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穴にハマったアリスたち

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(第50話/最終回)わんだふるぷりきゅあ!「ず~っとわんだふる!」

2025年01月26日 | わんだふるぷりきゅあ!
■(第50話/最終回)わんだふるぷりきゅあ!「ず~っとわんだふる!」

最終回を迎えました。今年も1年ありがとうございました。

ひとまずテーマは下記の解釈でいます。

『自分ではどうにもならない縁や不幸もある。だがそれを嘆くのではなく、その時までは楽しみ、いざ訪れたらその時に応じて次の一歩に進もう』

平たく言えば「日々の出会いを楽しもう」みたいな感じ。

例えば21話の「明日喧嘩するかもしれないからって、今日なかよくするのをやめちゃうのは寂しいよ」。
喧嘩しないとは約束しない。何が起きるか分からないから。だから今を楽しみ、その時が来たらその時に考える。

例えば悟くんの告白回。かなりのグダグダです。今の関係が壊れるのが怖いからとスカしていたのに、ライバルらしき人が現れたら大慌てで告白に走り、でもビビッて逃げ、結局は第三者から漏れ出てなし崩しで告白です。格好はつかないですが、案外「縁」とはそういうものです。

フクちゃんの死、映画でのタヌキとの別れ、オオカミの絶滅やガオウの犠牲、学校に一緒にいけないペット、元飼い主との別れ、具体的な夢がなく散歩していれば幸せな日々等々。
やむを得ぬ縁や不幸は現実に存在し、その中で日々を生きるしかない。

これを受け入れるのが「普通のワンダフル」だとの理解でいます。
普通とは平凡でつまらないことではなく、自然の摂理として受け入れること。
死は覆らない。喧嘩せずに、永遠不変にずっと仲良くもできない。

一方、これを受けれないのが「特別なワンダフル」。
代わりはいない。明日会えるとしても今会いたい。死を受け入れられず、蘇生を試みる。
必ずしも悪ではないけれど、歪と言えば歪。恋愛感情なんてその最たるもの。故に「特別」。

特別なので、大切なことも見失う。「ガオウはガルガルとしてずっと傍にいた」らしい。深く語られていませんが、ガオウも実は色々と恨みはあってガルガルしていた(他の動物をガルガルさせる根源になっていた)んでしょうか。結果的にスバルがその鬱屈を晴らすのを手伝い、プリキュアが徐々に浄化する流れになっていたのかも。
ただ本来なら、フクちゃんの時のお鶴さんと友人のように、ガルガルしているガオウに寄り添うのが、スバルにとって正解の道だったと思われます。

そしてこれらの複雑な感情を伝え合うには、言葉は大切。
言葉抜きでも伝わることはあるけれど、言葉があるならその方がより分かり合える。
上述のエピソードにも端々で言葉が関わっています。
言葉の行き違いで揉めたり、友人からの言葉で救われたりと様々なこともある。それが「ワンダフル」を彩っていく。

…みたいな解釈なら、1本で説明できるだろうか。

これが正しいかはともかく、主要エピソードと重要ワードを一つの線に乗せられていると思うので、以下はこの解釈を前提に書き進めます。

【逆風の1年】
1本の線で説明できるのだから、テーマは一貫しています。
謳っている事柄も、従来のプリキュアから逸脱していない。

※具体的には、はぐプリがかなり近い。
起きてしまった不幸を嘆き、自分自身を最も呪いながら暴走するのは、オシマイダーのロジックそのものです。クローバーやミデンやジョージとも同じ。
また、縁を重視する発想には、未来は人知ではどうにもならないという面も含まれる。「明日喧嘩するとしても」が典型ですが、犬飼さんはどこか達観していて時間の流れに逆らわないキャラクターにも見える。

ただ、振り返ってみれば確かに一貫してるのだけど、リアルタイム視聴しながらだと正直きつい。
制作サイドは全体構成を知ってて細部を出力しますが、視聴者は出力された細部から全体を予想するしかない。
人参とジャガイモと玉ねぎを炒めて水を入れたので、カレーだと思ってライスを持って身構えていたら、シチューが出来上がってました、みたいな。

特に最終回でも強調された「言葉」がシビアでした。
前述のとおりエピソードの多くに「言葉」が関わっていて、特に鏡石の逸話などから、「言葉のせいで誤解を招く」といった要素を強く感じていました。

しばしば批判されている「暑すぎてヤバい」の回も、帰りたがっているいろはを、こむぎが「大丈夫わん!」と説得してしまったが故に起きています。いろはの知識不足ではない。

熊ガルガルの探索の際の「山にはクジラは居ない」等も、かえって間違っている。
ガルガルは生息域や元のサイズを無視して出現してるので、山にクジラがいたり、デカいネズミがいる可能性もあったのに、なまじ言葉で推理をしたせいで迷走しています。

公式サイトの「おうちのかたへ」の一文、

『現実世界では、動物と人間は言葉を交わし合うことはできませんが、
大事なのは、相手のことを知ろうと努力すること。』

からも、言葉を話せることは相互理解の本質ではないように受け取っていました。
なかなか内面が見えない犬飼さんや、喋らない大福の存在もあって、言葉の功罪の話かと思い込んでいた。
そこに更に「でもそれってプリキュアらしくないな…?」のような疑問も加わり、勝手に混乱していました。
公式は悪くない。

…悪くはないのだけど、動物モチーフであることを思うと、逆風になったよなというのが正直な感想。

動物モチーフに魅力を感じる人ほど、動物と人との絆とか、対等な関係とかを期待したと思います。
が、結果的にそうはならず、むしろ地雷を踏み抜くかのような展開に進んでしまった。
繰り返しますが、公式は悪くはない。けど逆風ではあったろうなと思う。

【制約の1年】 
謎のノルマや制約に縛られ、四苦八苦してるなという印象を受け続けました。
代表格はバトルと兎組。

「戦わない作風」とも呼ばれていますが、実際のところ戦っています。
逆に従来のシリーズも、戦っていないことは結構ある。

例えば「GoGo」のファイブdeチャンス。戦っていません。
ヤカンを持ったキリンホシイナーと交戦した夢原さんは、攻撃を繰り出さず回避するだけ。
「キリンの弱点は足だ!足を狙え!」とバリアを叩き込んで転倒させる、わんぷりさんの方がよっぽど戦ってる。

他にも百人一首対決(ドキプリ)、スポーツ対決(フレプリ、ハピチャ等)、クイズ対決(スマプリ、GoGo等)、鬼さんこちら(スマプリ)などなど。
「動きを止める攻撃をしてくる敵の後方からそっと近づいてボタンを押す」(ドキプリ)のようなのもある。
これらの回は人気で評判も高い回ですから、わんぷりさんが本当に「戦わない作風」を目指すのなら、もっと積極的にやっても良かったと思う。

ただ考え方が逆なのかとも思います。現場としてはバトルをやりたかったので、いかにして制約をかいくぐるかを念頭に進めたとか。

「戦わない」意識は特にはなく、プリアラのように制約内で戦い、隙あらば打撃もねじ込もうとしたのかも。
ニャミーのバトルや、ザクロの蹴り、ムジナを踏み抜いて攻撃等は、プリアラ映画のシエルの頭突きみたいなノリだったのかもしれない。
(ギャグに突っ込むのも野暮ですが、大福の飛び蹴りや蟹江さんの乱打も、その一環かも?)

他、戦闘に付随する決意表明(敵の主張に啖呵を切るやつ)などのお約束も、敵幹部とのやり取りがないだけで「動物を助けなきゃ!」と頻繁にやっています。従来と大きくは変わらず。幹部がいない分、変化に乏しくなってしまったように思えます。

兎組についてはシンプルに不可解で、不可解なことが真相なのかとすら思う。
「とにかく出せ」とどこかから出た指示に現場が抵抗したのか、逆に現場は出したかったけど上が止めたのか。
明らかに優遇されて出番も多いのに、肝心要のところでは外してきます。
取ってつけたような変身も、ファンサービスなら何故「プリキュアになれた…!」の一言を入れないのか。入れられないのなら何故変身させたのか。
最終回でも、プリキュア4人とは発言のタイミングをずらしていて、妙に丁寧に線を引いています。
詳細は分かりませんが、苦労されたんだろうなと勝手に思ってる。

【出会いと別れ】
最終回の今回。展開の仕方に不思議な印象を受けました。
前回で解決済に思えるガオウパートをあえて入れる。
急に沸いてきた別れのエピソードと、即行での再会。特にこちらは前作でもやってるので二番煎じ感すら漂う。

オールスターズに出す必要があるから…とは思わない。
他シリーズでは別れのまま終わるものも多数あります。
それに別れが問題になるなら、別れずにそのまま進めれば良いだけ。

それでもこうなった理由を考えると、こむぎ達がヒトの姿になれないような描写を入れる必要があったかのかもしれない。
テーマや展開上、「喋れる方が良い」となってしまうけど、現実のペットは喋れない。
ただもうここはどうしようもないので、せめて人化だけは剥奪しておいて、現実とのバランスを取ろうとしたとか?

なんとも分かりませんが、わんぷりさんはとにかくこの手の「やらないといけないからやる」「やってはダメだから避ける」のような制約を感じまくりました。
妙に期待されていた元飼い主話や寿命問題などもそれ。

アニメ誌のインタビューで「やりたいネタはまだまだ沢山あった」といったコメントが載っていましたが、ノルマで雁字搦めで自由に動かせなかったのではと邪推したくもなる。

【お気持ちのまとめ】
色々書きましたが、不平不満というより「大変だったんだろうな…」との気持ちが強いシリーズでした。
終わってみれば、派手に従来の型を破ったのではなく、従来のコンセプトに沿って軟着陸したような印象です。

最初期の視聴者は現在20代の後半。結婚やキャリアについて決断を悩む時期です。
どうにもならない縁と、それを活かしていくというテーマは、ちょうど噛み合ってるようにも思う。

異色作(と見せかけて従来の着地をしているという意味で異色作)なので、来年のキミプリさんの方向性を見た上で、結末を知った状態で最初からまた視聴すると、印象が大きく変わりそう。いつかまた再視聴したいです。
改めて1年間、ありがとうございました。

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(第49話)わんだふるぷりきゅあ!「あなたの声」

2025年01月24日 | わんだふるぷりきゅあ!
■(第49話)わんだふるぷりきゅあ!「あなたの声」

ガオウ様改めスバルさん、自爆なさる。

前回「町を森にしたので、満足して勝手に成仏するんじゃなかろうか」と戯言をほざいたものですが、正解は「勝手に自己嫌悪して自爆」でした。より性質が悪い。

人間のせいでオオカミが絶滅した。
人間のせいでガオウが死んだ。
人間のせいでオオカミの縄張りが失われた。

だけど恨みの根っこは自分。ガオウが死んだ直接の原因は、自分を庇ったこと。強烈な後悔。

フレンディを庇ったワンダフルの姿を見て、その時のことを思い出して嘆く流れは構成としては分かる。
単に「傷ついた」ではなく、「庇って傷ついた」が重要なので、今この時にフラッシュバックするのはおかしくない。

その後、ガオウがスバルを恨んでいないことを伝えるのがワンダフルなのも綺麗に収まってる。
ガオウだけでは優しい嘘をついている可能性を拭えないので、同じ行動をしたワンダフルからの言葉に意味がある。

そういったわけで、ワンダフルが主役の面目躍如ではあったのですが、「こうするしかないのでこうした」感が受けたのも本音。
殴ったり蹴ったりできないから自爆させるしかない。そのあたりの結論から組み立てたかのような。

「動物は人間より下である」というスタンスは、気にする人は気にするだろうなと思いました。
というか動物モチーフに魅力を感じて期待していた人からのウケは悪そうで、何のためのモチーフ採用だったのかとも思う…。

考えてもみれば、一方的に保護するスタイルなので、上下関係ができてしまう。人間様の方が強くて偉いという前提ありき。
動物は人間のことが大好きで、最終的にヒトの姿になろうとする。

「庇って傷つく」がスバルに刺さるのなら、「ワンダフルがフレンディを庇う」だけでなく、「ガルガルを救おうとして(庇って)傷つくフレンディ」等々も強調すれば、対等な関係に見えたのかも。
ただ、映画やデート回等の動物側の健気さを思うと、対等ではないのは意識してのことなのかな。

【兎組】
最後の最後まで話題になり続けた悟くんたち。

今回変身しましたが、最初の感想としては映画の時と同じ。
その気になれば問題なく「プリキュアである」と示せたのに、描写はカット。その後に発表されたグッズでも「変身ver」表記。
明言はしないが、明言しないというその姿勢が、そのまんま「プリキュアではない」をわざわざ物語っています。

展開的には変身の必然がなく、素直に見るならファンサービスです。が、サービスなら何で「僕もついにプリキュアに!」の一言を避けるのか。
公式側の思惑が透けてしまい、正直ちょっと居た堪れない。変身しなければ、その辺ボカされてたのに。
インタビューなどで「プリキュアだと思っています!」とか「実はキュア〇〇と呼んでいて…」などが出たとしても、本編での描写を避けた以上はリップサービスを疑うしかない。

物語的にも、悟くんのキャラクターが「無力を嘆く」が中心になってしまいました。
プリキュアとは異なる形で貢献する、歴代でいえばゴープリの七瀬さんを、より積極的に戦闘に参加するポジションにしたイメージでいました。
ですが無力を悩むことを中心に持ってくるなら、ハピチャの誠司くんの方が近い。

誠司くんは愛乃さんの力になりたくて空手を学び、一介の学生としてはかなりの力を持っています。
プリキュアには及ばなくても、彼が体を張ったおかげで命拾いをしたことも幾度かある。
また、怪我の治療等々、「サポートが俺の役目だから」と本人も明確に口にし、積極的に動いています。彼は非常に活躍している。
でも愛乃さんの失恋等々もあって、己の無力に悩みもした。
そこをレッドに突かれて「変身」し、プリキュアたちが向き合う…というのがハピチャの最終決戦前夜。

これと比べると(本来比べるのは変ではあるのですが)、2話に渡って描かれ、強化フォームのプリキュアを圧倒し、悩みを受け止めてもらった誠司くんに対し、悟くんは彼女の犬飼さんにすら悩みを認識されていません。
大福だけが知っている…というのはそれはそれで良い話な気もしなくはないのですが、大々的に打ち出した特別なワンダフルを思うと、妙な感じがする。

※誠司くんと比べてどちらが格上格下、優遇不遇といいたいのではなく、「悩みが中心のキャラなのに、その悩みにプリキュアが向き合っていない」点を気にしています。

残る1話でしっかりとそこを扱う可能性もあるので、とりあえずは待とう。何か今年1年、ずっとこれ言ってるような。

立ち位置としては、

悟=スバル
いろは=ガオウ
こむぎ=トラメ達

とも言えます。
プリキュア(オオカミ)の集団に混ざる人間。フィジカル面では劣るが、知識でサポート。だけど彼の目の前で傷ついて倒れる。自分は戦いに直接の参加はできない。

スバルの望み(オオカミと並んで過ごすこと)を、悟くんが変身により実現できたとも言える。いろは達も互いに「一緒にいたくてプリキュアになった」と述べており、整合性もある。プリキュアとは、異なる存在と共に過ごすことを可能にする概念。
ただ劇中の描写では、悟くんとスバルの絡みはなし。それをやっちゃうと主役が悟くんになりかねないので、意図して避けたようにも思う。

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(第48話)わんだふるぷりきゅあ!「ガオウの友達」

2025年01月17日 | わんだふるぷりきゅあ!
■(第48話)わんだふるぷりきゅあ!「ガオウの友達」

オオカミの群れが襲ってきました。そして鎮圧しました。
蹴りかかってきたザクロさんも、なんやかやで懐柔しました。
これで残るはガオウひとり…なのですが、町は森に沈みました。

ガオウの正体はスバルでした。成りすましていたらしい。なんでそんなことを。

スバルはガオウ以外のオオカミにも受け入れられていたようですから、素直にスバルのままでも協力してくれそうです。
協力というか、そもそもの発端はオオカミなんだし。

ガオウの体を奪ったかのような形になってしまって、気まずかったんだろうか。それはそれで、黙ってると心証は最悪です。

困ったことに、特にザクロは露骨に好意をガオウに向けています。
彼女は正体がスバルだと知っていたようなので、あの好意がガオウとスバルのどちらに向けたものなのかは分からない。

ザクロたちが人間の姿をしていたのも、スバルの趣味なのか、ザクロたちが気を利かせたのか分からない。
前者だとすると「群れの長の名前を騙った人間が、メスオオカミを人間の姿にして侍らせていた」わけで、その気はなかったとしても随分とエグイ。

しきりに「オオカミの無念を晴らす」と燃えておられましたが、当のオオカミはそうでもなく。
恨みはあるでしょうけど、スバルを心配する気持ちの方が強そう。

以前のインタビュー記事で「動物の気持ちはどこまでいっても想像することしかできない」といったことが語られていました。
今回もまさにそれで、スバルはオオカミの気持ちを取り違えている。
部外者のワンダフルさんたちからすれば「そっちで勝手にやっててくれ」とでも言いたくなりそうな展開(想像することしかできない)ですけど、誤解自体は当初から想定されたテーマっぽい。

スバル(が奪ったニコ様)の力は、世界を作る力。
そこはかとなく映画のゲーム世界を連想します。

スバル=ナツキ=いろは?
ガオウ=ムジナ=こむぎ?

スバルはガオウを思って森の世界を作った。
ナツキはムジナ(タヌキ)を思ってゲーム世界を作った。

ムジナは己の想いを伝えるために、ナツキの元に走った。
ではガオウもそうか。

執着していたのは、映画ではムジナの方で、本編ではスバルの方。
動物パターンと人間パターンを行って、それぞれの顛末を描く感じかしら。
ただそうすると、ムジナとの対比でこむぎが描かれたように、スバルとの対比はいろはになりそう。
主人公はこむぎですから、スバルへの回答はこむぎが担当して欲しい。というかそれぐらいはやらないと、主人公としての立つ瀬がない。

良くも悪くも、スバルの言い分には何も譲歩する余地がないため、あちらが納得しないなら殲滅するしかありません。
そして納得する材料を持ってるのはオオカミだけと思われるので、プリキュア側はやることがない。
とりあえずザクロだか真ガオウだかがスバルを説得するのを遠巻きに見て、決裂したらキズナシャワーを叩き込もう。

ここまで他人事の最終決戦も珍しい…とも思ったのですが、そういえばトロプリも実質終わってる戦いを引きずってた。
デパプリ、ひろプリも人間サイドは割と無関係です。もしかして何か拘ってるポイントがあったりするのかしら。

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(第47話)わんだふるぷりきゅあ!「あけましてガオウ」

2025年01月05日 | わんだふるぷりきゅあ!
■(第47話)わんだふるぷりきゅあ!「あけましてガオウ」

年が明けました。そしてガオウ様が狼ガルガルを率いて襲ってきました。
先日のハロウィン回では丸くなっていらっしゃったようにも思うのですが、年末に何か嫌なことでもあったらしい。

逆に、急に丸くなったザクロさんが止めるものの、ガオウ様はぷんすか怒りながら進軍開始。
かくして初詣の帰り道という緊迫感も特別感もない所で、最終決戦が始まりました。以下、次回。

率直なところ、決戦前にしてはどうにも盛り上がりには欠けます。

第一に、これはわんぷりさんのせいではないですが、まほプリ2やキミプリの話題が強すぎます。
先週はお休みでしたし、何かもう店じまいの空気が漂ってる。来週からは、まほプリ2の後の放送ですからどうしても印象が薄れそう…。

また、現時点で特には物語上のポイントが残ってないのも辛い。
「もうすぐ終わってしまう。寂しい」とロスを嘆く声は聞こえど、今後の物語への注目はいまいち上がってない感じがします。

実際問題ガオウ様の悩みは今更どうしようもなく、犬飼さんらの手札も限られているので、「何か過去の真相が語られて、何か語って納得するんだろうな」で止まってしまう。
従来なら大きな目玉になるはずの、ラストバトルの大盛り上がりにも期待できず。それがないので最終回での後日談も、要は今と同じことをするだけでは?の微妙な感じ。もしくは例によって結婚式か葬式に『期待』されるぐらい?

今作は戦わない作風が特徴的でしたが、現時点まででいえば失敗だったように思えます。
「戦わない」と「戦えない」は違うし、「戦わなくても面白い」と「戦った方が面白い」も違う。

フレンディ達も何だかんだで戦っている(でかい動物の攻撃を至近のバリアで防ぐのは、普通に「バトル」です)ので、意欲的な挑戦というより殴る蹴るを封じられたハンデ戦に見えてるのがもったいなかった。
普段は徹底して戦わない(追いかけっこや落石から守るとかを中心にする)、ここぞという時は激しく戦うのように、緩急つけてた方が「戦わない」作風は生きたと思う。
最も戦っているニャミーが一番人気なあたり、この作風がお子様に歓迎されたのかも疑問。

ですのでラストバトルは戦って欲しいなと期待しています。一応予告では、ザクロさんは格闘しているっぽい。

あとこの最終盤でまで「取り巻く人々」の紹介で1話を使うのは、贅沢な展開だと思った。
猫屋敷さんの転入回の頃から、何度やったか分からない紹介話。前振りの導入部だけで1年が終わってしまった感がしてならない。
ついでに悟君の彼女設定もどこかに消えており、辛うじてマフラーに見いだせはするものの、特には関与してきません。
「大熊さんが猫屋敷さんに電話する(犬飼さんではなく)」等、世界の広がり的なものもあるにはあるのですが、過ぎ去った1年の時間が寂しい物がある。

※蛇足:わんぷりさんは丁寧な作風とも言われますが、フクちゃんを亡くしたお鶴さんに「あけましておめでとう」を言ってしまうあたり、ペットモチーフとしては痛恨のミスだと思う。マフラーとかの気配りしてるだけに、そこをもう忘れるんだとガッカリ感はある。

お鶴さん自身が年始の活動をして、甘酒をふるまってはいるものの、犬飼さんの挨拶を「今年もよろしくお願いします」に置き換えるだけで引き締まったのに。

あえて「あけましておめでとう」を言うことで、前向きな姿勢を表現した…の解釈は苦しい。冠婚葬祭の配慮って、(お鶴さん側がやるならまだしも)そういう余地はない。

【来年のプリキュアさん】
「キミとアイドルプリキュア♪」さん。これまで避けてきたアイドルモチーフです。

避けてきた理由は色々ありそうですが、テーマ的には「アイドルとファン」という明確な組み分けが問題なのかなと思っていました。
が、キミプリさんは初手から「推し活」「ファンサ」を前面に出してきました。

幼児視聴者が推し活をする、というのは違和感があります。お子様はファンになりたいのではなく、アイドル(プリキュア)になりたいのでは?
「プリキュアになりきった子供」を「保護者が推し活して、ファンサに喜ぶ」みたいなイメージなんだろうか。
「キミ」という表現がちょっと奇妙な使い方をされているので、何か仕掛けはありそうに思えます。

参考までに、アイドルプリキュアの一人であるドキプリのまこぴーは、「この世界の人は一緒に唄いたがる。不思議だった」と語っています。
ドキプリの「幸せの王子を見上げているだけだった町の人々が、自分たちも立ち上がる」を反映した名セリフです。
(元は声優のオーディション時の題材で、1話で使われる予定だったものを、最終回に移動したらしい)

はぐプリのツインラブも、観客が立ち上がることを想定している。
だからといって皆がアイドルになるというのも変な気がするので、歌を聴いてやる気を出した人のおかげで社会が回って私も唄える…とかそういう流れかしら。
応援が力になるといった精神的なことだけでなく、お弁当屋さんが立ち直ったから今日も美味しいご飯が食べられるとか、そういうの。

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(第46話)わんだふるぷりきゅあ!「メェェェリィクリスマス!」

2024年12月22日 | わんだふるぷりきゅあ!
■(第46話)わんだふるぷりきゅあ!「メェェェリィクリスマス!」

ユキさんのまとめ回。美しかった。かつての寒い雪の日からの変化。今ちょうど冬で、クリスマスのイメージにも合う。
そして「猫屋敷回だろう。紡いで云々でザクロとガオウ様の間を取り持つ的なことをするんだろう。ただそれだとユキの出番がないな」と思い込んでいたので、素直に脱帽。

「特別なワンダフル」は、悪く言えば執着・妄信・依存・過保護等々。普通ではない状態なので、美しい面もあれば、醜い面もある。
ユキの猫屋敷さんへの感情はおそらくは特ワ。猫屋敷さんのためなら世界の全てを敵視もする。
それがいつの間にやら、猫屋敷さんがピンチになっても犬飼さんに信頼して任せ、自分は他のやるべきことをやるように。

この状態をザクロさんのそれと重ね、世界には他者が多数いることに目を向けさせる。共通の想いを足掛かりにするのは綺麗。
残念ながらザクロさんは撤退なされましたが、もしも「クリスマス会には、ガオウも一緒に」の一言があったなら、終戦してたような気すらする。

【もう一つの特ワ】
悟くんとその彼女は、今日も今日とて特ワをなさってた。
そして今日も今日とて不可解なことに、2人だけのプレゼントの贈り合いを何故か皆の前でなし崩しで行ってる。

告白の時。悟くんはヘタレたのに、メエメエのお漏らしにより結果的に上手く行きました。皆の目の前で。
今回も雰囲気づくりを悩んでいる内に、犬飼さんの方からズカズカやってきて、結果的に上手く行きました。皆の目の前で。

意味を見出すとしたら、普通のワンダフルからの逸脱を抑止するため…とかかな。
ユキ→まゆや、ザクロ→ガオウ(おそらくはガオウ→スバルも)は、否定的な側面が描かれています。
犬飼さんと悟くんがそうならないように、普通のワンダフルである周囲との繋がりを強調しているのかもしれない。

また、いつの間にかこむぎも特ワを認識して応援し(どのような理解してるのかは不明)、なんと犬飼さんとは別行動を積極的に取っています。
きっかけはデートから引き離され、ユキ達に拉致られたあたりと思われる。あれは気の毒とはいえば気の毒でしたが、結果としてこむぎの世界は広がった。
犬飼さんが特別なワンダフルにかまけてくれたおかげで、こむぎの普通のワンダフルが豊かになった(そしていつかは特別なワンダフルに巡り合うのかもしれない)。
親離れと子離れとも言えそう。

ユキの視点で見ても、こむぎとの距離が明確に縮まったのは、そのデートの一件じゃなかろうか。もしくは映画。
主たる目的は別のところにあったけど、新しい関係性が深まった。ニコ様が口にする「縁」そのものに思える。

上述の悟くんのなし崩しイベントも、「縁」を重視しているからなのかも。
映画での公園の工事等々、ある日突然思いもかけぬことが起きる。
その出来事の善悪はともかく、変化を良い方に活かしていけるのか?とかそういったことだろうか。
それこそ、死や絶滅のような究極的な別れが起きた場合も含めて。

こむぎは飼い犬なので、ご主人不在で世界を広げる必要があるんだろうか?は疑問ではあるけど、動物仲間との輪であれば、それほど不自然ではないかな。
ふと気が付いたら猫屋敷さんが一人なのは、何かどうにかなるのかしら。いや旧友とかいるし、クラスでも活躍なさってるようですけど。というかだから猫屋敷さんの交友関係の描写が多かったのかも。

あと年内最後がまさかの蟹江さんでした。意表を突かれすぎて、記憶が一瞬全部とんだ。

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(第45話)わんだふるぷりきゅあ!「ずっとずっと友達」

2024年12月19日 | わんだふるぷりきゅあ!
■(第45話)わんだふるぷりきゅあ!「ずっとずっと友達」

犬飼さんの総まとめ回(おそらく)。
ここに至るまで色々あったけど、終わってみればそこまで変なことにはなっていなかったのかもしれない。

今回、犬飼さんは一人思い悩んでいました。
まず大事な点として、「こむぎの死を予感して悩んでいるのではない」は強調しておきたい。
そのような言及は劇中で出てきていません。

可能性として推察することは可能ですが、劇中人物の視点でいえば「フクちゃんの死を悲しんでいる」が第一でしょう。
犬飼さんとフクちゃんは幼馴染のようなものですから、まずは何よりフクちゃんの死が犬飼さんにとっては重要です。
こむぎは現時点で元気なんですから、幼馴染の死をほったらかして、こむぎのことを気にするのは奇妙です。犬飼さんのキャラとしても納得しがたい。

その上で、悲しんでいるお鶴さんが、友人たちの寄り添いで立ち直ろうと前を向いていることを犬飼さんは知ります。
フクちゃんの死が覆るわけではない。友人が直接何かをできるのでもない。
それでも共にいてくれるだけで、何某かの力になる。

犬飼さんは気づく。親しくなれば、相手にとって救いになる。
だからトラメとも遊ぶ。

今までも彼女は他者と仲良くしたがっていました。
こむぎも、悟くんも、猫屋敷さんも、それで救われた。
犬飼さん自身は「救ってやろう」と大上段に構えて親しくしていたのではなく、「一緒だとワンダフルだから」というそれだけでしょう。

ですが今回、自覚した。親しくなれば、相手にとって救いになる。

犬飼さんに対する批評として「何で仲良くしようとするのか分からない」といったものを見かけましたが、それへの直接のアンサー。
行動そのものは以前と変わらなくても、自覚して行っているかは大きな違い。故に、犬飼さんの成長としても上手く着地しています。

(付け加えると「獣医の娘なのに今まで死を知らなかったのか」についても、「フクちゃんの死を悲しんでいる(こむぎの死の予感ではない)」のなら解決します。死を知っていても、実際に亡くなったら悲しい)

振り返ってみれば、犬飼さんは内面がよく分からなかった。
何か仕掛けがあると思い続けていましたが、「無自覚に行ってきたことを自覚する」という流れだったっぽい。

「私が仲良くしてあげれば、あなたは救われるよ」はかなり傲慢とも言える思想ですから、最初から言語化するのはまずい。
なのでここに至るまでに、こむぎ達が犬飼さんに救われた描写を見せる。犬飼さんも恩着せがましく狙って仲良くしていたわけでもない。無自覚にやってきた体裁で、いろはが他者と仲良くしたがるのは当然であると、見せ続ける必要があったのかもしれない。

こむぎは以前「絶滅」のことを「友達がいなくなる」と表現していました。
一般的な意味でいえばかなり不自然な表現ですが、今回の話とは整合が取れています。
プリキュア能力を「こむぎと共に走れる」「トラメと仲良くできる」に置き換えたのも、序盤への回帰的に上手い。

強いて言えば、犬飼さんが主役に見える展開なのが気がかりですが、ザクロを猫組が沈めるのであれば、幹部の枝払いをサブキュアがやっていく展開なのかもしれない。
ガオウ様をきちんとこむぎが解決するなら、それほど違和感はないと思う。

作戦会議の場面で、悟くんも猫屋敷さんも「ペットが傍にいればそれだけで救われる」を回答にしています。
ラストシーンの「こむぎ達がいるだけで救われる」はペットモチーフとしても真っ当な決着だと思います。何か具体的な役に立つから救われるのではなく、ただ居てくれるだけで救われる。綺麗に着地したと思う。

…のだけど、ノイズとミスリードが凄まじい。
最初に書いたように、犬飼さんの悩みは「こむぎの死の予感」ではない。
もしそれを悩んでいたのだとすると、幼馴染のフクちゃんの死がダシにされているし、お鶴さんや悟くん・猫屋敷さんと繋がりません。トラメにいたっては、「動物だからすぐ死ぬかもしれないけど、今は仲良くしたい」となってしまい、不可解なことになる。

トラメは絶滅(=友達がいなくなること)を悲しんでいる。
いろははフクちゃんの死を悲しんでいる。

いろはは、こむぎや悟くんたちの存在に救われた。
トラメも、友達がいれば救われるのではないか。

この方が綺麗に収まると思う。こむぎの寿命は直接の関係はない。

とはいえ制作サイドは、ミスリードされても構わない。どころか意図的にそうさせようとしている気配すら感じます。
もちろん私が間違ってる可能性もありますが、どうにも落ち着かない。

それもこれも原因の一つは、「死」の描写を避けてるせいだと思う。私らが見れば「ああ、フクちゃんは亡くなったんだな」と分かりますが、直接的な「死」の表現はない。「お墓」ではなく「供養塔」と表現するなど、普段なら分かりやすさを重視するのに、子供には難しい表現を使っています。犬飼さんの悩みもぼかされている。
分かる人だけ分かれの方針も悪いとまでは思いませんが、犬飼さんの総決算で彼女のキャラクターに大きく関わる部分が、ミスリードによって激変してしまうのは切ないものがある(繰り返しますが、私が間違ってる可能性も大いにある)。

【特ワと普ワ】
物議を醸した「特別なワンダフル」と「普通のワンダフル」について。

ひとまず今の理解としては、普通のワンダフルとは「自然の摂理に従った別れを許容する関係」かなと思ってます。
フクちゃんは自分より先に死ぬ。お鶴さんや犬飼父母も、先に死ぬ。
悲しいことだけど、寿命による順番です。自然の摂理として受け入れる。

一方で特別なワンダフルは「摂理を捻じ曲げてでも一緒にいたい関係」。
美しいとも言えるし、醜いとも言える。死んでも反魂だか暗黒蘇生術だかで復活を試みるような感じ。
スバルとガオウはおそらくはこれで、執着のあまりオオカミ一族(普通のワンダフル)を絶滅させてしまうような悲劇を招いたのではないかなと。

「明日喧嘩するとしても今日仲良くしないのは寂しい」(普通のワンダフル。いずれ起きる喧嘩を受け入れている)や、「離れたくない」(特別なワンダフル)などの描写と合致。映画のムジナの行動も説明できる。

この解釈ならどうにか、特ワ普ワも許容できる…と思いたい。

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(第44話)わんだふるぷりきゅあ!「たくさんの幸せ」

2024年12月08日 | わんだふるぷりきゅあ!
■(第44話)わんだふるぷりきゅあ!「たくさんの幸せ」

放送開始前から噂されていたペットとの死別回。率直に言うなら、嫌いなタイプのお話でした。
以下、勢い任せで書くので、不快な方はご遠慮ください。
また明らかに来週と併せての前後編のようなので、前半だけでだと不当な感想も含まれていると思います。ご了承ください。

【鉄板、鉄板、超鉄板】
今回の話の問題点として、ざっと3つある。

(1) プリキュアが絡んでいない
(2) 死ぬために急に出てきたキャラクターである
(3) こむぎの死(またはその匂わせ)を期待されている

犬飼さんは幼いころからフクちゃんと交流があり、彼女の視点では無関係のモブではない。幼馴染といってもいい。
ですが今まで特に強調して描かれてもおらず、死んで感動してもらうために生まれたキャラです。

もちろんドキプリのマシュマロ等、死ぬためのゲストキャラは多数いる。

それ自体はおかしくはないのですが、マシュマロ達は直接にプリキュアと関わりがあり、そのエピソードではメインです。
フクちゃんは事情が異なる。あくまで「知り合いの飼い犬」です。そして「こむぎの死の予感」がメイン(ネットの反応や来週の展開から)。
ドキプリ映画でいうなら、マシュマロが近所の仲良しの犬で、メインの話題が「六花たちもこうやって切り捨てる未来が来る」だったとしたら、リアクションに悩む。
(マシュマロは「幸せの王子」のツバメであり、同じくツバメの六花たちの犠牲も示唆されているのですが、映画中ではそこがメインではない)

関係性のみならず、ストーリー的にもプリキュアは直接関与していません(※後述)
ティラノを倒すことはできず、フクちゃんの異常にも、トラメの譲歩にも気づいていない。
これは意図してやっている作劇だとも思うのですが、プリキュアが蚊帳の外にいるお話なわけで、通常なら批判されるポイントだと思います。
例えばこれが「お弁当の配達に間に合わない!」とかのエピソードだったら、「プリキュアは何やってんの?」となるのでは。

・皆で食堂で和気あいあい
・敵が出たので中座して戦いに。
・その間に配達の注文が入り、店員さんが出発(プリキュアは認識していない)
・大変だ!道に穴が開いている!このままじゃ約束の時間に間に合わないぞ!(プリキュアは認識していない)
・敵幹部が戦闘放棄して、道路復旧(プリキュアは認識していない)

シュールなギャグ回では。

ところが「動物の死」という鉄板中の鉄板の感動ネタにより、構成の問題点は塗りつぶされ、神回・名作・踏み込んだ意欲回になってしまう。
じゃあもう動物が毎回死んでればいいじゃん、今までのコンテンツ作りなんだったの?…は逆ギレしすぎですが、まぁモヤモヤはする。

そして一連の行き着く先は、こむぎの死です。
露骨に「死んでくれ」と思ってる人はそうはいないでしょうけど、「死ぬかな?死ぬのかな?」と『衝撃の展開』を期待してる向きは感じます。
死なずに終わったらそれはそれで「まぁそこまでは無理だよね」とか「死なないで良かった」とか、死を中心に語られるように思う。

念のため触れておくと、わんぷりさんは「いつか来る別れ」を想定しているように思えます。
ユキ転入回での「明日喧嘩するとしても、今日仲良くしないのは悲しい」や、映画のこむぎの台詞や展開、鏡石の逸話に示唆される将来起きる仲違い等、関係性の終わりは繰り返し出てきます。死別もその一つでしょう。
プリキュアシリーズ全体としても、「死」(避けられぬ終わり)は根底のひとつなので、ペットの死を扱うのはおかしくはない。

ただ最大の注目が「(寿命で)死ぬかどうか」の主人公って、どうなんだろう。

【プリキュアらしからぬ…?】
放送終了直後すぐに、ネットニュースで「ペットの死を描き反響」と掲載されました。手ぐすね引いて待っていた提灯記事、気持ち悪い。

まず、「死」はこれまでに何度も扱われています。
犬に限っても前述のドキプリのマシュマロや、ハピネスチャージのデビット。
それ以外なら、せつな、コロン、月影父、黄瀬父、シャロン、オアシス、和実祖母、カイゼリン父、等々とっさに思いつくだけでも多数ある。
したがって「普段は呑気なプリキュアが、異例中の異例で神回を放送した」ような評価は釈然としない。

また、今後この回がわんぷりを代表する回として無条件に言われかねないのも気になります。
同種の事例としては、はぐプリの若宮アンリ変身回がある。

はぐプリを紹介しようとすると、「男子プリキュアが初登場」が真っ先に挙がる。
アンリは大事なストーリーを持つ重要なキャラクターではありますが、1年やってきた放送の看板がレギュラー陣が直接関係しないそれなの?
私がはぐプリが好きなだけに、非常にもどかしい。

今回も同様です。
プリキュア特集的な番組を思い浮かべてみよう。わんぷりの紹介シーンでは「特別なワンダフル」の後に「ペットの死にも向き合った」のナレーションと共に、フクちゃんのシーンがいかにも映りそう。そこがわんぷりの顔なの?この1年は、実質初登場の犬の死に後塵を期すの?

来週どのような展開になるかに大きく依存するので、かなりの勇み足の言いがかりにはなりますが、上記のままだと主人公こむぎの立つ瀬がない。
序盤の犬飼さんとの絆云々は忘れ去られ、「死を予感されるキャラ」として記憶されてしまう。だってわんぷりの代表シーンが「特別なワンダフル」と「ペットの死」なんだから。
(しかも「特別なワンダフル」と「ペットの死」は非常に相性が悪い。こむぎが普通のワンダフルであることが明言された後に、ペットの死のシーンを流されたら、どんな反応すればいいか分からない)

【お気持ちのまとめ】
そういったわけで、「ペットが死んだから神回」とは受け取りたくないし、そのような広まり方もして欲しくないので、一感想として書き連ねてみた。
もし「動物が死んでるのにケチ付けるのか」のような気持ちが沸いたなら、それこそが書いてきた懸念点です。
動物が死ねば他の問題点は全部チャラで批判も許されず、無条件に神回になってしまうのはどうなんだろうか。

【蛇足】
『関係性のみならず、ストーリー的にもプリキュアは直接関与していません』について。

ストーリー面では、例えばこういうやり方はできる。

・ティラノとの戦闘中、焦って駆けているお鶴さんを遠目に発見。状況を察する。
・猫組がティラノを引き受け、犬組がお鶴さんを助けに行く。
・犬組の前に現れて邪魔するトラメ。
・いつになく強い調子で警告するフレンディ。トラメもフクちゃんの事態に気づく
・トラメ、犬組とフクちゃん達を見逃す
・猫組、大苦戦しながらもティラノを浄化

これだとストーリー的にプリキュアが関わってくる。

必ずしもこっちの方が良いとは思わない。放送されたものの方が構成がシンプルだし、トラメの決断が重い。
それに意図的にプリキュアの貢献度を下げているようにも見える作劇なので、例えば「プリキュアといえど命には関与できない」などの意味もあるのかもしれない。
(またもう一つの問題の、プリキュアと遠い関係性であることは、何も解決していない)

ただ「ストーリーへのプリキュアの関与」とはどういうことを言ってるのかのイメージ説明として、書いておきます。

【蛇足2】
今回の話により、ニコガーデンが仮に死後の世界だとすると、物凄く面倒なことになる。

フクちゃんそのものがそのままニコガーデンで生活する場合、今回の件が茶番になりかねず、ひいてはわんぷり全体のテイストが揺らぐ。

フクちゃんそのものではなく、犬の魂の集合体のようなものがキラリンドッグを形作る…のようなパターンの場合、プリキュアシリーズで否定し続けている同質化・同一化に抵触してしまう。

どちらに転んでもまずい。
今までにも死後の世界らしきものは描かれている(マシュマロや先代プリキュア等)ので、それ自体は今更ですが、今作はニコガーデンとの行き来ができるため他作とは影響度合いが全く違います。どうにか上手い着地をしてくれることを願います。

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(第43話)わんだふるぷりきゅあ!「つむがれる思い」

2024年12月01日 | わんだふるぷりきゅあ!
■(第43話)わんだふるぷりきゅあ!「つむがれる思い」

猫屋敷さんの最後の総まとめ回…かしら。

当初は挙動不審者、中盤は鬱陶しいカプ厨と、人間性すら危ぶまれた猫屋敷さんですが、前回に続いて健やかなる成長をアピールなされました。なんとクラスに友達がいる。そして人望もある。

先日の演劇回でも「ずっと衣装に目をつけてた」と言われました。彼女のスキルは高く評価されていたようです。
いやよく考えたら、その割に今の今まで特には親しくしてなかったともとれるけど。

何にせよ、彼女は級友の中心となってマフラーの編み方を教えることに。
どさくさ紛れでされた「マフラーを作ってくれ」とかいう男子からのとんでもないリクエストは、スルーしたようです。
私の古臭い感覚だと、女子に「手編みのマフラーくれ」と頼むのは、告白とほぼ同義に思える…。猫屋敷さん、そういうのには疎いのか何なのか。

しかも級友に飽き足らず、迷い込んできたザクロさんにも編み物ネタで接近した。
そして恋バナを振ってみた。見違えるほどの成長ぶり。あの人格すら疑われた他人様の恋路への介入が、こんな形で活かされるとは。

更には戦闘で、切られても切られてもネットを修復して応戦。
「切れた縁が元に戻る」はニコ様が度々口にしている重要概念のようですから、テーマ的にもばっちりです。
猫屋敷さんが仕事をなさってる。最後のまとめ回を、きっちり綺麗に完走なされた。

そういったわけでとても良い回でした。
ほぼ何の意味もない愉快なカットも盛りだくさんで、見ていてシンプルに飽きない。リリアンさんの真面目なパンダビームとかも、地味に愉快。

一方で、犬組がほぼ全く機能していません。
古文書の解読に勤しむ悟くん&ニコ様。ザクロと距離を詰める猫たち。それに比べて犬飼さんは、彼氏への手編みのマフラーに夢中になってただけです。

ただ、じゃあ何をやるのが正解だったのかと問うてみても、特にはない。
余計なことを考えないのなら、犬飼さんは十分に、彼女の持ってるものをフルに活かしています。

こむぎも同様で、ユキに毛糸を転がしたりと、できることはやってるし、それでお話の細かな楽しさを支えている。
なくても話の大筋には関係ありませんが、そういう無駄なお遊びがあるかないかは、受ける印象がかなり変わる。

そういったわけで、犬組に関してはもう構造的な問題で、1話ごとの脚本でどうこうなるものじゃなさそう。。
1年も終わりつつある今となっては、主人公:猫屋敷まゆにしていれば、今言われている問題の大半が消え去ったんじゃなかろうかと思ってみる。

【終わりに向けて】
現状を少し整理する。記憶違いもありそうですが、とりあえずこういう認識で居る。

(A)鏡石の逸話によれば、動物が話せるようになり、その後諍いが起きた
(B)トラメ達によれば、人間のせいでオオカミが滅びた。その際に何か裏切りのようなことが起きている
(C)狐崎さんの劇は創作なのでどこまで参考にしてよいか不明ですが、その中ではオオカミが村人とは違う人たちにやられている
(D)古文書によれば、スバルとオオカミが仲良くしていたら、村人がスバルを助けようとしてオオカミを攻撃した

情報が一致しません。
事情を知ってると思ってたニコ様も、実は把握していないらしい。

それと合わせて今作のテーマ。

①言葉にしないと想いは伝わらない
②言葉を話せなくても想いは伝わる
③言葉を話せるせいで、無用な誤解を招く
④言葉を話せるだけでは、想いは伝わらない

告白回等に意味を持たせようとすると①と思われます。
ですが、実際のペットは喋れないのだから、②を完全否定するのは考えづらい。

オオカミの絶滅との関係も不明です。
序盤では「鏡石の力で話せるようになったせいで、周囲が流したオオカミの悪い噂に騙された」のような③も絡めるのかと思ったのですが、いまいちはっきりしないまま。

例年ならば参考となる秋映画では、④の流れの「こむぎ(ムジナ)の熱い思いは、飼い主には直接には届かない」が描かれていました。
ここが主軸なら、今のこむぎの緩やかな放置のされっぷりは、意味を持ってくるかもしれない。

ただいずれにせよ、①~④がオオカミとどう関係しているのか分かりません。

ガオウの正体も謎のまま。
昔のオオカミの名前がガオウだと判明しましたが、そのガオウが今のガオウと同一人格かは不明。
可能性として、現ガオウ=スバルもありえそう。(A)~(D)、①~④を組み込もうとすると、その方が自然とすら思える。
仮に現ガオウ=スバルなのだとしたら、今回の猫屋敷さんからされた「矛盾している」の指摘も説明が付きます。今と昔とでは別人のガオウなんだから、方針がずれるのは当然となる。

こむぎは以前に「絶滅」のことを「友達がいなくなる」と理解していました。
この理解はかなり独特で、現ガオウ=オオカミのガオウだとすると、ちょっと意味が通らなくなる(ガオウ自身もオオカミならば、絶滅は自分の死も意味するため、「友達がいなくなる」は奇妙)。現ガオウ=スバルであれば、「友達がいなくなる」は合致します。
他にもザクロさんの「慕っていた相手が、実は別人で人間だった」はかなり大きな一石を投じそう。

例年と比べて(途中で展開を変えたと明言している昨年は除くとして)、物語の結末に関わる諸々が、いまだに不明確なまま。
ここから怒涛の展開になるのだと、期待したいです。

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(第42話)わんだふるぷりきゅあ!「みんなのおうちのワンダフル!」

2024年11月30日 | わんだふるぷりきゅあ!
■(第42話)わんだふるぷりきゅあ!「みんなのおうちのワンダフル!」

この1週間で、来年のプリキュアの発表やら増刊号やら、まほプリイベントやハピチャファンミが迫ったりと変化が激しく、1週間前の放送が遠い彼方のようにも感じるので、感想は手短に。

今回、猫屋敷さんが父を案内する形で、町や学校の人々が描かれました。
以前の転入回や赤ちゃんツアーで案内される側だった猫屋敷さんが、案内する側に。
彼女の成長、町のコミュニティへの参加具合が分かり、最後のまとめ回のひとつとして綺麗だった…と思う。

…と、思うのですが、何せ過去に2回も同様の話を見ているので、物足りなかったのも本音。
この手の話を終盤にやる場合、「そうそう蟹江さんのカニがガルガルになって大変だった」とか「ブタが逃げて、それを通じて猪狩くんと仲良しになって」とか、そういう振り返りを通じたテーマの再確認みたいなのが醍醐味じゃなかろうか。
ウミガメの砂浜とかは懐かしかったけど、全体的に存在しない記憶を見せられてた感。

残りが10話を切り、いよいよ終わりに向かうので、上手いこと着地して欲しいなと切に思う。

あと今回、猫屋敷父がユキの人間態に反応してたのは、地味に嬉しかったです。
彼にとっても家族ですから、スルーは不自然だものな。

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(第41話)わんだふるぷりきゅあ!「ユキ・オンステージ!」

2024年11月23日 | わんだふるぷりきゅあ!
■(第41話)わんだふるぷりきゅあ!「ユキ・オンステージ!」

烏丸さんが謎の古文書を発掘してきてくれました。スバルとかオオカミとか書いてある。
それは良いのですが、他の面々をガン無視して悟くんにのみ熱っぽく渡すあたり、何か他意を感じます。
烏丸さんって、ガオウ由来っぽい神社の娘さんですから、従来であれば追加戦士になってもおかしくないくらいのポジションの方。何か異様なオーラを感じる。

その古文書を元に、一行は劇をやることになった。脚本:狐の方。
猫屋敷さんが衣装を作り、ユキが女神役をやり、こむぎがお供の犬をやる。犬飼さんはその他全般。
限られた情報から「女神的存在がいる方が自然である」に至った狐崎さんの嗅覚が怖い。

こむぎが無理くり犬役で出演…というあたり、何かやらかしそうではありましたが、意外にも頑張った。

「犬と人が仲良しなんだから、狼と人も仲良くなれるよ!」
「一緒にあそぼ!仲良くなれば、わんだふるだよ!」

ラストで思わずアドリブを発し、それがプラスに働いて綺麗にまとめた。すごい、ちゃんと主人公なさってる。
割とストレートに、ガオウ様への回答になりそうです。
まぁガオウ視点では、仲良くしてたのに裏切られた認識かもしれないので、もう一捻りいるのかもしれない。

しかも渦中の「デート」の認識も判明しました。
こむぎにとってデートとは、綺麗な服を着て仲良くおでかけすること。
先日のデート回で、猫の方々に服を見繕ってもらっていました。道理で嬉しそうにしていて、だから「今度はこむぎとデートしてね」の流れだったのか。

今回のお話、物語の背景が見えてきたし、こむぎが主人公していたし、猫組は各自の特性を生かしていたし、対カメレオンは短い中でも特殊なバトルで魅せていたし、狐崎さん達は大活躍だったし、それも単に出番が多かっただけでなく、こむぎのアドリブに引きつりながら合わせたりと「ただの進行役のモブ」ではなく生き生きとしていたし、その他細かな演出もコミカルに動いていてとても楽しかったです。おまけにザクロさんのフォローまであった。彼女は人はお好みではないし、浮気したせいで負けたと反省もなさる。

物凄く分かりやすい「こういう話を見たかったんだ」感のある、楽しい回でした。次回以降にも期待したい。

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