グレマスの行為者モデルは、あらゆる言述(discours)の根底にある意味作用を説明できることを企図していて、扱えるのは魔法昔話のような物語や神話だけではない。
行為者モデルの復習
行為者モデル Le modèle actantiel(行為者図式Le schéma actantiel)を知らないと始まらないので、簡単に復習しておく※。
※フランスの国語教育だと、コレージュ第1学年(日本の小学校6年生~中学3年生までの4年間が中等教育前期のコレージュに当たる)の教科書に登場する。
(参考)飯田伸二(2013)「教科書のなかのお伽話 : 国語教科書編集理念解明のためのノート」『Stella』32, pp.123-136, http://ci.nii.ac.jp/naid/120005372218
ロシアの魔法昔話を100話分析して魔法昔話を構成する要素として31の〈機能〉を抽出したプロップは、魔法昔話の登場人物を次の7つに類型化している。
1.加害者、2.贈与者、3.援助者、4.王と王女、5.委任者、6.主人公、7.ニセの主人公
グレマスの行為者モデル Le modèle actantielは、登場人物相互の相関関係に注視し、テニユールの統辞論やスーリオ『二十万の演劇状況』の演劇《機能》の目録を参照しつつ、プロップの7類型を整理しなおしたものである。
グレマス プロップ 送り手 王と委任者 対象 王女 受け手 主人公 援助者 援助者と贈与者 主体 主人公 敵対者 加害者とニセの主人公
構成要素の点から見ると、主人公が「主体」と「受け手」に分けられたことと、援助者と贈与者が「援助者」にまとめられた以外に違いはないが、重要なのは、グレマスが6つの行為者を次の3つの軸によって密接に関連付けている点である。
欲望の軸 Axe du vouloir (désir)
「主体」は「対象」を欲する
例:円卓の騎士は聖杯を求めて旅立つ
プロップがもたらした知見で最も重要なのは、魔法昔話の主人公がかならず何かを求めて行動する(探索の旅に出る)という指摘である。
主人公が求めるのは、たとえば竜によって奪われた王女であり、地下世界や地の果てに隠された魔法の宝である。
グレマスはこれを受け継ぎ、「主体」と「対象」の間に成立する関係、言い換えると、欲望するものと欲望されるものの間に成立する関係を、欲望の軸として行為者の図式Schéma actantielの中央に置く。
「主体」は普通、物語ではその主人公であり、「対象」は主人公が求め、手に入れようとするもの(宝とか愛とか)である。
伝達の軸 Axe de la transmission(communication)
「対象」は「送り手」から「受け手」へ向かう
「送り手」は「受け手」に「対象」を約束する
例:王様は姫を勇者に与える
(物語のはじめでそう約束し、
物語のおわりで約束は履行される)
プロップでは〈主人公〉という一人の登場人物であったがものが、グレマスが分けた「主体」と「受け手」に分けられている。
実は、プロップが分析した魔法昔話は、ほぼ例外なく「主体」と「受け手」が融合した、ある意味、特殊なジャンルなのである。
しかし「対象」を求める「主体」が、最後には必ず「対象」を受け取るとは限らない。
例えば、プロメテウス(という「主体」)は、火(という「対象」)を求めるが、彼はその火を人類に与える。つまり、このプロメテウスの物語では「受け手」は人類ということになる。
何故、この軸が伝達(transmission / communication)の軸と呼ばれるのか。
魔法昔話に戻ってこのことを考えよう。
たとえば、王様はただ気まぐれに姫を勇者に与えるのではない。事前に、王様は「竜によって奪われた王女を取り戻してきた者を王女の婿とする」と触れを出す。
勇者は名乗りを上げ、王様は上記のお触れを追認し、勇者が成功した場合のことを約束する。
冒険が終わり、成功を収めた勇者に対して、王様は約束を果たし、勇者は約束通りに姫を手に入れる。
つまり物語は、「送り手」(今の例では王様)と「受け手」(今の例では勇者)の間の、約束の締結で動き出し、約束の履行で終わる。この約束が、物語(世界)の枠組みを形作り、この枠組によって「主体」が「対象」を求める探索が、物語の中心に据えられるのである。
つまり「送り手」から「受け手」への受け渡し(transmission / communication)は、単なるモノの移動を意味するのではない。それは繰り返しなされるコミュニケーションであり、結び直されるコミットメントである。だからこそ物語世界に秩序と構造を与える。
能力の軸 Axe du pouvoir
「主体」は「補助者」に助けられ、「反対者」に邪魔される。
例:よい魔法使い(あるいはアイテム)が主人公を助ける
わるい魔法使いが主人公を邪魔する
魔法昔話では、勇者(=「主体」)の冒険(探索)は、よき魔法使いや魔法アイテムによる援助を得て進み、わるい魔法使いや様々な障害/試練によって邪魔されるだろう。
ところで「補助者」と「反対者」は両義的であり、魔法昔話でも、物語の最中でしばしば入れ替わりさえする。
というのも、何が〈助け〉であり〈邪魔〉であるかは、「対象」へ向かう「主体」の願望とのかかわり合いにおいて、益になる、あるいは害になると判断されるからである。
(出典)
Sémantique structurale (3e édition) A.J. Greimas
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構造意味論―方法の探求 A.J. グレマス
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今この邦訳は品薄だが、今回の話程度なら「行為項モデルに関する考察」(『構造意味論―方法の探求』邦訳p.223-251、これ以降「邦訳」と頁数で参照箇所を示す)で足りる。
復習を終えたら、物語の外へ赴こう。
哲学という探求(クエスト)
出発点として、グレマス自身が例に挙げている〈古典の世紀〔17-18世紀フランス〕の哲学者 〉※を取り上げてみる。
※邦訳p.234-5
魔法昔話で勇者に割り当てられた役割は、ここではもちろん〈哲学者〉に割り振られる。「主体」である〈哲学者〉は、「対象」である〈世界〉を(知ることを)欲している。
その探求の枠組みを与えるのは、「送り手」である〈神〉が「受け手」である〈人類〉に対して結ぶ約束である。すなわち「対象」である〈世界〉は、〈神〉によって送り出され、〈哲学者〉の探求の対象は、やがて〈人類〉が受け取ることが予定されている。
そうした「主体」である〈哲学者〉を助けるのは「補助者」である〈精神〉である。〈物質〉は西洋哲学の伝統的に〈精神〉に対立し、〈哲学者〉の認識を邪魔する「反対者」として扱われている。
つまるところ(古典の世紀の)哲学とは、「送り手」である〈神〉と「受け手」である〈人類〉がつくる枠組みの中で、「主体」である〈哲学者〉が、〈世界〉を「対象」として行うクエストである。
図式化というものはそういうものなのだが、分かりやすいことは分かりやすいけれど、実に身も蓋もないことになっている。
あらゆる言述を取り扱いたいとはいえ、ちょっとやり過ぎな感じもするが、そのおかげで似たようなものをいくつも思いつくことができる。
キリスト教の基本構造
たとえば、キリスト教について同様の図式を描いてみるなら、こんな感じになるだろう。
※夏目絵美(2001)「生命の契約:『マタイによる福音書』を読んで」を参考にした
「主体」である〈キリスト〉は、「送り手」である〈神〉にかわって、「受け手」である〈人類〉に、「対象」である〈永遠の生命〉を授ける。
ここで〈恩寵〉が「主体」を助ける「補助者」であり、〈罪〉が「主体」を邪魔する「反対者」である。
細かい要素を剥ぎとってしまったので、先に触れた哲学者の探求が、焼き直しのように、キリスト教の基本構造と重なり合うのを見ることができる。
〈恩寵〉を〈精神〉に、〈罪〉を〈物質〉に、置き換えることはさほど抵抗感をおぼえる作業ではない。
「対象」である〈永遠の生命〉が、つまるところ〈救済の教え〉に他ならないことを思い出せば、哲学者が目指す〈世界の認識〉との間に、違いよりむしろ同型性が見て取れる。
マルクス主義のめざすもの
これもグレマスがやっているものだが※、マルクス主義についての図式を並べてみるとこうなる。
※邦訳 p.235
「送り手」は彼岸に住まう超越者ではなく、人の織りなす〈歴史〉である。ただし図像化にあたっては、ギリシア神話に登場する文芸の女神ムーサたちの1人、「英雄詩」と「歴史」を司るクリオΚλειώ, Kleiōを用いた。
「送り手」である〈歴史〉が、「受け手」である〈人類〉に約束するのは〈階級のない社会〉であり、「主体」である〈人間〉(図像化にあたっては直截に〈革命家〉のイメージを使った)は、この〈階級のない社会〉を「対象〉として求める。
もちろん「補助者」は〈労働者階級〉、「反対者」は〈ブルジョワ階級〉である。
ビジネスプランの図式
グレマスはさらに、ビジネスプランを語る投資家へのインタビューを素材に、次のような図式を挙げている※。
※邦訳 p.238
「主体」である〈投資家〉の投資行動に前提を与えるのは、契約の自由など経済活動を支える経済制度である、これが「送り手」となる。
少し興味深いのは、魔法昔話の〈勇者〉とちがって、(少なくとも自己陳述のなかでは)〈投資家〉は「主体」と「受け手」を兼ねない。つまり〈勇者〉は求めた〈財宝〉や〈姫〉を自分のものにするのに、〈投資家〉は求める「対象」の最終的な受け取り手ではない、と主張する。
〈投資家〉によれば、「受け手」は〈企業〉自身であり、〈企業〉が受け取るもの、そして「主体」である〈投資家〉が求める「対象」は、企業が存続し将来にわたって(無期限に)事業を継続していくことそのもの、だという。
つまり、「主体」と「受け手」が融合していた魔法昔話と違って、ここでは「対象」と「受け手」が融合しているのである。
投資行動に対する「補助者」は、当然ながら投資に先立って行われる各種の調査であろう。
これに対してグレマスが挙げる例では、「反対者」には何故だか〈科学技術の発展〉が現れる。
「主体」を挟んで、対立する「補助者」と「反対者」の関係を念頭に置いて考えると、次のように理解できるかもしれない。
調査は、投資対象とすべきある企業の、他のライバル企業に対する優位性(強み)を探し当てるだろう。こうして調査は、投資家の助けとなる(「補助者」)。
対して、〈科学技術の発展〉は社会全体のレベルで生じ、一企業から見れば優位性の前提の変更、(そのまま有効な対応ができなければ)優位性の陳腐化・喪失につながる。それ故、調査が見つけ出した投資機会を押し流すものになり得る(「反対者」)。
科学研究という営み
いくつかの図式を見てきたので、自然科学研究について同様の図式を描くことはさほど難しくはない。
科学研究とは、〈自然〉という送り手と〈科学者コミュニティ〉という受け手が創りだす枠組みの中で、〈科学者(科学研究者)〉という主体が、〈発見〉という対象を目指すクエストである。
哲学者のクエストを祖型としているが(自然というテキストを通じて神の存在を読み解こうとする、自然哲学を源流とするので当然である)、科学を科学たらしめているのは、何を求めるか(その「対象」)ではなく、どのように求めるかによる。つまり〈科学的方法論〉である。
〈科学的方法論〉は、科学者のクエストを、科学研究を助ける「補助者」であるが、その出処は〈科学者コミュニティ〉である。
実際には、〈科学者コミュニティ〉への新規参加者が〈科学者コミュニティ〉の中で揉まれる中で科学研究に必要な〈科学的方法論〉を身につけていく。
では科学研究において「反対者」を何か。
いろいろありすぎて短く表現するのが難しいが、ここでは諸々をひっくるめることができそうな、フランシス・ベーコンのイドラを持ってくることで決着をつけた。
ベーコンは、観察と実験の重要性を説く一方で、実験・観察には誤解や先入観、あるいは偏見がつきまとうことにも注視し、人間が錯誤に陥りやすい要因を分析し、『ノヴム・オルガヌム』の中で4つのイドラにまとめている。
種族のイドラ(自然性質によるイドラ)
人間の感覚における錯覚や人間の本性にもとづく偏見で、人類一般に共通してある誤り
洞窟のイドラ(個人経験によるイドラ)
個人の性癖、習慣、教育や狭い経験などによってものの見方がゆがめられる、各個人がもつ誤り
市場のイドラ(伝聞によるイドラ)
社会生活や他者との交わりから生じる、言葉の不正確ないし不適当な規定や使用によって引き起こされる偏見
劇場のイドラ(権威によるイドラ)
先行する思想や学説によって生じた誤りや権威や伝統を無批判に信じることから生じる偏見
さて、図式の中のイドラの図像は、4つの中の特に〈劇場のイドラ〉に合わせてある。
科学研究における〈劇場のイドラ〉は、科学的方法と同様に、科学者コミュニティに由来するものである。
魔法昔話に立ち戻って、「補助者」と「反対者」は物語の最中でさえ、しばしば入れ替わりさえする両義的なものであったことを思い出せば、研究者に力を与え科学研究を可能にする〈科学的方法〉と科学研究を阻害する〈劇場のイドラ〉もまた、科学史の中で入れ替わり得ることに思い至る。
むしろ、この両者はいつでも明確に分けることができる訳ではなく、少なくともその一部は、クーンがいうパラダイムのように、ある時期には研究を助ける「補助者」であったものが、別の時期には研究を邪魔する「反対者」となり得る。クーンに与するなら、その移り行きこそが科学史のダイナミズムを形成する、とすら言える。
そうして、「補助者」から「反対者」への移り行き(あるいはその逆の移行)は、科学史の大きな流れの中でだけ生じるのでもなく、一研究者の研究生活の中ですらしばしば生じている。
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