「とらドラ!」雑感 嘘の囚われ人としての実乃梨
2008/10/12/Sun
「みのりんの深刻さは、自分に嘘をついちゃうことが常態化しちゃってることかな、と思う。彼女は大河が竜児のことを好きってことに気づいちゃったときから、大河のために動くことに心を砕き、それで自分の気持を押し殺し、竜児の告白を無下にしちゃうんだよね。‥もちろん親友のために自分の恋路をあきらめるというのは、流行曲の歌詞にでもありそなことで、それだけでは青春の一頁として胸に刻んでもよろしなのだけど、みのりんのあぶないとこはきちんと竜児を拒絶することができなくて、そのあとずるずると友だち関係をなあなあでつづけちゃったことかな。たぶんこういう場合人がとるべき選択は多くなくて、たいがいの状況はその個人は自分を犠牲にしつづけることに耐え切れなくなっちゃって、気持が爆発、他者への感情‥愛情とか憎悪とか恨みとか怨恨とか怨嗟とか、そういうの‥が、抑えられなくて、それは世間によくある恋愛の至るどろどろとした関係性へと進展する。‥とらドラのおもしろいとこは、みのりんはそう感情を御しきれなくなることになるのでなくて、自分につく嘘の深度をさらに深めちゃったって点にあるのだよね。私は竜児が好き。でも親友の大河は竜児が好き。なら私がすべきことはなんだろう。大河を裏切ることかな? そうじゃないよね。竜児の好意を受け容れることかな。それじゃ大河にわるいよね。よし、私は大河と親友だし、大河のために一肌ぬごう。そして竜児は私にあこがれてるみたいだから、その理想を自分を実践してやろう。あ、そうすれば大河にも竜児にも私は素敵な感じになるじゃない。よし、それで行こう。‥みのりんの心理は、私の見るに、こんなとこかな。ただ私はそんなみのりんが好きじゃないから、彼女のことはあんまり精緻に読んでなくて、見落しはまちがいなくあるかも。彼女が重度の嘘つきだっていうのは、誤ってない事実であるって、それは思うけど。」
「嘘の深刻さ、ね。人というのは通常、対人的な嘘ばかりに気が向いているものだけれど、真に危機的なのは自分につく嘘のほうでしょう。なぜなら自分に嘘をつくことは表面上倫理的にはそれほど問題ないことと思われがちだけど、事実は対人的な嘘のほうが世間的には軽いものであり、自分につく嘘のほうが、その個人の人生の幸福の問題を考えた場合、当然、危機的なのよ。‥こういうとなんでしょうけど、みのりんは微妙に発狂してるようにも思えるかしらね。いや、ま、そうはっきりということでもないでしょうけど。」
「自分に嘘をついちゃうと、自我が肥大化しちゃうから、かな。‥他人のために何ごとかしてるのだーって意識がある場合‥みのりんについていえば大河の幸せのため、竜児へのいい格好のため‥自分がイニシアチブを握ってるって意識は、免れなくその個人に付随するものであって、それはすなわち真理は私にありという状態であり、それは自分の他者への影響力って権力を意識させ、ために自我は肥大する。ただ人というのは、そのみずからのつく嘘を信じつづけるってことには莫大なエネルギーがいるもので‥だって嘘は嘘なのだから、あなたの目の前の現実はそれを否定する方向に向うのだよね。だから微妙に発狂するわけ‥いずれ自滅の途に入る。‥みのりんは、だから、そうとう不味い領域に入っちゃってるかなって気がするし、彼女がそこまで他人に尽すって幻影に囚われちゃってるのは、惨めな現実を直視しえない自分の弱さに起因してることかなって、私は思う。‥もちろんその弱さがわるいなんて、私はいわないよ。弱さは弱さであって、それがその人の現実なら、私はこういうとこ弱いのだなって、思えばいいだけじゃない。それは私はみかんが好き、ピザがきらい、身長が低い、胸がない等々、そういうことと同じ次元の問題であって、現実はつらいけど、でも現実は現実であるというだけでない。虚飾のない自分というのはつらいというのは、わかる。でも、それが私なら、その私に慣れるしかないじゃない。嘘をつくみのりんは、私はきらい。嘘のうえには嘘を重ねるほかないのだから。騙す人は、騙しつづける地獄の牢獄から、逃れることは、できないのだから。そんなものは、プラトンパンチをくらへーだ。壊しちゃえ。」
「弱者は弱者で、いいのでないかしらということよね。愛されたいのに愛されない。愛したいのに拒絶される。ならそれがただのリアルということだけなのでしょう。それに悩むということは、私の今の行動が、現実に客観的に対処できてないというだけのことでしょう。なら、現実を見つめればいいだけでしょう。現実は、もしそれが打開策がないのなら、あきらめればいいだけなのよ。悩んでも解決できないなら、悩む必要なんてないし、その現実に慣れるということは、意義ある生存戦略なのよ。もしそれを逃げという人がいるのなら、いわせればいいでしょう。それが現実なのだし。逃げる現実があってもいいのよ。大方の人間は逃げるほかないのよ。そこに善悪は、ないのよ。」
『希望を持つことはやがて失望することである、だから失望の苦しみを味いたくない者は初めから希望を持たないのが宜い、といわれる。しかしながら、失われる希望というものは希望でなく、却って期待という如きものである。個々の内容の希望は失われることが多いであろう。しかも決して失われることのないものが本来の希望なのである。
たとえば失恋とは愛していないことであるか。もし彼或いは彼女がもはや全く愛していないとすれば、彼或いは彼女はもはや失恋の状態にあるのでなく既に他の状態に移っているのである。失望についても同じように考えることができるであろう。また実際、愛と希望との間には密接な関係がある。希望は愛によって生じ、愛は希望によって育てられる。
愛もまた運命ではないか。運命が必然として自己の力を現すとき、愛も必然に縛られなければならぬ。かような運命から解放されるためには愛は希望と結び附かなければならない。』
三木清「人生論ノート」
→竹宮ゆゆこ「とらドラ9!」
→人は強くなるべきなのだろうか?
「嘘の深刻さ、ね。人というのは通常、対人的な嘘ばかりに気が向いているものだけれど、真に危機的なのは自分につく嘘のほうでしょう。なぜなら自分に嘘をつくことは表面上倫理的にはそれほど問題ないことと思われがちだけど、事実は対人的な嘘のほうが世間的には軽いものであり、自分につく嘘のほうが、その個人の人生の幸福の問題を考えた場合、当然、危機的なのよ。‥こういうとなんでしょうけど、みのりんは微妙に発狂してるようにも思えるかしらね。いや、ま、そうはっきりということでもないでしょうけど。」
「自分に嘘をついちゃうと、自我が肥大化しちゃうから、かな。‥他人のために何ごとかしてるのだーって意識がある場合‥みのりんについていえば大河の幸せのため、竜児へのいい格好のため‥自分がイニシアチブを握ってるって意識は、免れなくその個人に付随するものであって、それはすなわち真理は私にありという状態であり、それは自分の他者への影響力って権力を意識させ、ために自我は肥大する。ただ人というのは、そのみずからのつく嘘を信じつづけるってことには莫大なエネルギーがいるもので‥だって嘘は嘘なのだから、あなたの目の前の現実はそれを否定する方向に向うのだよね。だから微妙に発狂するわけ‥いずれ自滅の途に入る。‥みのりんは、だから、そうとう不味い領域に入っちゃってるかなって気がするし、彼女がそこまで他人に尽すって幻影に囚われちゃってるのは、惨めな現実を直視しえない自分の弱さに起因してることかなって、私は思う。‥もちろんその弱さがわるいなんて、私はいわないよ。弱さは弱さであって、それがその人の現実なら、私はこういうとこ弱いのだなって、思えばいいだけじゃない。それは私はみかんが好き、ピザがきらい、身長が低い、胸がない等々、そういうことと同じ次元の問題であって、現実はつらいけど、でも現実は現実であるというだけでない。虚飾のない自分というのはつらいというのは、わかる。でも、それが私なら、その私に慣れるしかないじゃない。嘘をつくみのりんは、私はきらい。嘘のうえには嘘を重ねるほかないのだから。騙す人は、騙しつづける地獄の牢獄から、逃れることは、できないのだから。そんなものは、プラトンパンチをくらへーだ。壊しちゃえ。」
「弱者は弱者で、いいのでないかしらということよね。愛されたいのに愛されない。愛したいのに拒絶される。ならそれがただのリアルということだけなのでしょう。それに悩むということは、私の今の行動が、現実に客観的に対処できてないというだけのことでしょう。なら、現実を見つめればいいだけでしょう。現実は、もしそれが打開策がないのなら、あきらめればいいだけなのよ。悩んでも解決できないなら、悩む必要なんてないし、その現実に慣れるということは、意義ある生存戦略なのよ。もしそれを逃げという人がいるのなら、いわせればいいでしょう。それが現実なのだし。逃げる現実があってもいいのよ。大方の人間は逃げるほかないのよ。そこに善悪は、ないのよ。」
『希望を持つことはやがて失望することである、だから失望の苦しみを味いたくない者は初めから希望を持たないのが宜い、といわれる。しかしながら、失われる希望というものは希望でなく、却って期待という如きものである。個々の内容の希望は失われることが多いであろう。しかも決して失われることのないものが本来の希望なのである。
たとえば失恋とは愛していないことであるか。もし彼或いは彼女がもはや全く愛していないとすれば、彼或いは彼女はもはや失恋の状態にあるのでなく既に他の状態に移っているのである。失望についても同じように考えることができるであろう。また実際、愛と希望との間には密接な関係がある。希望は愛によって生じ、愛は希望によって育てられる。
愛もまた運命ではないか。運命が必然として自己の力を現すとき、愛も必然に縛られなければならぬ。かような運命から解放されるためには愛は希望と結び附かなければならない。』
三木清「人生論ノート」
→竹宮ゆゆこ「とらドラ9!」
→人は強くなるべきなのだろうか?