闘技会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/11 00:43 UTC 版)
円形闘技場で行われる過酷な闘技会。随時に腕立て伏せや鉄球受けなどの力試しを挟みつつ、最後の一人になるまで格闘戦を行う。
※この「闘技会」の解説は、「聖マッスル」の解説の一部です。
「闘技会」を含む「聖マッスル」の記事については、「聖マッスル」の概要を参照ください。
闘技会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 08:06 UTC 版)
「模擬海戦」も参照 剣闘士競技の主催者の趣向や野心によって、残虐度や物珍しさ、そして血液の量は増減したが、少なくとも剣闘士どうしの試合は今日考えられているようなルールのない残虐ショーではなかった。 闘技会は皇帝や政治家、地方の名望家が主催し、多額の費用がかかるが切符(チッセラ)は無料で市民に配られ(共和政末期からは販売もされた)切符を持たない下層階級や非市民階級の者も最上段の立見席で観戦できた。民衆は無料で観戦できることを強く要求しており、紀元前122年頃には高級政務官が特権を利用して闘技場に閲覧席を設けて有料で試合を見せることにしたが、時の護民官ティベリウス・グラックスが民衆のために職人を送り込んで閲覧席を取り壊させて無料で観戦させた事件が起こっている。 闘技会の規模は様々だが、執政官選出のためにクロディウス・フラックスが主催した闘技会の告知文の場合は30組の試合で3日間であった。また、ポンペイで発掘されたネロ帝の終身神官デキムス・ルクレティウス・サトゥリウス・ウァレンス父子の闘技会の告知文では30組の試合で4日間だった。紀元前22年に剣闘士興行では120組を最大とする規程が定められているが、皇帝が主催するものとなるとこの埒外で、初代皇帝アウグストゥス(在位:紀元前27年 - 14年)は8回の興行で5000組を戦わせている。 闘技会には興行の側面があったため、前日には宴会が開かれて剣闘士たちには大盤振る舞いのご馳走が供され、これを市民たちが見物した。闘技会は早朝から開催され、最初にパレード用の兜と刺繍したマントを身に着けた剣闘士の入場式があり、主催者は人気取りのために趣向を凝らすが、観衆はひどく退屈したという。皇帝が闘技会の主催者の場合、剣闘士たちは彼に次の言葉とともに敬礼をした。 皇帝万歳!死にゆく者たちより敬意を捧げます。("Ave Imperator, morituri te salutant"または"Ave, Caesar, morituri te salutant") この敬礼の史料上の初出はクラウディウス帝(在位41年 - 54年)が模擬海戦を主催した時だが、これに皇帝が助命をほのめかす返事をしたため、死ぬまで戦わされる筈だった軍船の乗組員たちが命惜しさに船を散らし始めて皇帝を激怒させている。 午前中は野獣狩り(ウェーナーティオー)が催された。ヨーロッパ、中東そしてアフリカから集められた熊、トラ、ライオン、ヒョウなどの猛獣や象、キリンといった珍獣が闘技場に放たれ、闘獣士たちがこれを狩り殺してゆく。もともと野獣狩りと剣闘士試合とは別々に催されていたが、次第に剣闘士試合の余興や前座として催されるようになり、帝政期に入ったころにこれが固定化した。闘獣士は武装しており、猛獣との戦いで命を落とす頻度もそんなに高くは無かったが、重罪人と猛獣との戦いは公開処刑であり、大抵の重罪人が猛獣に殺された。野獣狩りのためコロッセウムには猛獣を檻のある場所から闘技場の階まで移動させるための人力エレベーターが28基設置された。熊などの大型獣を昇降できるように重量は300kgまで対応していた。 午後になると罪人(ノウシウス)の処刑が行われ、彼らは武器を持たされ罪人同士で死ぬまで戦わされるか、剣闘士と戦って殺されることになる。まだ息のある罪人は、試合終了後に運び出された後でとどめをさされた。 罪人の処刑が終わると剣闘士の試合が始まる。まずは二流の養成所剣闘士(マリーディアーン:真昼に戦う剣闘士)の試合で、彼らはくじ引きによって組み合わせを決められて戦う。ここで戦わされる新人剣闘士たちは最初の戦いで命を落とすことが多かった。夕方頃からが筆頭剣闘士(プリームス・パールス)をはじめとする名の通った剣闘士たちの試合となる。 剣闘士の名前が呼ばれ、武器の威力を確かめたのち、二人の審判員がいる闘技場の中央に進み出ることになる。試合は相手を殺すか負傷させるかして無力化させるまで続く。試合を終わらせたければ人差し指を高々と上げるか、盾を放り投げると「降伏」の意思表示になり、降伏した相手を傷つけるのは卑しい行為とされた。 そして決着がついた後、試合の敗者については観客が助命か処刑かを選択できた。一般的には敢闘したとして助命(ミッスス)するなら親指を上に、見苦しい負け方をしたとして止めを刺すなら親指を下にするのが合図であったとされるが、現代の研究者たちは親指を突き上げた拳とともに「殺せ!」と叫べば処刑、親指を下げれば助命だったと考えている。歴戦の剣闘士であれば、観客に死を宣告されるような見苦しい負け方はしないように特訓されている。それまでに大金をかけて養成した剣闘士を失うのは経営者にとっても大きな損失であるため、剣闘士が観衆の希望により木剣(ルディス)を授けられて自由になるか、重傷を負って戦えなくなるか死んだ場合、主催者は市場価格に見合った金額を興行師に支払わねばならなかった。 勝利者(ウィンキト)にはその証であるシュロの小枝(パルマ)が与えられ、卓越した者には月桂冠(コローナ)が授けられた。時には勝利の報償として多額の金品を得ることもあった。また、詩人にたたえられ、宝玉や壺に肖像画がえがかれ、婦人たちの愛顧をえた。 共和政時代には闘技会の告知文には「助命なし」(シネ・ミッスス)と書かれていたが、初代皇帝アウグストゥスはこれを禁止しており、歴史学者ジョルジュ・ヴェルの研究によると、1世紀において100試合に出場した200人の剣闘士のうち死亡者は19人、生存率は9割を超えている。だが、闘技会は再び過激化に向かい、3世紀には1試合おきに死亡者が出るようになり、やがて剣闘士試合の敗者はほぼ殺害されるようになった。なお、この時代はラティフンディウムが行き詰まりコロナートゥスに移行するなど、奴隷不足が深刻になり、むしろ貴重になった奴隷を保護する法律が施行された時期でもある。剣闘士もよく訓練された奴隷が減り、従来なら落伍するレベルの奴隷や犯罪者が剣闘士として駆り出される割合が高まった事から、死亡率が高まったのである。 主催者の趣向による変則的な闘技会も伝えられる。試合は1対1で行うものだが、カリグラ帝(在位37年 - 41年)は網闘士5人と追撃闘士5人とで戦わせた。コンモドゥス帝(180年 - 192年)は下肢を失った者をローマ市中からかき集めて蛇の尾の衣装を着けさせ、棍棒で彼らをことごとく殴り殺させた。政治家シュムマスクが主催した闘技会では変わった趣向により観衆の興味を引くために彼が買い集めた剣闘士たちは闘わずに互いに首を死ぬまで絞めさせ、最後の一人は絶命するまで自分で壁に頭を打ちつけさせた。 紀元前46年にユリウス・カエサルは都市ローマ近郊のマルスの野(カンプス・マルティウス)に人工の池をつくらせて16隻の軍船を浮かばせ、4,000人の罪人や捕虜を漕ぎ手として死ぬまで戦わせる模擬海戦を初めて催した。57年にネロ帝(在位54年 - 68年)はカンプス・マルティウスの円形闘技場内に水を張り、模擬海戦を行わせた。ティトゥス帝(在位79年 - 81年)は常設の人工池を造り、サラミスの海戦を再現させた。ドミティアヌス帝(在位81年 - 96年)は落成してから程ないコロッセウムで二度の模擬海戦を催している。 剣闘士は年に3回か4回程度の試合を行い、20戦ほどを経験するまでに死ぬか木剣拝受者となって引退したと推定され、1世紀頃の事情では生き残りうる確率は20人に1人程度であった。シチリア島の追撃闘士フランマの墓碑には4度木剣(ルディス)を贈られながらも戦い続け、25回の勝利を収め、4回の助命、そして9つの戦いでは引き分けたとある。剣闘士に限った話ではなく、長年尽くした奴隷はその功に報いて解放される場合が多かったが、剣闘士だった奴隷は観客の喝采を浴びた経験が忘れられず、引退してもまた剣闘士に戻る者もいた。 絵画に描かれた闘技会野獣狩り剣闘士試合 猛獣と戦う闘獣士。怯えた闘獣士か罪人が鞭打たれている。 ダチョウと戦う闘獣士。 剣闘士試合模擬海戦 模擬海戦は円形闘技場に水を満たして行われた。 "La naumaquia"(模擬海戦)Ulpiano Checa画、1894年。
※この「闘技会」の解説は、「剣闘士」の解説の一部です。
「闘技会」を含む「剣闘士」の記事については、「剣闘士」の概要を参照ください。
- 闘技会のページへのリンク