《当事者主権》*1という言い方は、いまだ完全に「カテゴリーの主権化」という形を取っている。 「<女性>参政権」と同じように、<当事者>は、静態的カテゴリーとして確保される。 それぞれの弱者カテゴリー*2が、<当事者>枠を得る。
私の目指していることを強いて言葉にすれば、《分析主権》とでもなる。 静態的カテゴリーではなく、動きの中にある動きに権限を与えようとしている。 抑圧されて止まっているものを、分析過程がふたたび活性化に巻き込む。 その分析の労苦が、過程が過程として抵抗し、主権化されること。――こういう言葉づかい自体が、すでに法学の伝統を逸脱していると感じる。 《主権》という概念の歴史に、動態化やプロセス中心主義は組み込まれていない*3。 法と政治の概念操作自体が体質改善しなければならないのではないか、と感じ始めている。
上野千鶴子らのように、属性で人をカテゴリー化してその枠内にある人が「ニーズ」を言い始めると、特権的ポジションが固定されたまま要望を出すばかりになる。――これでは、自分自身を巻き込んだ状況そのものへの分析過程が中心化されることがない。 上野はニーズを口にすることによる動態化を語っているが*4、そこでは主権化はあくまで静態的カテゴリーに生じている。 属性で特権化された個人が、恣意的ニーズを口にしているのだ。 自分を含み込んだ状況への分析は、カテゴリー特権のナルシシズムを毀損もするため、むしろ忌避される。
静態的カテゴリーが主権化されるとき、動態化の分析過程は排除される。 既存の当事者論は、すべて「カテゴリーの主権化」でしかなく、だから動いているうちに属性が変わっておかしなことになる(労働運動しているうちに高給の正社員になったり、非モテ運動しているうちに恋人ができたり*5)。 本当に必要なのは、いまの関わりの中で自らを当事者化することであって、弱者であるかどうかはどうでもいい。
実際に生きている関係に介入することが必要なのだから、むしろ強者にこそ当事者性を発揮してもらわなければどうしようもない。 とはいえそこで、彼らは言うだろう:「すでにやっています」。――だから問題は、《当事者化》のあり方だ。 みずからを発言や行動の主体にするとき、どんな当事者化労働を想定しているか。 私は、人の「カテゴリー」にではなく、分析の「動き」にこそ抵抗の権利を考えようとしている*6。
権利論を、静態的カテゴリー中心から、動態的なプロセス中心に変えようとしている。
社会的ひきこもりの支援論としては、それが必要だ――臨床的に(参照)。