2025-09-17

リリイシュシュのすべてを見て

10代の頃って、「世界」というクソでかいものをよくわからないまま自己の中に組み込みがちだ。

結果的に当然処理しきれず、圧倒的な「世界」に降参することになる。

リリイシュシュのすべてを読んで、マジで最低な話だと思ったし、吐き気すら覚えた。

結局、ナルシスト的な被害者意識に閉じこもっていた自分から卒業しなきゃいけないってことだ。

世界自己を同一視して「俺の世界=俺の苦しみ」みたいに抱え込むのは、構造的に破綻している。

まぁそれが美しいし、このリリイシュシュのすべてはその自己なかに世界を抱え込むことによって生まれる気色悪すぎるけど美しすぎる世界を描いてるんだろうけど。

から世界自分を分離する。世界で何が起きても「へえ、そんなのもあるんだね。でも俺は俺だから」って言える距離感を持つ。

隕石明日降ってきても「そっか、じゃあね世界」で済ませられるくらいに。

理不尽自己に内在化させない。

いかげんオタクは身軽になるべきなんだ。

俺はエーテルというのは関数のようなものなのではないかと思った。

いじめられている子にとっての世界とは「自分いじめもの」でしかない。

けれども、自分世界を分離することで、世界の中には「いじめもの」もあれば「助けてくれるもの」「助けないもの」「何もしないもの」とてもたくさんのものがある。

たくさんありすぎて困るんで俺ら青春情報科学かいうドブに間違えておっことしちゃった人間には馴染みのある関数にして一般化してみる。

それは場合に応じて自己が持つ変数引数にreturnを持つ動的な関数である

自己: xの時、世界: f(x)でありいじめが起きた時、「司法に頼る」みたいな突拍子もない自己世界を持っていたら思い付かないような閉ざされたアイデア世界引数に対して入力できる。

俺と世界は別であって、世界に対して俺は自由入力を与えられる。

からある時のxに対する世界: f(x)に執着する必要はない。

あるときf(x)が「いじめ」という最悪のyを返したとしても、それが世界のすべてじゃない。

別の入力x2を試せば、y2=f(x2)という全然違う出力を得られるかもしれない。

まり、一つのyに執着する必要はないんだ。

重要なのは「fそのもの」であって、個別f(x)じゃない。俺たちは世界の像に絡め取られるけど、ほんとは関数自体抽象的な存在が唯一の「世界」なんだ。

しか関数という抽象概念人間かいうクッソ低脳な猿が理解できる訳もないので、代わりにリリイシュシュがそれをエーテルとして表現した。

んで主人公の雄一や青猫は10特有自己世界を同一視する世界観によってリリイシュシュ音楽自己と同一視することで、そのエーテルf(x)自分自身と重ねる。

俺たちオタクは「自律・自立」に憧れつつも、そうはなれない人間的な弱さに対する「執着」だ。

自己世界をごちゃ混ぜにして精神が参ってる10代の世界観は魅力的だ。

それを体験させてくれるこの映画価値がある。

見苦しいオタク像は、脱毛をしないとか、オシャレじゃないとか、女の子に気配りができないとか、生理的に受け付けないとかそういうもの表現しがちだ。

けれども本当に俺らオタクが醜いのはそういった幼い世界観にいつまでも縋って、挙げ句の果てに世界を受け入れることができないことを知って、美しい世界だけを選び始めたことだ。

中途半端世界から距離をとりつつも、自己の中に世界を組み込むことに固執している。

まり可愛い女の子イチャイチャしてる萌え〜なアニメを好んで選びその世界自己を同一視して酔いしれるということだ。

てか、世界を選ぶ余裕があるってことは、その裏にある関数的な世界構造を半分理解してるじゃないか

そうだよ(便乗)ずっと俺らは知ってたのに知らないふりしてただなんだ。

いかげん大人になれよ笑。

からアニメを見なくても良くなるんだ。

まぁこからバンバンみるけどね。

秋葉原と一緒に平成を抱えて集団自殺した萌え豚の末代ですから

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