日本で「当事者」として発言するとは、歴史修正主義に加担することだった。
- 作者: 中西正司,上野千鶴子
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2003/10/22
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当事者論の界隈で、上野千鶴子のような前提が共有されているなら
「自分に不都合なことも受け止めて、そのうえで内在的に考えてみよう」という私のスタンスは、居場所を持たないことになる。
自分の問題を考えようとする努力が見下されるだけなら
私は、企業・医師・活動団体・学者 etc. に、利用されただけだったわけか。彼らは基本的に、自分の問題を考えようとはしない。ただ「自分の問題を考えざるを得なくなった人」をネタにして、業績と正義を誇示するだけ。
こうなってみてようやく気付いたのだが
私が共有してほしかったのは、自分を内側から検討してみようという、その動詞形のスタンスそのものであって、私を「当事者」という名詞形に監禁する発想ではない。
医師や学者は、呻吟する私を外部から観察して業績にするだけであって、自分でその作業スタイルを共有したりはしない。たんに私を「マイノリティ」として擁護すれば、それだけでPC的正義を満たしたことになる。*1
弱者だけが自分を考え直す作業を背負わされるなら、それは実質的に差別の形をしている。学者や医師を含む「強者たち」がその任を負わなくて良いというなら。そして、自分を考え直す努力が見下されるなら、あらゆる場所に「ひたすら他罰的なだけの言説」が はびこるのも当然。*2
弱者を名乗るほうが有利な場面では「弱者」を名乗り*3、知的優位が必要な場面では「学者」を名乗る*4――これを都合に合わせてくるくる使い分け、おのれが学者を名乗るときにはマイノリティ側の言うことはいっさい聞かない*5――この差別的な卑劣さ。学者だろうがマイノリティだろうが、場面に応じた加担責任は問われざるを得ないはず。
たとえば、「すべてはマジョリティのせいだ(≒私はマイノリティゆえに、あるいはマイノリティの権利を代弁しているゆえに自省を拒絶できる)」と主張する人が、
「私の発言は学問だ、だから自省は要らない」と言い張り、そのうえ自分に不利な情報は出さないというなら――その人は、もはや無敵を気取ることになる。
無敵を気取ること、つまり歴史修正こそが「当事者のニーズ」であり、
左派はそれに応えているのか?