寄せて
「ま、竜児の葛藤については上手く処理することができたといったところかしらね。いろいろ意見はあるのでしょうけれど、しかし竜児が大河を連れ出し逃げて、そのまま社会からいろいろなものを放り投げて、つまりこれまで築いてきた自分の負った歴史を捨てて、消えてしまう可能性もあったことを思えば、今回、彼がくだした決断というものは評価してよいものであったのでしょう。とくにこのまま大河との愛だけに溺れ、ほかを省みなくなるのは破滅につながる道だと気づけたのは、竜児が真にこれまでの経験を昇華し、変化した証拠と見てよいでしょう。人は変われば変われるものなのかしらね。ま、終盤の竜児はちょっと多幸感が強すぎてあれと思う場面もあったのだけれど。」
『泰子のエゴイスティックな保護欲と、それに応えなくてはそもそも存在する意味さえないと思える空虚な自己像が竜児の前には立ちはだかった。そして大河の母親も、大河を竜児から引き離そうとして立ちはだかった。』
竹宮ゆゆこ「とらドラ10!」
「実際的な家族の不在を設定として用意して、それなのに女の子や何かで擬似的な家族を構成しちゃう傾向があるラノベにおいて、実の親を捨てた泰子と泰子を捨てようとした竜児、そして紡ぐ因果の恐怖によって祖父母に頼った孫の姿は、私には竹宮ゆゆこの視点の卓抜さを示すものにほかならないのじゃないかなって思うかな。それは安易に子どもたちだけで気楽な家族を形作るのに逃げるのじゃなくて‥つまり現実にある親や兄弟とはあんまり楽しくないから、理想の家族像としてかわいい女の子で囲まれた生活集団を、ラノベが描きがちなことと対照されてるのだよね。そして本作でも竜児は大河と逃げ出そうとして、現実からの逃避による空虚な理想の実現に行きそうになったのだけど、それを拒否したのが彼の男らしいとこ。ここは素直に私は竜児を見直したかな。やるじゃない、竜児‥現実をどうしようもない現実として認識するということであって、それは自分のためだけでない、要するに環境が彼に課した運命的な責任を、竜児は主体的に泥を被ることによって乗り越えようとした意志を象徴するものでこそあるのだよね。‥人は、ときに自分のせいじゃないのに、重荷を負うべき場合がある。それを十字架って表現してもよろしかもだけど、でも私は、それが生きるための与件ならって、腹をくくる竜児の態度には大人を感じたっていいたい。そう、今回の竜児はなかなか大人だった。感情に流されまいとしてふんばるとこなんて、素敵じゃない。」
「竜児が母子家庭に生まれたのも、祖父母と断絶して生きてきたのも、すべては竜児の責任ではなくただ状況がそういうものだったというだけであるのよね。ただしかし、そのまったく自分には責任がないはずの不運な状態に、人は何かしら意味づけを与えてしまいたくなるものであって、本作でも竜児は運命だの罪だのといろいろ悩んでしまうのは、ある意味、実に人間らしい懊悩だといって良いのでしょう。ただそれは、運命でも罪でも、まして必然でもないのよ。ただ状況がそうあったというだけであって、それは大河にしろ実乃梨にしろ、異なるところはないのでしょうね。しかしいえるのは、人はただの不運に運命という意味を与え、勝手に絶望してしまいがちな存在である、か。はてさて、ならばそういう傾向から逃れるにはどうすればよいのか。それがこの作品の最終的なテーマだったと思って良いのでしょう。」
『そうやって、生きて生きて、生き残ったから、今ここにいる。でも、簡単にここまで辿り着いたわけじゃない。よろよろで、傷だらけで、満身創痍のボロ布みたいになって、それでも生きて、過ぎ行く過去を渡ってきたのだ。自分だけじゃなくて、生きている奴はみんな『今』を目指してボロボロになって、それでもやってきたのだと竜児は思う。』
竹宮ゆゆこ「とらドラ10!」
「この認識にたどり着いた竜児が、不運と絶望に満ちた運命を受諾する場面が、本巻のいちばんの見どころであって、竜児は自己の孤独を分つ片われとしての存在である大河との愛を信じること、一途に信じることによって、暗黒に染まろうとする自分の心に光明を点しつづけることを決意する。そして大河もまた愛を得るのであって、まさにこれは私がいってきた『それは運命だから絶望的だといわれる。しかるにそれは運命であるからこそ、そこにまた希望もあり得るのである。』を証するかのようで、私は、うれしかったかな。‥たぶん最終巻で胸に来ちゃうのは、竜児と大河がようやく両思いになれたってことであって、回り道を重ねてきた迂遠な二人であったからこそ、結ばれてからの関係性の表現は最高のカタルシスがあったのだと思う。でもなんていうのかな、二人は以前もいったけど、本質的に適合してるのでないかなって思えちゃうほど相性のよい性質同士であったから、そのうち傍にいたらうざくなっちゃうくらいのバカップルになるだろうなって私は気がするかな。というか、本巻でもさいごのほうそんな雰囲気だったから、亜美さんあたりは近いくらいに怒ってくれてもよろしかも。‥でも、それはそれでよいのかもかな。大河がしずかに幸せになれたことは、私もうれしい。それは、よかった。」
「ただ大河の家族関係ももう少し余裕をもって描かねばならなかったと思えてしまうのが、なんとも惜しいのよね。竜児をしっかりと描写しきったのだから、相棒である大河も疎かにしてはならなかったとは思えるのだろうけど、はてさて、真正面からとりあげられる日はいつか来るのかしら? それに実乃梨の問題は、何かしらね、「とらドラ!」では核心には触れられずじまいだったという印象は残るのであり、実乃梨の闇の問題は、おそらく竹宮ゆゆこという作家にとって、未だ向わねばならない課題として在るのでしょう。ま、しかし、ひとまずこの作品がこれで区切りというのは妥当なのでしょうね。楽しませてもらったのは事実でしょうし、素直にそこは感謝かしら。しかし、本作はまだこれから考えねばならない部分は多いでしょう。そこは私たちとしても、気を緩めてはならないところなのでないかしら。ま、はてさて、ね。」
『桜の季節が終わる頃、メチャクチャだった大河と出会った。騒々しい八方破れの日々が、そこから始まった。やがてどうしようもなく惹かれあって、いつしか恋に転がり落ちた。無様に転げて、死ぬかと思った。どうにかこうにか起き上がって、やっと心は重なりあった。そうして今、高須竜児は、逢坂大河を、愛している。
こんなにも愛している限り、二人を繋ぐ絆は決して断たれはしないと思う。繋ごうと思う限り、大丈夫なのだと自分自身を信じる。いずれこの愛は声になって溢れ出すだろう。堪えきれない呼び声となって、お互いの名を叫びあうだろう。肉体も、心も、魂も、引き寄せる力に抗えずに、やがて世界のどこかで二人は必ずぶつかりあうだろう。
そうしたら、その後はまるで帰り道を見つけたみたいに、竜児と大河は同じところを目指して生きていくのだ。大河と一緒に生きていけるなら、ともに歩めるのなら、その先に果てなんてなくてもいい。ずっと続いていっていい。永遠でさえいいと竜児は思った。そこにはただ、愛がある。』
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→自尊心の処理の問題 「とらドラ!」と「山月記」に寄せて