15/08/19(土)深夜、ツイッターのTLに衝撃的な画像が流れた。沖縄の辺野古で座り込みデモを続ける抗議者達を右翼が襲撃、テント等を滅茶苦茶に破壊したと云うのだ。現地の模様を実況するツイキャス映像では更に衝撃的な情報が伝えられた。警察に通報したのに、まるで取り合ってくれないと云うのだ。少なくとも数十人以上が目撃した筈だが、TLには「何故こんなことをするのか」と云う悲痛な叫びや、「刃物を持った男が暴れてるのに何故逮捕しないんだ!」と云う批判の声が溢れた。
翌日のメディアでこの事件を報じたところは殆ど無かった。真っ先に報じたのは沖縄の地元誌で、
沖縄タイムスと
琉球新報。全国メディアでは辛うじて
NHKと
朝日が報じた様だが、NHKは襲撃者が街宣車に乗っていたことには言及せず、単なる酔っ払いの犯行である様に報じている。また後の2つでは、警察が最初の通報を受けてから現場に駆け付けるまでに何と6時間以上も掛かったと云う点には一言も触れられていない。更に遅れた
時事通信では、何故か「ゲート前で警備していた警察官が騒動に気付き、駆け付けた」となっており、こちらも、それ以前に何度も通報が有ったことを報じていない。
今回の事件に対して重要な点は2つ。曲がりなりとも非暴力的な抗議行動に対して物理的な実力による攻撃が加えられたと云う点と、それを警察が故意に防がなかったと云う点だ。私の見る限りでは、前者の様な悪質な暴力行使も勿論問題だが、より重大なのは後者の方だ。警察と抗議市民達にはテントの設置等を巡って前々から緊張関係が続いていたことは周知の事実だが、若しそれが今回の出動の遅れに繋がったのであれば、これは明らかに警察の不作為であると言える。反日沖縄人の陰謀だとネトウヨはまた騒ぐかも知れないが、ネットで大勢が目撃していたことは先に述べた通り。器物破損と傷害の現行犯であって、現場で判断に迷う理由が有ろう筈も無く、対応に当たった警察官は公式に釈明をすべきだろう。テントの設置が違法であるかどうかも今回は全く関係が無い。テント撤去の警告が正当なものであるかと云う点については私は疑っているが、仮に相手が犯罪者であったとしても、「犯罪者に対しては犯罪を犯しても良い」などと云うルールは、この国のどんな法律を引っ繰り返してみても出て来ない。どんな主義主張が有ろうとも、暴力による言論の弾圧は厳重に禁じられるべきだ。
警察の故意の不作為は、右翼の犯罪よりももっと恐ろしい。警察が市民をその主義主張の如何に関わらず平等に遇しなければならないことは、憲法14条で国民の平等が宣言されている限り当然なのだが、その大原則が破られた、と云うことだ。先日大雨被害が出た際に、ネットでは「安保法制に反対する市民も救助するなんて、自衛隊は偉い」などと云う、安倍支持派による妄言が流れたが、その時は「何をバカなことを言っているんだ」と唯批判して切り捨てることが出来た。だが、若し日本国内の暴力装置や司法制度が、為政者を批判しているか否かで市民に対する処遇を変えたとしたら、これは実質的に治安維持法が施行されているも同然だ。警察や自衛隊が「どんな市民も平等に扱う」ことを「立派だ」とわざわざ褒めなければならない時代が来るとしたら、その時は日本は暗黒時代に突入したと云うことだ。隣国中国の言論弾圧を嗤う資格なぞ無い。為政者のみならず、末端の公務員や市民自らがその弾圧に加担する「空気」が蔓延する未来が、私には容易に想像出来る。これが杞憂なら良い。後から思い返して「心配し過ぎだったか」と苦笑すれば済む。だがこれが現実になった時のことを考えると、私は少なからず戦慄を禁じ得ない。
国会で強行採決されたばかりの(「採決」と呼んで良いのかさえ不明なのだが)安保法案も同じ様なものだ。「憲法守って国滅ぶ」と支持派は言うが、憲法はこの国の在り方を規定する根本的なルールであり、国の形、国の枠組み、大日本帝国風に言うなら「國體」だ。それがその時々の為政者の判断で如何様にも解釈出来ると云うのであれば、憲法の下に制定されているあらゆる法律も恣意的な運用が可能になる。詰まりは立憲国家、法治国家としての土台が揺らぐと云うことだ。これが意味することの恐ろしさを理解出来ない人が居るとすれば、余りにも無知、余りにも想像力不足であって、歴史から何も学んでおらず、平和ボケして正常な判断力が失われてしまっているとしか私には思えない。
ここで安倍氏の先例に倣って、バカにでも解る様に、これを日常生活に置き換えて説明してみよう。或る村の駐在所に勤務する警察官が、或る日突然こんなことを言い出したとする。
「皆聞いてくれ。最近世の中色々と物騒になって来て、いちいち法律なんか守ってたんじゃ間に合わねェ。これからは俺が法律だ。何が犯罪で、誰が犯罪者で、犯罪者をどう処罰するかは、その時の気分で、その場のノリで、俺が決めることにするから、宜しくな!」
これを聞いた村人達はどうするだろうか。彼等にまともな判断力が有れば、仮令その警察官がどれだけ個人的に親しい間柄で、個人としては「良い人」であったとしても、頼むからどうかそんなバカな真似はやめて正気に戻ってくれ、と必死になって懇願するだろう。第一その警察官には、そんなことをする権限も資格も与えらていないのだし、そんなことをして貰おうと思って村人達は彼に警察官でいて貰っている訳ではない。飽く迄既存のルールに従って、きちんと法律を守って、法律を破る者を取り締まる為に警察官でいて欲しいと思っている筈だ。
更にその警察官がこう付け加えたとしたらどうだろう。
「俺一人じゃあどうも心許ねぇから、隣町の大親分さんに話をつけて、『血の杯』を交わして来らァ。俺っちが親分さんに取り入って目を掛けて貰える様な働きをすりゃあ、この村も安泰ってもんよ。実は親分さんは今幾つかの組と抗争の真っ最中でな、迂闊に近付いたりしたら本当は危ねぇんだが、なァに、俺はしっかりしてるから、危なくなったらきっぱり断ってサッサと逃げて来らァ。何も心配は要らねェよ。」
村人達が直ぐ様彼を取り押さえて警察官の肩書きを剥奪しようとしなかったとしたら、それこそどうかしている。
法の恣意的な解釈や運用とはこう云うことだ。個々の解釈者や運用者の勝手なその場の判断で法が捩じ曲げられ得るとしたら、それは最早法ではない。その社会は法治社会から人治社会へと変貌したと云うことだ。今日本国と云う国で起こっていることはこう云うことだ。こうした状況に多少なりとも危機感を抱く人間が「平和ボケ」などと逆に罵られる状況は異常だ。日本国民の中には、グローバル化した21世紀の国際社会と云う現実よりも、時代劇や西部劇の中に住みたいと思っている者が大勢居ると云うことなのだろうか。
安保法案が無法に強行採決されてしまったことにされてしまった直後、南スーダンでのPKO活動に従事している自衛隊員に対し、武器の使用が大幅に緩和された。元々法的に問題の有った自衛隊を、場当たり的なPKO法案と云う法律で正当化して海外派遣を行うと云う無理を行って来たのがこの20年間の歩みだが、法的な不備が有るのを、現場の知恵と工夫で何とか穏便にやり過ごして来た、と云うのが実情だと聞く(イラクに派遣されたヒゲの隊長こと佐藤正久氏の様に、平和構築任務の何たるかを全く理解していない武闘派も中には居た様だが)。その一方で各地のPKO活動は益々武力行使の方向に傾きつつあり、現地の緊張感は20年前より格段に増しているとも聞く。そんな中で、自衛隊のPKO活動そのものの意義を問い直す作業もせず、「危険になったらしいからとにかく武器を使えるようにしよう」と云う発想で行われたのが今回の措置。武器を持ったその後、自衛隊員の誰かが殺されてしまった後や、自衛隊員が誰かを殺してしまった後のことについては殆ど想定しておらず、具体的な方針や対応に幾つもの問題を抱えた儘、必要な法整備を行っていないのが現状だ。
また、PKO活動は基本的に治外法権で行われるのだそうだ。現地の法は、派遣された部隊に対しては適用されない。沖縄に駐留している米軍と同じだ。「在日米軍裁判権放棄密約」により特権的に守られていた米兵が犯罪を犯しても起訴もされない、裁判にも掛けられない、と云う状況に対して、多くの沖縄県人は怒り心頭に達していた訳だが、その例からも解る様に、軍法を持たない非常識極まり無い武装組織である自衛隊が、若し現地で何かトラブルを起こした場合、ひとつ対応を間違えれば、現地での自衛隊の評判は一気に地に墜ちる可能性も有る。武器使用の緩和は、そのリスクを飛躍的に増大させる。その場凌ぎが出来れば任務は達成される訳ではない。任務の大義や法的正当性そのものが疑問視されれば、幾ら自衛隊員や他の国の兵士の生命が守れたとしても、任務としては意味が無くなる。何の為にわざわざ危険を冒して海外に派遣などさせたのか、と云う話になる。本当に自衛隊に他の「普通の国」の軍隊が陥っている様な泥沼に足を突っ込ませたいのであれば、自衛隊法と憲法第76条(第2項「特別裁判所は、これを設置することができない」)をそもそも改訂する必要が有る。安倍政権はそのことを検討しているだろうか。仮にやっているのであれば、武器使用の緩和を認める前に、厳密な法整備を行っておくべきだった。
市民が政治家に政治を丸投げする「お任せ民主主義」も大問題だが、政治家が穴だらけの法律の枠内で自衛隊を派遣し、「後は良きに計らえ」とばかりに丸投げする「お任せ自衛隊派遣」も問題だらけだ。法は現場判断だけで適当に解釈・運用して良いものではない。況してや、それ以前の立法作業を良い加減にやって良い筈が無い。今の安倍政権には、そうした意味で法一般に対する正常な畏敬の念や現実的な戦略的眼差しが決定的に欠如している。