2023
01/25
水
と言うことで、まずは和歌山県紀の川市粉河にあります
『粉河寺』(こかわでら)に行きました~(^^)/
まず最初にありましたのは、「大門」です。本瓦葺き入母屋造りの楼門で、国の重要文化財に指定されています。また、寺号碑には「西國第三番粉河寺」と書かれています。粉河寺は西国三十三所観音霊場の第三番礼所となっています。
大門の説明板には、
「大門は桁行12.48m梁間7.48m平面積93.38㎡を有する規模の大きい楼門で、建立は明らかではないが、各鬼瓦に宝永4(1707)年の刻銘が見られ、様式上、この頃の建立と考えられる。
上層の斗栱に雲肘木と尾棰をつかって深い軒を支える構法など、当時の建築としては、他にあまり類のない手法を用いている。建立当時の形態もよく保たれており良質のケヤキ材を用いた雄大な江戸中期の建築として優れている。」
「大門」の左手には「善光寺」(左の堂)と「地蔵堂」(右の小さい堂)がありました。左の「善光寺」は「粉川寺」の関係なのかはわかりません。塔頭の一つだったのかな?とも思いましたが、一つのお堂しかありませんので、その辺もちょっと怪しいです。
やはり普通に「善光寺堂」なのかな~?
丹塗りの楼門は荘厳な雰囲気があります。入口の両脇には仁王像も安置されていますので、「大門」は仁王門でもあります。扁額には「粉川寺」の文字が書かれています。
金剛力士は仏師「春日の作」と云われ、尊像の用材は桂の巨木が使われたようです。
「大門」をくぐり、広い境内参道を進みます。右手には土産物店もありました。
参道を進むと最初にありましたのは、「不動堂」です。弘法大師爪彫りの不動尊が安置されているそうです。
「不動堂」を過ぎると二股路に出ました。左行きは行者道と書かれていましたが、道中には「桧木宿の跡」の碑があるようなので旧街道だったようです。境内案内図もありましたので、これで堂宇名がわかります(^^)/
境内案内図の裏側には「子育地蔵」と、その隣に「羅漢堂」がありました。「羅漢堂」に続くように「本坊」に入る中門がありました。
中門の右側には「童男堂」がありました。「どうなんどう」と読むようです。本瓦葺き入母屋造りで千鳥破風が付いた豪勢な形のお堂です。
「本尊は、千手千眼観世音が御姿をかえられたといわれる童男大士を祀り、例年12月18日は、いわゆる「終り観音」の童男会がいとなまれる。
堂は棟札によって延宝7(1679)年の建立と考えられ、願主は当山の権大僧都法印円英、大工は徳屋甚左衛門と記されている。
童男堂は正堂と礼堂とよりなり、桁行三間、梁間三間の正方形の建物の前面に桁行五間、梁間三間の礼堂を幅一間の合の間を挟んで建てられている。
江戸時代の廟建築の形を模しており、正堂内陣の小壁、板壁部の障壁面、天井絵は華麗で優れた作風を示している。」と説明がありました。
続いてありましたのは「仏足石」です。その奥には「出現池」がありました。本尊千手観音の化身、童男大士(童男行者ともいう)が柳の枝を手に白馬に乗ってこの池より出現したと伝えられるようです。
東に向かう参道は「中門」までに100m以上ありそうです。
「念仏堂」は光明殿とも言い、阿弥陀如来を安置しています。江戸時代後期の建立で、総欅造りです。向拝に唐破風付いているのは豪勢に見えます。
「念仏堂」の右手にある「阿弥陀如来座像(露座仏)」は文久二年(1862)の作です。
「阿弥陀如来座像」の右側には不明な建物がありましたが、更にその横に「太子堂」がありました。本瓦葺き寄棟造りで、聖徳太子を祀っています。
「太子堂」を過ぎると広いスペースに出ました。写真は割愛しますが、左側には石碑や無縁塔などがありました。突き当たりが「中門」で、漸く「手水舎」がありましたので身を清めます。
荘厳な姿の「中門」です。本瓦葺き入母屋造りで入口上には唐破風が付いています。三間二戸の楼門で仁王門は「大門」と同じです。又こちらも国の重要文化財となっています。
扁額は「風猛山」とありますが、これが山号となっています。
「中門」には正面側と内側に2体づつで四天王を安置しています。正面の左が多聞天、右が広目天、境内側の左は増長天、右が持国天となります。
今回はここまでです。次回は「中門」から先の境内を見ていきま~す(^^)/
西国三十三所の御詠歌
場所:粉川寺
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