琉球新報で〈県外からの提言 基地沖縄〉という連載が行われているが、2月12日付の紙面に野中広務元自民党幹事長の〈提言〉なるものが載っている。
〈今、普天間の問題が日本と米国の防衛問題の焦点にされているのは、非常に迷惑で不幸なこと。われわれの時代に解決しなかったのは一番申し訳ないと思っている。宜野湾のあの苦しさをどっかに移転せな、といろんな所を探した。でも結局、名護市の辺野古にせざるを得なかった。辺野古で受け入れてもらうことが、いろいろな問題もあるだろうけど、最良の道だと思っている〉
〈もう一つは沖縄が、日本が、なぜ米国のためにやらなきゃならないんだと。負担のほとんどを沖縄に背負わせなくてはいけないんだと、日本人には大なり小なり、そういう気持ちはある〉
〈このままいけば日米関係は最悪の事態を迎えかねない。鳩山首相が一刻も早く、辺野古で決めない限り、問題は解決しない。沖縄には気の毒だけれども、戦略的な基地は必要だ〉
沖縄に対する傲慢な差別意識がぷんぷん臭ってきて、読んでいて実に不快なインタビューだ。普天間基地「移設」をめぐる現在の状況は、野中氏にとっては〈非常に迷惑で不幸なこと〉だという。そして、〈宜野湾のあの苦しさを〉沖縄県内でたらい回しにし、〈辺野古で受け入れてもらう〉=押しつけるのが、今でも〈最良の道だと思っている〉んだそうだ。
〈いろいろな問題もあるだろうけど〉と野中氏は言ってのけるが、〈いろいろな問題〉を背負わされる住民のことをどう考えているのだろうか。〈われわれの時代に解決しなかった〉のは、まさにその〈いろいろな問題〉を背負わされる住民が「辺野古新基地建設」を〈受け入れ〉なかったからであり、沖縄県民の大多数が反対してきたからだ。そのことを直視しないで、〈一番申し訳がないと思っている〉などと野中氏はよくも恥ずかしげもなく言えるものだ。
〈沖縄には気の毒だけれども〉と野中氏は言う。しかし、口先ではそう言いながら〈日米関係〉の危機を煽り、沖縄への基地の固定化を図る主張は旧態然としたものでしかない。そこには日本の安全のために沖縄を犠牲にするのは当然とする傲慢な差別意識が露呈している。
こういう〈提言〉を有り難がって載せている琉球新報も無様としか言いようがない。戦争の悲惨さを知る「戦中派」として、最近は「ハト派」「リベラル派」でもあるかのような顔をしている野中氏が、沖縄に対しこれまで何をやってきたか。
魚住昭著『野中広務 差別と権力』(講談社)に次のような一節がある。12年前の名護市長選挙や沖縄県知事選挙で野中氏がどのような画策を行ったかが書かれている。
〈野中がつくりあげた自公体制は国政のあり方を変えただけではない。在日米軍基地の七五パーセントを抱えて苦悩する沖縄の政治状況も一変させた〉(313ページ)
〈翌九七年十二月二十一日、海上基地建設の是非を問う住民投票が名護市で行われた。政府側は賛成派の劣性を覆えそうと、港湾整備や市街地開発などの「振興策」を提示し、地元ゼネコンや防衛施設局の職員たちまで大量動員して戸別訪問させた。
幹事長代理の野中は現地入りして、その後押しをした。結果は、反対派が投票総数約三万千五百票のうち五三パーセントを占め、賛成派に約二千四百票の差をつけて勝利した。海上基地建設に「ノー」という住民の意思がはっきり示されたのである。
だが、それから三日後、名護市長・比嘉鉄也は首相官邸に橋本を訪ね、海上基地の受け入れを表明した。比嘉は市長を辞任し、翌年二月の市長選で賛成派が推す前助役の岸本建男が反対派の前県議・玉城義和に約千票差をつけて当選した。
賛成派の中心人物の一人だった県会議員の安里進が語る。
「自公連携の効果が大きかった。約千五百票あると言われる学会票の大半がこっちに来たからね。もともと公明の女性市議は反対運動の先頭に立っていた人だから、住民投票のとき地元の学会は基地に反対だった。ところが市長選では学会本部から賛成に回れという指示が出たらしい。おそらく野中さんが自公連携を働きかけたんだろう」
自民党沖縄県連の会長だった西田健次郎もこう証言する。
「あれは野中さんがやったんだ。沖縄県連では当時は自公路線をとっていなかった。だけど学会が岸本支持で動いているのは感じでわかっていた。自民党本部から『公明批判はするな』という指示も確かに来ていたし、岸本陣営に旧公明党の国会議員も出入りしていたからね。学会中央が野中さんの要請で岸本支持を決め、自公連立に向けた一つの実験をやったんだろう」
九八年十一月に行われた県知事選挙でも自公連携は絶大な威力を発揮した。当初、三選確実と見られていた大田が自民党などが推薦する稲嶺恵一(県経営者協会特別顧問)に約三万七千票の差で敗れたのである。
学会側は稲嶺支援の条件として衆院沖縄一区(那覇市)の議席を要求し、野中はそれを受け入れた。このため一区から選出された自民党の下地幹郎は二〇〇〇年の総選挙では比例区に回り、公明党の白保台一が一区で当選した。
こうして基地撤廃を求める沖縄の民意はねじ曲げられていった〉(313~15ページ)
今の若い世代はこういうことがあったのを知らない人が多いと思うので、長々と引用して紹介させてもらった。
この13年余、「辺野古新基地建設」をめぐって名護市民はなぜ分断と対立に苦しまなければならなかったのか。そのことを考えるときに、野中氏が果たした役割を忘れることはできない。12年前の名護市長選挙や沖縄県知事選挙で〈自公連携〉を実現し、岸本建男氏や稲嶺恵一氏を当選させて、辺野古への海上基地〈受け入れ〉を行わせたのが野中氏だった。市民投票の結果を踏みにじった比嘉鉄也氏と並び、名護市民の13年余の分断と対立の苦しみを生み出した張本人が野中氏だったのだ。
そういう野中氏が、今でも辺野古「移設」が〈最良の道〉とうそぶいている姿には、一片の反省も感じられない。戦中派として、あるいは被差別出身の政治家として、野中氏は沖縄の「痛み」に理解があるかのような顔を時々見せるが、自らが沖縄を踏みつけている足をどかそうとはしないのだ。
〈もう年が年だから、おれが死んだら宜野湾市の嘉数の丘の京都の塔の片隅に骨の一部を散骨してくれ、と息子に言うてるんだ〉
野中氏はそう語っている。「戦後」65年、沖縄を占拠し続けている米軍の実態を嘉数の丘から見てきた京都の戦没兵士たちは、米軍基地を沖縄県内でたらい回ししようとする野中氏を喜んで迎え入れるだろうか。
〈今、普天間の問題が日本と米国の防衛問題の焦点にされているのは、非常に迷惑で不幸なこと。われわれの時代に解決しなかったのは一番申し訳ないと思っている。宜野湾のあの苦しさをどっかに移転せな、といろんな所を探した。でも結局、名護市の辺野古にせざるを得なかった。辺野古で受け入れてもらうことが、いろいろな問題もあるだろうけど、最良の道だと思っている〉
〈もう一つは沖縄が、日本が、なぜ米国のためにやらなきゃならないんだと。負担のほとんどを沖縄に背負わせなくてはいけないんだと、日本人には大なり小なり、そういう気持ちはある〉
〈このままいけば日米関係は最悪の事態を迎えかねない。鳩山首相が一刻も早く、辺野古で決めない限り、問題は解決しない。沖縄には気の毒だけれども、戦略的な基地は必要だ〉
沖縄に対する傲慢な差別意識がぷんぷん臭ってきて、読んでいて実に不快なインタビューだ。普天間基地「移設」をめぐる現在の状況は、野中氏にとっては〈非常に迷惑で不幸なこと〉だという。そして、〈宜野湾のあの苦しさを〉沖縄県内でたらい回しにし、〈辺野古で受け入れてもらう〉=押しつけるのが、今でも〈最良の道だと思っている〉んだそうだ。
〈いろいろな問題もあるだろうけど〉と野中氏は言ってのけるが、〈いろいろな問題〉を背負わされる住民のことをどう考えているのだろうか。〈われわれの時代に解決しなかった〉のは、まさにその〈いろいろな問題〉を背負わされる住民が「辺野古新基地建設」を〈受け入れ〉なかったからであり、沖縄県民の大多数が反対してきたからだ。そのことを直視しないで、〈一番申し訳がないと思っている〉などと野中氏はよくも恥ずかしげもなく言えるものだ。
〈沖縄には気の毒だけれども〉と野中氏は言う。しかし、口先ではそう言いながら〈日米関係〉の危機を煽り、沖縄への基地の固定化を図る主張は旧態然としたものでしかない。そこには日本の安全のために沖縄を犠牲にするのは当然とする傲慢な差別意識が露呈している。
こういう〈提言〉を有り難がって載せている琉球新報も無様としか言いようがない。戦争の悲惨さを知る「戦中派」として、最近は「ハト派」「リベラル派」でもあるかのような顔をしている野中氏が、沖縄に対しこれまで何をやってきたか。
魚住昭著『野中広務 差別と権力』(講談社)に次のような一節がある。12年前の名護市長選挙や沖縄県知事選挙で野中氏がどのような画策を行ったかが書かれている。
〈野中がつくりあげた自公体制は国政のあり方を変えただけではない。在日米軍基地の七五パーセントを抱えて苦悩する沖縄の政治状況も一変させた〉(313ページ)
〈翌九七年十二月二十一日、海上基地建設の是非を問う住民投票が名護市で行われた。政府側は賛成派の劣性を覆えそうと、港湾整備や市街地開発などの「振興策」を提示し、地元ゼネコンや防衛施設局の職員たちまで大量動員して戸別訪問させた。
幹事長代理の野中は現地入りして、その後押しをした。結果は、反対派が投票総数約三万千五百票のうち五三パーセントを占め、賛成派に約二千四百票の差をつけて勝利した。海上基地建設に「ノー」という住民の意思がはっきり示されたのである。
だが、それから三日後、名護市長・比嘉鉄也は首相官邸に橋本を訪ね、海上基地の受け入れを表明した。比嘉は市長を辞任し、翌年二月の市長選で賛成派が推す前助役の岸本建男が反対派の前県議・玉城義和に約千票差をつけて当選した。
賛成派の中心人物の一人だった県会議員の安里進が語る。
「自公連携の効果が大きかった。約千五百票あると言われる学会票の大半がこっちに来たからね。もともと公明の女性市議は反対運動の先頭に立っていた人だから、住民投票のとき地元の学会は基地に反対だった。ところが市長選では学会本部から賛成に回れという指示が出たらしい。おそらく野中さんが自公連携を働きかけたんだろう」
自民党沖縄県連の会長だった西田健次郎もこう証言する。
「あれは野中さんがやったんだ。沖縄県連では当時は自公路線をとっていなかった。だけど学会が岸本支持で動いているのは感じでわかっていた。自民党本部から『公明批判はするな』という指示も確かに来ていたし、岸本陣営に旧公明党の国会議員も出入りしていたからね。学会中央が野中さんの要請で岸本支持を決め、自公連立に向けた一つの実験をやったんだろう」
九八年十一月に行われた県知事選挙でも自公連携は絶大な威力を発揮した。当初、三選確実と見られていた大田が自民党などが推薦する稲嶺恵一(県経営者協会特別顧問)に約三万七千票の差で敗れたのである。
学会側は稲嶺支援の条件として衆院沖縄一区(那覇市)の議席を要求し、野中はそれを受け入れた。このため一区から選出された自民党の下地幹郎は二〇〇〇年の総選挙では比例区に回り、公明党の白保台一が一区で当選した。
こうして基地撤廃を求める沖縄の民意はねじ曲げられていった〉(313~15ページ)
今の若い世代はこういうことがあったのを知らない人が多いと思うので、長々と引用して紹介させてもらった。
この13年余、「辺野古新基地建設」をめぐって名護市民はなぜ分断と対立に苦しまなければならなかったのか。そのことを考えるときに、野中氏が果たした役割を忘れることはできない。12年前の名護市長選挙や沖縄県知事選挙で〈自公連携〉を実現し、岸本建男氏や稲嶺恵一氏を当選させて、辺野古への海上基地〈受け入れ〉を行わせたのが野中氏だった。市民投票の結果を踏みにじった比嘉鉄也氏と並び、名護市民の13年余の分断と対立の苦しみを生み出した張本人が野中氏だったのだ。
そういう野中氏が、今でも辺野古「移設」が〈最良の道〉とうそぶいている姿には、一片の反省も感じられない。戦中派として、あるいは被差別出身の政治家として、野中氏は沖縄の「痛み」に理解があるかのような顔を時々見せるが、自らが沖縄を踏みつけている足をどかそうとはしないのだ。
〈もう年が年だから、おれが死んだら宜野湾市の嘉数の丘の京都の塔の片隅に骨の一部を散骨してくれ、と息子に言うてるんだ〉
野中氏はそう語っている。「戦後」65年、沖縄を占拠し続けている米軍の実態を嘉数の丘から見てきた京都の戦没兵士たちは、米軍基地を沖縄県内でたらい回ししようとする野中氏を喜んで迎え入れるだろうか。
「名護市民投票」の時、地元ゼネコンや防衛施設局の職員たちを使っての市民への饗応、買収は語り草になりました。それを推進したのは当時の官房長官野中と鈴木宗男でした。
同じ時期、嘉手納への「防衛施設局」の移転を決定したのも野中官房長官だったそうです。その席には、鈴木氏と下地氏も同席していたそうですが。
踏みにじられた沖縄の民意の13年間の経緯を、簡明に詳察提示いただきありがとうございます。
脳乱老人政治屋の戯言。記事を拝見し、沖縄の地を痴呆政治屋の散骨・分骨で汚してはならないと感じました。
物を思考する権利を捨てた衆愚は、政争の取引や座布団に利用され、権力をも超えた凶器として先端機能し、その土地土地の命運と歴史を大きく迂回させてしまう史実が、かの大物政治家の魑魅魍魎な言動によく現われていると感じました。
分断された家族や民衆の叫び、コミュニティーの悲哀を、東京の地から俯瞰しながら噛み締めております。
「革新系の強い京都」が、ここ30年で保守の知事・市長が当選するように一変した背景には、経済面の問題もあるにはあるでしょうけれども、野中の働きも小さくはありません。
引退後いくら殊勝なことを言っても(言う振りをしても)、彼の政治家としての過去の業績は目取真俊さんのお書きのように「とんでもない」ものだったのは、間違いありません。