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2013/02/15

R.Dworkinが亡くなる

ツイッターなどで言及されていたが、アメリカの著名な法哲学者ロナルド・ドゥオーキンが亡くなった。81歳だった。

NYT: Ronald Dworkin, Scholar of the Law, Is Dead at 81

法哲学は難しいのだが、学生院生時代に聞いた講義ではドゥオーキンの名前にも言及され、その時に印象に残ったのが政策論法と原理論法という対比である。

政策論法 arguments of policy とは、社会全体の利益をいかに向上させるかということを判断基準として法解釈とか判決とかを正当化する論法を意味する。

原理論法 arguments of principle とは、個人や集団の権利・利益の尊重ということを判断基準として法解釈や判決を正当化する論法というのである。

私の持っているドゥオーキンの翻訳本『原理の問題』93頁には、彼の視点として次のように書かれている。

裁判所は政策ではなくて原理の決定---どうしたら一般の利益が最大に促進されるかに関する決定ではなく、我々の憲法体制の下で人々がいかなる権利を持つかに関する決定---を行うべきであり、これらの決定においては、政府は人々がを平等なものとして取り扱わなければならないという根本原理から出てくる実体的な代表制理論を展開し適用しなければならない。

後半はすこぶる難しい感じがするが、それはともかく、司法的決定すなわち裁判においては、政策論から導かれる法解釈よりも、憲法と法が認めた個々人の権利・利益の保護・尊重を重視した法解釈が優先されるべきとの基本的視点が示されている。

このことは、公害環境訴訟とか消費者訴訟などに直ちに関係してくるが、それだけでなく、紛争処理の手続論にも似た問題がある。
つまり、紛争解決という目標のもとで、当事者が妥協点を見出すことを優先するのか、それとも当事者の有する権利・利益を尊重し、それを蔑ろにしない、できればそれぞれの当事者の正当な権利・利益を承認した上で将来的なあり方を規定するような解決策を紡ぎだすような、そんな手続理念が必要だというわけである。

いわゆるナアナアの解決とか、足して二で割る和解・調停と、未来志向のWin-Winを実現する和解・調停との違いは、ここにあるように思われる。

ただ、現実の紛争解決過程では、事実関係に争いがあって先に進めないとか、相容れない権利同士のぶつかり合いとか、そんな中での合意による解決はどうしても無原則な妥協になりがちだし、相互に権利を承認した上での解決策と言ったって結果的には足して二で割る解決になってしまうとか、理念を形にするのはすこぶる困難である。
手続にかかる時間的コストも、解決に対する満足を左右するので、納得行くまでとことんというのが両当事者疲れて諦めるのを待つのと区別がつかないということもあり得る。

そういうわけで、25年前に受けた新鮮な感動が、現実生活の中ですっかり色あせてしまうような感じもするのだが、でも理念は大事だと、未だに思うのである。
ドゥオーキン教授の訃報を聞いて、改めてこのことを思った。

なお、ドゥオーキン教授の本は、いくつも翻訳されている。上に引用した『原理の問題』(森村進・鳥澤円訳、岩波書店・2012、原著1985)のほか、以下のようなものがある。

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