2007-07-01から1ヶ月間の記事一覧
マジョリティ側の社会生活には、無自覚的なアリバイが詰まっている。 属性レベルで弱者のそばに近寄ること*1は、それ自体がアリバイ作りでしかない場合がある。つまり、ある種の当事者性にすり寄るように迎合すること。それは、自分の当事者性を黙殺して、誰…
本人が、自分で自分のリアリティを扱えなくなっている*1。 社会契約という観点から言えば、交渉主体としては対等だから、「当事者なんぞ知るか」というのは当然。このレベルでは、語り手の属性は何でもいい。わざわざ特別に考える必要があるのは、社会的に規…
上記『Soui』の集まりでは、「男」は私ひとりで、あとは「女性」が4人だったのだが、 なんというか・・・ 非常にラクだった。 「オトコであること」を強要されないのが、こんなにラクだとは。 私がこれまで持っていた女性への苦手感情は、「オトコであること…
7月21日、女性を中心とした不登校経験者(30歳前後以上)の場である『Soui』例会にお邪魔(参照)。貴戸理恵氏も来られていて、私の批判についてやや緊張感をもって議論を交わす。 貴戸氏からのレスポンスは以下の通り。(「上山に理解できたのはこういう意…
たいへん説得的な浅田彰氏の発言。 生命が絶対だってことを別の方向へもっていくと、医療技術が進めばいくらでもムダな延命治療をしちゃうことにもなる。いや、ムダって言えるかどうかは難しいよ。だけど、どう見ても自宅の畳の上で死んだほうが幸せなのに、…
(1)交渉条件の改編 (制度的な非対称性) (2)交渉能力の向上 (プレイヤーとしての主体化) (3)責任の明確化 (強者の問題でもある) この3つは、相互に入り組んでいる。各人ごとに、案件ごとに、そのつど分節するしかない。 「自分だけは当事者性を…
「自分は特別だ」というナルシシズム 幼児性 独りよがり ストーカー性 責任転嫁 「当事者」とは、ほんらい交渉主体としての独立性や責任を問題にしているにすぎない(「されるがまま」や「なし崩し」への拒否)。 近代社会の根本に立ち返ろうというだけの話…
《当事者》とは、そもそもが交渉主体の問題系だ。単なる社会適応も、単なる自己の特権化も、交渉主体として未熟すぎる。 「子供であり続けるためのスキル」というタイトルを知ったとき、正直私は、困惑を隠せなかった。《当事者》というフレームにこだわると…
「自分たちは、特権的に正しいのだ」。これこそが、内ゲバや不当な暴力の温床となる幼児性だ。 そこで重要なのは、「正しさ」を掲げるかどうか、ではなくて、自分たちの「正しさ」に対して違う意見を差し向けてくる人びとを、どう扱うか、ということじゃない…
《当事者》というポジションが、あくまで関係性においてのみ成り立つものであることについては、貴戸自身が次のように語っている(強調は引用者)。 しかしそれは、当事者というものを「何らかの本質や実態を共有する集合としてではなく、あくまでも行為者相…
不適応の記憶は、まずは譲ることのできない倫理的な固執として、肯定される。しかしそれは、被支援者と支援者(研究者)が、持ちつ持たれつの選民的ナルシシズムの構図を安定させたり、それを押し付けたりするためではない。不適応者の置かれた状態(「その…
そこまで論じた上で、次の件を再引用しておく。これは今後の課題だ。 自分自身は、安全な場所に立って、犠牲者たちに同情し、彼らに理想を投影することの欺瞞性が、議論を弛緩しきったものに見せていたのです。言語行為論の用語を使えば、これは執行的矛盾の…
これは具体的には、法律行為ができるか否か、あるいはその発言が論文等の執筆主体として承認され得るか(社会的な手続きに乗り得るか)で問われ得る。 たとえば未成年者や精神障害者は、単独では法律行為を行なえない(参照:「制限行為能力者」)。前記「当…
その断念は、「私の一番大切な核の部分」(p.188)について、無条件に《存在》として肯定されることをあきらめることで、過去の自分をも、対等な交渉関係に巻き込むことだ*1。 社会参加できない子供時代の自分(私の一番大切な核の部分)を《存在》として絶…
【貴戸理恵 『コドモであり続けるためのスキル』について 1】からの続き
「自分の問題を、自分の言葉で語る」というチャレンジは、社会的な逸脱を経験したことのない人にも開かれている。(むしろ社会的な力を持っている人たちの自己分析こそ、有益であるかもしれない。そのような「当事者研究」を為す人が増えれば増えるほど、こ…
「擁護される側の自分」と、「その自分を対象化する自分」との関係は、貴戸にあっては、すでに「Nさん問題」として論点化していた(参照)。 貴戸のデビュー作『不登校は終わらない―「選択」の物語から“当事者”の語りへ』は、不登校経験者へのインタビュー取…
貴戸が「コドモであり続ける」と主張するとき、そこで守られようとしているのは、不登校状態にあった小学校時代の彼女自身だ(本書の冒頭は、不登校時代の彼女の経験が『長くつしたのピッピ (こども世界名作童話)』に重ねて追想される)。 貴戸は、今でも自…
むしろその部分は、「自分以外のつらくなっている人を受け入れる」ことで、免除されているようにすら見える。 「コドモであり続ける」ことは、「次の世代のことを考える」ことと、ぜんぜん矛盾しないんだね。それは、「だって、コドモだもーん」と「義務」や…
就職して税金を納め、結婚して家庭を持ち、社会の中で期待される役割をこなしてゆく存在のことを、ここでは「一人前のおとな」と呼んでおこう。(p.35) おとなになるとは、単に順応することであり、「自分の問題を、自分の言葉で語る」ことがないとされる。…
この本では、「コドモである」ということが、「当事者である」ことに重ねられる。 この本が目指してきた「コドモであり続けるためのスキル」の、一番のカギになるところは、「自分の問題を、自分の言葉で語る」ということだった。(p.180) 貴戸の取り組みの…
はじめに 不登校経験者の立場から不登校を研究する貴戸理恵は、デビュー作『不登校は終わらない―「選択」の物語から“当事者”の語りへ』以来、《当事者》という言葉のフレームにこだわり続けている。 以下では、貴戸の著書『コドモであり続けるためのスキル (…
終わりの来た精神分析を施設(フランス語で書けば établissement)に持ち込む。なるほどそれは期待されるべきことである。そこでは、おおむね次のようなことに配慮がなされるだろう。「純粋精神分析の二者関係の中で生じる転移と応用された現場で生じる転移…
ひきこもっている人は、交渉主体としては極端に無能で脆弱な状態にあるが、実際に生き延びている以上、何らかの「力関係」を生きる当事者といえる(参照)。 問題は、そこで生きられる力の構造が、本人の意識を実体化する形で硬直していること*1。 その力関…
「家族の契約化」を論じておられた大村敦志(おおむら・あつし)氏に、『生活のための制度を創る―シビル・ロー・エンジニアリングにむけて』というご著書がある。 そのアマゾンのレビューに、以下のような説明が(参照)。 本書の主題は、このような「制度」…
ひきこもり経験を持ち、現在は『情報センターISIS 』スタッフを勤める梅林秀行氏の記述より(強調は引用者): そうして(社会参加を)強く願えば願うほど、イメージされた社会は若者の頭の中でますます確固とした存在となっていきます。確固としつつ、さら…
これまでのさまざまな議論の中から、ここでは社会保障に頼らず、互助努力に限定したアイデアのみが記されている*1。 個々のアイデアの検証には、心理・人文的な理解だけでなく、経済的・法的な理解が必須になる。個人の継続的な社会参加については、心理面だ…
「一番住んでみていいと思った国は?」 「ムショに入った事があるワル集まれー(^o^)ノ」 「今までやった中で、最悪だったアルバイトって何?」 ずっと以前、「餓死するしかない状況に置かれたら、軽犯罪でもおかして刑務所に入るしかない」というコメントをいた…
「世の中甘くないぞ! 社会に出る前に学んでおくべき12のこと」(『Lifehacking.jp』) 【はてブ】 「社会に出た後で学んでおくべき12のこと」(『finalventの日記』) 【はてブ】 「社会に出た後で自分が学んだ12のこと」(『眠れない理由2.0』) 【はて…
「有能なプログラマの特徴を思いつくまま列挙してみる」(『劇場管理人のコメント』) 私はプログラムについては何もわからないのですが、話の整理というか、比喩として。 要求自体をシンプル化する 過剰に人生論にしてグチャグチャにしてしまう人。過剰に不…