旧流路
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 23:40 UTC 版)
合の川は、利根川が埼玉県加須市飯積[地図]で北へ分流した流れで、加須市と群馬県邑楽郡板倉町の境界(旧武蔵国埼玉郡と上野国邑楽郡の境界)を東へ流れ、板倉町下五箇で谷田川が合流した後、加須市小野袋へ至って旧渡良瀬川へ合流していた。古代には利根川の本流が流れたとする説がある。 元和7年(1621年)に新川通が新たな利根川本流河道として、加須市佐波(飯積から下流へ2km)[地図]から旗井(久喜市栗橋の北1km)[地図]まで開削され渡良瀬川に接続された。これに伴い、合の川への利根川分流水量は増水時を除けば僅かとなった。 天保9年(1838年)に流頭が締め切られ、廃川となった。旧渡良瀬川へ至る下流部は谷田川へ譲った。
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旧流路
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/06 09:19 UTC 版)
大字川藤の伏越から切り離された旧流路は、二郷半領用水路と併流する形で現在も残されており、大字川藤から大字木売のJAさいかつ吉川支店付近まで辿ることが出来る。この区間は、現在でも周辺地域の農業排水や雨水の排水路として利用されており、大字木売から先は暗渠となり、吉川市共保雨水ポンプ場及び下河岸雨水ポンプ場にて中川へ排水されている。 暗渠化される前の流路は、暗渠化地点から南西方向へ直線的に流れ、現在の東京都道・埼玉県道67号葛飾吉川松伏線吉川駅南口交差点付近で、中川と木売落が県道を挟む形で併流し、新中川水道橋付近で中川に合流していた。 吉川駅周辺は豪雨に見舞われると、たびたび冠水を引き起こす。吉川市では対策として、木売落旧流路に貯水槽を設置し、一時貯水を行う計画を立てている。
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旧流路
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 04:44 UTC 版)
現在は茨木市西河原で安威川に合流するが、昭和以前は安威川に合流せず西河原の手前の三咲町・田中町付近で南に折れ、今の元茨木川緑地の敷地を流れて旧茨木町の市街や茨木神社に接して流れ、摂津市の学園町、鶴野付近(今の摂津高校周辺)で安威川に合流していた。川幅が狭く天井川であり、たびたび氾濫を起こす危険な川だった。 昭和10年(1935年)6月29日に大雨のため茨木川の堤防が決壊し大きな水害が起こり、これを機に川沿いの町村が改修・付け替えを求めて陳情を行った。昭和16年(1941年)、付け替え工事により茨木川は西河原で安威川に合流し、安威川も直線化・拡幅する工事がなされた。現在の西河原公園は、このとき取り残された安威川旧流路の堤や河川敷を公園にしたものである。また昭和24年(1949年)に茨木川の付け替え地点から下流は廃川した。茨木川旧流路は当初ゴミ捨て場となったものの、道路と公園が作られ元茨木川緑地(桜通り)になっている。 大正2年(1913年)当時の茨木中学校は、真横を流れていた茨木川の水を引いて校内にプールを作り、オリンピックに出場する選手も出すなど水泳の盛んな校風を作った。このプールは、元は在校生とOBが協力して作った手作りプールを起源としている。1978年頃までは、簡素ながら10mと5mの飛び込み台が有り、男子生徒は卒業までの飛び込み成功を目標としていた。また、大阪府下で数少ない50mプールであり、水球や競泳の大会が行われていたが、後に改装されたときに正確に計測すると、50mに数センチ足りなかった事が判明したらしい。 茨木市役所前の元茨木川緑地にかかる「高橋」の欄干の四隅には、かわいいキャラクターにされた茨木童子の像がある。
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