IPAのイベントで2008年5月28日に行われた学生とIT業界トップの公開対談を聞いていて,一瞬胸を衝かれた。IPA理事長で元NEC 代表取締役社長の西垣浩司氏のこの言葉を聞いたときのことだ。
コンピュータを作ることが本業ではなくなったメーカー
「数として欲しいのは,金融システムなど企業の大型システムに従事する人間。こういった領域では,個人の能力よりは業務ノウハウが重要。プログラマとして優秀であっても,業務を理解しないと,よいシステムができない。技術だけを評価して処遇することは企業としては難しい。天才プログラマのように技術を極めるのであればそれを生かす道に行くべきであって,企業に入って大型システムを開発するのはもったいないか,向いてない」(西垣氏)
必要とされているのは技術ではなく,プロジェクト・マネジメント能力や調整能力。求められているのはメーカーの人材像ではなく,ゼネコンやエンジニアリング会社のそれだ。もちろん日本の大手コンピュータ・メーカーにも研究開発部門はある。けれども,そこは多数派ではなく,企業全体の命運を握る部門ではない。なぜなら,いまでもサーバーやパソコンを作ってはいるが,ほとんどの機種のプロセッサやOSは欧米の企業などから調達した他社製品だからだ。ミドルウエアの大部分もそうだ。
西垣氏はNECの社長時代,元会長の関本忠弘氏と激しく対立しながら,NECホームエレクトロニクスの解散,本社ビルの売却,米子会社パッカードベルNECの撤退などドラスティックな改革を断行した経営者である。およそ調整型のトップではない。その言葉もオブラートに包むということのない直裁的なものだ。企業として,必要としている人材を本音で表現した発言なのだろう。誤解や幻想は解いておいたほうが学生にとっても企業にとっても幸せだ。
技術力とプロジェクト・マネジメント能力のどちらかが,他方より高尚だとか重要だということはあり得ない。どちらも社会を成立させ運営するために必要欠くべからざる大事なものだ。
ただ,NECもかつては紛れもないコンピュータ・メーカーだった。大型のメインフレームや中型のオフィス・コンピュータを,半導体からOSまで自社で開発し,生産していた。半導体事業は西垣改革で分社化された。「日本でOSやコンパイラを開発する機会が減り,外部から調達したものを使用するだけになっていっている」---元日立製作所 取締役 桑原洋氏がこう語っていたのを思い出した(関連記事)。我々はここ10年にわたってソフトウエアの使用と開発の自由を失ってきた,と桑原氏は言う(関連記事)。
記者は今まで多くの記事で何度も,無意識のうちに大手コンピュータ・メーカーという言葉を使い続けてきた。しかし,それはもう正しく実態を表してはいないのだ。
競争力,多重下請,信頼性,すべての根幹にあるもの
公開対談のあと,登壇した学生のひとりと話をした。一度就職して,大学院に戻った学生だ。対談では言わなかったことがあるという。「開発の現場は,派遣技術で成り立っている。彼ら派遣技術者が,IT業界のイメージを作っている」。それが現実だと。大企業の正社員に求められているのは派遣や下請けをうまくマネジメントすることだ。
昔,「行き詰ったプロジェクトを立て直す」というテーマで取材したときに,ある大手システム・インテグレータで聞いた話だ。そのインテグレータで,火を噴いたあるプロジェクトをどうリカバリしたかというと,「外注先にものすごく生産性の高いプログラマがひとりいて,そいつをカンヅメにして,わんこそばのように仕様書を次々と渡して一気に作らせた」のだという。それほど優秀なプログラマも,大手インテグレータにスカウトされたりはしなかった。大手の社員になるか下請けになるかは,新卒入社時に決まる身分制度のようなものだからだ。
公開対談の前日のことだが,経済産業省 商務情報政策局 情報処理振興課長の八尋俊英氏は講演で,日本の情報サービス業の収益性が低い原因は,受託開発中心の体質と多重下請け構造にあるとした。IPAの調査によれば,下請けの企業の労働生産性は元請けの58%しかない(関連記事)。
低収益体質だけではなく,システム障害の原因のひとつも,多重下請け構造にあると経産省は考えている。情報システムの信頼性向上のために経産省が行っているのが「取引慣行・契約適正化」だ。「多重下請けを契約から見直す」ことが,2007年秋の東証のトラブル後,経産省が力を入れている信頼性向上対策のひとつである。
多重下請けがシステムの品質に及ぼす影響は,今さら経産省に言われるまでもない,という方も多いだろう。発注元にモノが言えない下請け,伝言ゲームによってあいまいになる仕様,スキルが蓄積されない派遣技術者。それは技術者の労働時間を押し上げ,プロジェクトのマージンを奪い,さらに品質を引き下げていく。
ブレイクビーンズの桜井通開氏は,受託中心と多重下請けの原因は,どちらも日本の雇用規制にあると指摘する。解雇するための規制が厳しいため,ユーザー企業は短期間で技術が陳腐化するIT技術者を雇用するリスクを負えない。だから外注する。システム・インテグレータも雇用リスクを分散するため,社員を雇用するのではなく下請けに発注し,派遣技術者を使う(桜井氏のブログ)。
マイクロソフトの楠正憲氏は,日本のSI産業の競争力が低い原因も雇用流動性の低さにあると指摘している(楠氏のブログ)。解雇が比較的容易な米国では知識と経験のあるシステム責任者を社員として雇える。社員であれば,企業のプロセスをパッケージに合わせろと言える。だが,外注が発注元にパッケージに合わせろとは言えない。市場が拡大しないから日本では優れたパッケージ・ソフトウエアが育ちにくい。パッケージがSaaS(Software as a Service)になっても同じことだ。
国際競争力,多重下請け,就職先としての魅力の乏しさ。そのすべての根元に雇用流動性の問題がある。“日本的雇用慣行”と呼ばれてきたものだ。