「コンピュータサイエンスは終わった」。こう広言するコンピュータサイエンスの研究者がいる。国立情報学研究所(NII)の佐藤一郎教授だ。目ぼしい進展が見られない上、有望視されるクラウドコンピューティングの研究はクラウドを「持てる者」でないと困難だからだ。一方で、コンピュータサイエンスの研究成果は様々な分野に応用できると佐藤氏は主張する。(聞き手は、中田 敦=日経コンピュータ)
2008年後半から「コンピュータサイエンスは終わった」と明言しているそうですね。
コンピュータサイエンスが危機に陥っている証拠には事欠きません。バイオサイエンス(生命科学)と比べると、その差は歴然としています。バイオ分野では新しい実験装置や知見、医療技術、薬品が次々と登場しています。ところがコンピュータサイエンスではここ20年来、革新的と思われる技術が登場していません。
私のような30代後半の研究者が第一線にいること自体、コンピュータサイエンスの危機の表れです。進歩が速いバイオ分野でめざましい成果を挙げている研究者は皆20代です。30代の研究者は「ご隠居」扱いですよ。
そんなコンピュータサイエンスの中でも、クラウドコンピューティングを支えるスケールアウト型の分散システムだけは、技術に変化が起きているし、進歩が見て取れます。クラウドコンピューティングには、1990年代後半以降に開発された様々な技術が採用されています。今までの分散システムやOSとは異なる発想も取り入れられています。
実用レベルの技術開発には“現物”に触れることが不可欠
しかし、本当に先端の技術は、その技術の現物に触れている人でないと研究できません。論文を書くための研究なら、仮想化やシミュレーションを使えば何とかなるかもしれません。しかし、実際に使えるレベルの技術を開発するためには、現物を見て、現物の癖や特性を見極め、ノウハウを蓄積する必要があります。
つまり、何百万台ものコンピュータを連動させるスケールアウト型のクラウド技術で勝負しようと思ったら、米グーグル、米マイクロソフト、米アマゾン・ドット・コムにいる以外、研究のしようが無いのです。カーレーシングのテレビゲームでいくら一番になっても、実物のレーシングカーで一番にはなれません。軽自動車を改造して農道でいくらレースをしても、F1では勝てません。F1で勝とうと思ったら、F1にかかわらないといけないのです。
コンピュータサイエンスに残された研究の余地は、かなり狭くなるだろうと思っています。
クラウドコンピューティングをどのように見ていますか。
2002年6月に「コンピュータがティッシュペーパーになる時代とは」というインタビューを受けたことがあります。この時点では、コンピュータが安価になって誰もがジャブジャブと使える時代が来たときに、二つの方向が考えられました。一つは、ユーザーが自分のコンピュータを公開してユーザー同士でリソースを共有し合うピア・ツー・ピア(P2P)。もう一つは、一部の企業にコンピュータが集中する今のようなクラウドコンピューティングです。
結局、ユーザー同士がリソースを共有し合うP2Pは技術的に難しいことが分かり、コンピュータの集中が極限まで進むクラウドコンピューティングの時代がやってきました。コンピュータは公共財となり、皆で共有するようになるでしょう。
クラウドはデータ共有ができてこそ「本物」
もっとも現状のクラウドは「バブル」であり、まだ面白くないと感じています。バブルだから悪いと言っているのではありません。バブルのようなブームにならなければ、世の中は変わらないからです。
今はクラウドコンピューティングのサービス事業者が、不必要にインフラを拡大しすぎているのではないか。こう懸念しています。皆がクラウドコンピューティングを使い出す前に、ブームが弾けてしまう可能性もあります。
現在のクラウドのどこが面白くないのですか。
クラウドに様々なユーザーや企業のデータが集まっているのに、それを共有する機能が無いことです。今はセキュリティ上の懸念から、クラウド上のデータ共有を極力禁止しています。これはとてももったいないことです。
そもそも僕がクラウドのことを最初に「面白いかも」と思ったのは、クラウドが「ノイマン型」のアーキテクチャだからです。ノイマン型のアーキテクチャというのは、データとアプリケーションが同じ場所にあることを指します。例えば、商品の販売データをクラウドのアプリケーションを使って管理しているユーザーは、その生データをクラウドに置いているわけです。
企業の販売データは、多くの場合トップ・シークレットになっているでしょう。一方で、クラウドを使う企業同士であれば、こうしたデータは容易に共有できます。データを共有することで、新しいビジネスが生まれる可能性だってあるはずです。
生データが各企業のサーバーにある今のシステムでデータを共有しようと思っても、共有相手が本当のデータを見せているという確証が持てません。しかしクラウドでは、アプリケーションも同じ場所で動いているので、そのデータが本物だという担保もあります。
もしデータ共有を強く意識したクラウドが現れ始めたら、クラウドコンピューティングもいよいよ本物になるのではないかと思っています。
従来型のシステムとクラウドコンピューティングとのハイブリッドは、10~20年のスパンで続くでしょう。僕自身がクラウドの研究をするとしたら多分、クラウドと既存のシステムを接続する技術をテーマにします。既存システムとの連携は、大きな問題になるでしょう。