安定した銀行勤務に別れを告げ、社員数30名の企業へ。そこは意味の分からない専門用語が飛び交う未知の世界で、出会う人はとてつもなく優秀な人ばかり —— 。マネックス証券の代表取締役社長・清明祐子さんが20代で経験した転職ストーリーは、自分自身の世界を広げて成長につなげたいという飽くなき欲求から実現したものでした。不安を抱えながら踏み出した転職を「正解だった」と振り返る清明さんに、当時の思いを語っていただきました。
1号案件はあるけど2号案件はない。銀行の新たな可能性を知った部門
「もっと金融の世界について学びたいんです」
銀行で定期的に巡ってくるローテーションの異動先として、私は直属の上司や支店長に本部への異動希望を出していました。
2001年に新卒で三和銀行(当時)に入行した私は大阪の梅田支店に配属され、法人営業として中小企業を担当し、数字で評価される日々を過ごしていました。特に何か強い志向があって銀行を就職先に選んだわけではありません。誰しも似たようなものかもしれませんが、学生の頃はそこまで深く考えていたわけでもなく、たまたまゼミの先輩たちの多くが銀行へ就職してリクルーターとなっていたので、そこからの縁でたどり着いた進路だったんです。
そうして社会人となった私は、お金を貸すか、決済商品を売るか、それとも外貨預金を売るかといった形で、差別化が難しい商品をひたすら営業していました。そのうちに感じるようになったのは「私は金融の知識やスキルをどこまで身につけられているんだろうか?」という漠然とした疑問でした。
チャンスを得たのは3年目が終わる頃。支店での3年間を過ごした後、私は研修生としてストラクチャード・ファイナンスを手がける部門を経験しました。
そこは顧客先となる法人の財務状況や戦略展開を踏まえ、個別のニーズに合うファイナンスを提案していく部門です。優秀な人たちがたくさんいて、「営業としていくら売り上げるか」という世界しか知らなかった私にとっては大きなカルチャーショック。プロダクトアウトで売るだけではなく、お金の貸し方や返済方法などをオーダーメイドで設計し、「1号案件はあるけど2号案件はない」という仕事をする人たちの集団だったのです。
大きな可能性を感じた私は、研修生を務めた後に「この部門に残りたい」と希望しました。
「何もやっていないのに文句ばかり言う人間」にはなりたくない
「2001年入行」というとピンと来る方もいるかもしれませんが、私は三和銀行の最後の新卒組です。
私が入行してからちょうど1年後の2002年4月、三和銀行は東海銀行と合併して「UFJ銀行」となりました。入行前の段階ですでに報道されていましたが、私は「プロレス団体みたいで銀行っぽくない名前だなぁ」と思ったくらいで(笑)、ネガティブな思いはありませんでした。
とはいえ三和銀行から約100人、東海銀行から約100人、計200人の優秀な同期が切磋琢磨をしていたので、し烈な競争環境だったことも事実です。営業としてのモヤモヤを感じながらも、「やるべきことをやらないと次に行けない」「営業なんだからとにかく数字を上げよう」と思って成果を出していきました。
目の前のことをやらずに次はない。
これは今でも強く思っていることです。目の前のことを全力でやらない限り、周囲に次のことを語っても信憑性を感じてもらえないし、下手をすれば「何もやっていないのに文句ばかり言う人間」になってしまう。だから、結果を出してからものを言うべきだと常に考えてきました。
そんな考え方をするようになったのは、私が育った家庭環境に要因があるのかもしれません。
私は長女で、両親にとって初めての子どもだったのにも関わらず、ほとんど規則がない環境で育ちました。父親からはよく「最後まであなたを守ることはできないし、人生はあなたのものだから、自分で考えて行動しなさい」と言われていました。
小学生の頃から門限なし。「何かあっても自分で責任を取りなさい」と言われ、その言葉の意味をよく考えずに「ラッキー」と思って遅くまで外で遊んでいました。すると辺りがすっかり暗くなって怖い思いをするのですが、迎えになんて来てもらえません。そこで「これが自分の責任ということなんだ」と学んだわけです。選択の結果はすべて自分の責任なのだと。
勉強や習い事で、両親から「やれ」と言われたことは一度もありません。でも、自分から「やりたい」と言ったことはやらせてもらえました。自分で決めて、自分でゴールを設定する。ある程度究めたと思えば次に行く。そうしないと何も与えられないし、自分で考えてものを言わなければならない。
高校入試も大学入試も、就職先を選ぶときも、両親には一切相談していません。「三和銀行に決めたよ」と報告しただけでした。
大企業から30人規模のファンドへ。覚悟を決めて動いた理由
入行から6年目、28歳の頃の私は、再生案件にも携わっていました。
銀行にもできることに限界はあります。あまり大きなリスクアセットは持てません。そのため外資系投資銀行やファンドの方々とともに仕事をする機会が増えていき、自然と私は新しい世界に触れてきました。
銀行が提供するのはデット(※)であり、企業の戦略が決まってからお金を貸すかどうかの判断をします。しかし、企業再生を含む企業経営では、その手前にある戦略をどう描いていくか、いかに実行していくかが重要となります。「私は物事の道筋が決まった後の資金供与に関する仕事しかできていないのかもしれない」と感じてから、経営やエクイティの世界に強い興味を持つようになっていったんです。(※)銀行借入や社債などによって調達される他人資本
そんなときに転職エージェントから紹介されて出会い、転職先として選んだのが、プライベートエクイティファンドを運営するMKSパートナーズでした。
当時、銀行からプライベートエクイティファンドへ転職するのはレアなケースだったと思います。実際にMKSパートナーズに在籍する人の多くはコンサルティングファーム出身か、MBAを取った後に転職してきたような人たちでした。
それでも私が転職を決意したのは、定期的に訪れる銀行の人事異動での「次」が思い描けなかったからです。当時いたポジションが本当に楽しかったからこそ、それ以上にワクワクできる仕事があるとは想像できませんでした。当時の三菱東京UFJ銀行(現三菱UFJ銀行)は海外事業も縮小気味。なかなか広がりが見えない時期でもありました。
とはいえ初めての転職なので、不安もたくさんありました。まったく知らない世界へ移り、しかも大企業から30人規模のファンドへの転職です。面接ではほとんど全員とお会いしましたが、とてつもなく優秀な人たちが集まっていて、「自分は本当にやっていけるのだろうか」と感じていました。
転職後は案の定、苦労の連続です。最初のうちは職場の人たちが何を言っているのか、専門用語の意味すらも分かりません。
「デュ、デューデリジェンス……?」といった具合です(笑)。
銀行にいたときには調査部があったので、自分で業界や企業を調査することはありませんでした。しかし MKSパートナーズではすべてを自分自身で調べ、適正かどうかを判断しなければいけません。
心が折れそうになる瞬間もありましたが、私は人に恵まれていました。そのときも社内に私のことを気にして声をかけてくれる先輩たちがいたので、困っていることも気軽に相談できました。
そうして成長できたあの転職は、今振り返ってみても正解だったと思います。
銀行ではファイナンス商品を提案して契約書も作るという業務を経験し、間接金融の世界で学べることは学べたという思いがありました。「納得いくまでできた」という実感があったからこそ、新しい世界での学びを求め、覚悟を決めて動けたのでしょう。
しかし、私にとって本当に貴重だったファンドでの学びの期間は、長くは続きませんでした。予期せぬ変化は転職から2年後の2008年、リーマン・ショックによって引き起こされました。
※後編に続く
清明祐子: マネックス証券株式会社 代表取締役社長
大阪府出身。京都大学経済学部卒。新卒で三和銀行(現三菱UFJ銀行)に入行し、法人営業およびストラクチャード・ファイナンスに従事。2006年12月からMKSパートナーズ(プライベートエクイティファンド)に参画し、バイアウト投資実務およびポスト・マージャー・マネジメントを経験。2009年2月にマネックス・ハンブレクト(2017年にマネックス証券と統合)入社、2011年に同社社長に就任。2013年マネックスグループ執行役員、2016年同社取締役、2017年マネックス証券執行役員、2018年マネックスグループ常務執行役兼マネックス証券副社長執行役員。2019年4月よりマネックス証券代表取締役社長(現任)。2019年11月マネックスグループ常務執行役チーフ・オペレーティング・オフィサー(COO)を経て、2020年1月マネックスグループ代表執行役COOに就任(現任)。
[編集・取材・文] 多田慎介 [撮影] 稲田礼子
iXキャリアコンパスより転載(2020年3月10日公開の記事)