承認中毒の日本人
2020/09/16(水)の呟きより。
日本人の親が子供に「犯罪者にはなるな」「刑務所に入る様な真似はするな」等と教え諭す時、それは「法を犯すな」「道徳的に間違ったことをするな」「正しいことをしろ」等と云う意味ではない。「お上に睨まれる様なことをするな」「村八分になる様なことをするな」「出る杭にはなるな」と云うことだ。
だから一旦権力構造が腐り始めると、堕落に歯止めが利かなくなる。「赤信号皆で渡れば怖くない」どころか、「皆が赤信号を渡っているのだから、自分も黙って渡るべきなのだ」となる。それが客観的に見て正しいかどうかは二次的な問題なのだ。
日本人は自分自身の良識や判断力を信じられない。常に周囲の顔色を窺って、大文字の「他者」の権威による承認を必要とする。そうした態度は、特に変化の激しい状況に在っては閉塞感や息苦しさ、対応能力の低下を齎すことが多い。
が、承認中毒状態のまま育って来た日本人には、他の可能性は考えられない。今まで浸って来た病の中に益々沈潜することこそ、正しい解法なのだと思い込む。異なる考え方、異なる生活態度、異なる生き方などと云うものは、「普通の日本人」にとっては道に外れた、嘆かわしい堕落以外のものではないのだ。
好むと好まざるとも関わらず、恐らくそれが日本人の置かれた正直な状況なのだ。それに対して憤ったり軽蔑してみたりしたところで事態の改善に繋がる可能性は低い。どの様な対応が正しいのか、誰も正解を知っている訳ではない。
だから「主体性を持たぬ奴隷根性の『普通の日本人』には関わるな。自分が傷付くだけだ。距離を取って放っておけ」と云うアドヴァイスが一定の説得力を持って響いて来る。「相手との共存が不可能なら黙殺しろ」………それが新たな分断を齎そうとも、他に解法を持たぬ者はその答えに縋るしか無い。
人類史上初の人口動態的大変容に加え、新自由主義的プロパガンダによって既に十分ズタズタに引き裂かれた社会に於て、自分達から新たな分断を作り出すこうした行為が、一時凌ぎとしてはともかく、長期的に見て持続可能な解法であるとは私には思えない。
だからと云って具体的な代替案が出せる訳でもないが、自己肯定感が低く、常に同調圧力の中で不安に苛まれ、心理的発達程度の低い層を一概に社会全体にとっての害悪だと切って捨てる様な行為については、私はジレンマを抱えずに考えることは出来ない。
日本人の親が子供に「犯罪者にはなるな」「刑務所に入る様な真似はするな」等と教え諭す時、それは「法を犯すな」「道徳的に間違ったことをするな」「正しいことをしろ」等と云う意味ではない。「お上に睨まれる様なことをするな」「村八分になる様なことをするな」「出る杭にはなるな」と云うことだ。
だから一旦権力構造が腐り始めると、堕落に歯止めが利かなくなる。「赤信号皆で渡れば怖くない」どころか、「皆が赤信号を渡っているのだから、自分も黙って渡るべきなのだ」となる。それが客観的に見て正しいかどうかは二次的な問題なのだ。
日本人は自分自身の良識や判断力を信じられない。常に周囲の顔色を窺って、大文字の「他者」の権威による承認を必要とする。そうした態度は、特に変化の激しい状況に在っては閉塞感や息苦しさ、対応能力の低下を齎すことが多い。
が、承認中毒状態のまま育って来た日本人には、他の可能性は考えられない。今まで浸って来た病の中に益々沈潜することこそ、正しい解法なのだと思い込む。異なる考え方、異なる生活態度、異なる生き方などと云うものは、「普通の日本人」にとっては道に外れた、嘆かわしい堕落以外のものではないのだ。
好むと好まざるとも関わらず、恐らくそれが日本人の置かれた正直な状況なのだ。それに対して憤ったり軽蔑してみたりしたところで事態の改善に繋がる可能性は低い。どの様な対応が正しいのか、誰も正解を知っている訳ではない。
だから「主体性を持たぬ奴隷根性の『普通の日本人』には関わるな。自分が傷付くだけだ。距離を取って放っておけ」と云うアドヴァイスが一定の説得力を持って響いて来る。「相手との共存が不可能なら黙殺しろ」………それが新たな分断を齎そうとも、他に解法を持たぬ者はその答えに縋るしか無い。
人類史上初の人口動態的大変容に加え、新自由主義的プロパガンダによって既に十分ズタズタに引き裂かれた社会に於て、自分達から新たな分断を作り出すこうした行為が、一時凌ぎとしてはともかく、長期的に見て持続可能な解法であるとは私には思えない。
だからと云って具体的な代替案が出せる訳でもないが、自己肯定感が低く、常に同調圧力の中で不安に苛まれ、心理的発達程度の低い層を一概に社会全体にとっての害悪だと切って捨てる様な行為については、私はジレンマを抱えずに考えることは出来ない。