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2013.02.11
この国を知る、見る、振り返るための岩波文庫青帯(日本前近代篇)40冊
では、約束の岩波文庫青帯の日本篇、その前半の前近代篇である。
概ね初出/成立の年代順に40冊を選んだ。
日頃あまりやらないことだが、〈日本〉あるいは〈日本を知ること〉を強く意識して選んだので、いろんな意味で偏向がある。だが偏りを避けて通るならブックリストなんてやめておけばいいのだ。
西洋篇で選んだ書物ほどの知名度はないが(その意味でニーズは相対的に低いかもしれない)、かえって選書はこちらの方が楽しかった。
例によって、青帯に限ったことから、古事記や新井白石や本居宣長など、黄帯にある重要な書物を選ぶことが選ぶことができなかった。
聖徳太子による著作であることを信じるなら、推古天皇への御前講義をもとに、推古17(609)年から19(611)年にかけて撰述したものと伝えられ、邦人の手に成った日本最古の書物である。
よって、このリストはここから始めなくてはならない。
勝鬘経は、ヒロインであるシュリーマーラーが活躍する仏教教典で、出家していない者をして在家仏教思想を語らしめる大乗仏教の重要な経典のひとつ。
勝鬘経義疏はその注釈書である。在家信者である維摩詰が、ブッタの十大弟子や菩薩たちをボコボコに論破する維摩経についても、聖徳太子は注釈書『維摩経義疏』を書いている。
比叡山横川の恵心院の僧都であった源信が985年(寛和1)に撰述した書。
多数の経論を引用して念仏実践の指南書だが、冒頭に壮絶な地獄描写を含み、後世に与えた影響は仏教にとどまらず、広く文学・美術等に及び、最も多くの人に読まれた仏書だとも言われる。
浄土教の発展に伴って普及し,念仏結社や講会において本書が読まれ、念仏修行とともに地獄のイメージを広く知らしめた。法然はこの書によって浄土教に入り、後年『往生要集釈』など4種の注釈書を書いている。
文学では『栄華物語』『十訓抄』『宝物集』などがが多くのモチーフを得て、美術でも迎接形の阿弥陀像や聖衆来迎図あるいは六道図や地獄変相図などが本書の影響下に成立した。
日本曹洞宗の開祖である道元が嘉禎年間(1235‐38)、門下の僧俗に対して日常語った修行の心がまえを、道元の侍者だった懐弉が聞くに随って筆録したもの。
懐弉が門下に加わったのは、道元が京都郊外の深草に興聖寺が開いてまだ2年目で、これから曹洞宗が起ち上がっていくところをつぶさに描いている。
弟子たちは、当時の仏教界でも独特だった、道元の教えと行動についていけないものを感じることも多かったらしく、道元はその都度、弟子の悩みに応え、自身が考える仏教のあり方を噛んで含んで説明している。
体系的でも、理論的でもないが、懐弉は自分が聞いたとおりに平易な文章で筆記しており、道元のいきいきとした姿のとともに、彼が捉えていた当時の仏教界の状況をも伝える。
時宗の開祖、踊り念仏の一遍は、死の直前「一代聖教皆つきて,南無阿弥陀仏になりはてぬ」と言って所持していたすべての書籍などを焼き捨ててしまったので、著作も何も残っていない。
一遍没後10年目に、一遍の近親でもあり高弟でもあった聖戒と、やはり一遍の身近にあったと思われる円伊が、おそらく数名の画家を動員し報恩報徳の念をこめて、一遍の諸国遊行・布教の生涯を記録した伝記絵巻を制作した。奥書には正安1年(1299)8月,聖戒が詞書をつくり、円伊が絵を描いたとある。
一遍が遍歴した各地の風物や社寺の景観(ものすごく正確)、武士・猟師・漁民や陸上・水上の運送業者,琵琶法師のような漂泊芸能者、社会の底辺に生きる人びと(農民はあまり出てこない)の暮らすあり様など、四季おりおりの詩情あふれる自然景、あるいは京の街の喧騒の中に緊密細心の筆で写し出されている。
親鸞の語録。弟子唯円の編(親鸞が死してより30年の後、鎌倉時代後期、西暦1300年前後)といわれる。
多分、日本仏教どころか、仏教が生んだ最強傑作のひとつ。
仏典仏語を使わない、やわらかい話し言葉で繰り出される、思考を逆流させるような、逆説に見えかねないフレーズの数々は、親鸞が素でやってるように見えるだけに(ニーチェのように、どうしたって力こぶ作ってやってるだろお前、というのが見えないだけに)破壊力を増すので、日本人の心をとりこにしてきた。
そこへいくと(引き合いに出して悪いが)、妻子も家も万事捨離した出家の形で往生するのは下の器で、一番いいのは妻子をもち家にありながらもそれに執着しないで往生することだと言いつつ、やっぱり自分は妻子や家に執着しちゃうので、万事を捨てて漂泊するしかない(断食とか入水往生とか、古い仏教メソッドに戻ってしまう)のが一遍なら(詩人かお前は)、「いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし(どんな修行にもたえられない私だし、結局、地獄が決まった住み家なのよね)」と抜け抜けと言ってしまうのが親鸞クオリティ(「僕は弱虫やし」と森毅が言うたびに、ここの下りを思い出した)。
その手前ではこうも言ってる。
「念仏やると地獄に落ちると、おどす人がいますけど、念仏で浄土に行けるか地獄に落ちるか、親鸞は知りません。でも法然上人にだまされて念仏で地獄に落ちても、私は後悔しませんよ。他の修行したら浄土に行けたかも、というなら後悔しようもありますけど」
「『親鸞、おまえ、念仏以外にも往生できるやり方を知ってるだろ』とおっしゃるのですか? 大きな誤解です。そういうことが聞きたいなら、南都(奈良の興福寺などの諸大寺)や、北嶺(比叡山延暦寺)なんかに、すぐれた先生がたくさんいらっしゃいますから、その人々にでもお会いになり、往生についての要点を十分にお聞きになるのがいいんじゃないですか」。
どちらが普通の意味で悪人か、火を見るより明らかである。
世阿弥著。応永7 (1400) 年から同9年頃に、亡父観阿弥の教えを祖述した能楽の芸術論、芸を生業とする者の成長段階と一生をかけたトレーニング法を述べた秘伝書。
他に、物まねとして女、老、直面、物狂、法師、修羅、神鬼、唐事に分けて述べ、演能の注意、芸の花の工夫を追求。さらに能の歴史と家芸の尊厳などから、能作論,幽玄論に及ぶ。
7歳より 50歳頃までを7期に分けて稽古の仕方を論じた箇所、〈年来稽古條々〉では、人間が自然に最も美しいのはローティーンの頃だけれど、その頃の美は〈時分の花〉であって年齢が過ぎれば失われる。変声期が過ぎ,体つきも変わると、その〈花〉が失われたことで壁にぶち当たるが、ここで無理なトレーニングをすると体に悪いクセがつき、声も年をとるとダメになる。
24,5歳くらいになると(この頃を能では〈初心〉という)声もからだも整って、舞台の上でも目立つ様になり、共演しても名人に勝つことだってあるが、これはかえって本人のためにならない。芸とはこんなものと見くびって、年齢のメリットというものは刻々と失われていることに気付かぬまま歳をとって駄目になる。年上の芸を越えることがあっても一時の〈花〉と思い知って、稽古を弥増しにするのが肝心。
34,5歳となれば、トレーニングとして上達する芸としてはピークに達する。この時までに名声が得られぬなら世間が悪いのではなく、自分が〈真の花〉を究めてないのだと反省して努めなくてはならない。
44,5歳になれば、名声を得た人も有能なパートナーを持って、歳相応に控えめに演じるべき。そしてこの頃になって失せない美を〈真の花〉という。
50余となれば、目立つところは〈初心〉の者にゆずって、老人向けのものを少な少なにやっていけば、老木に枝葉はなくなろうとも、花は散らず残るように〈真の花〉を保つことができる。これを〈老骨に残りし花〉という。
これは外国人の手になる初の日本紀行である。
応永の外寇(応永26(1419)年)の後、室町幕府から李氏朝鮮へ送った使者に対して、朝鮮から回礼使として派遣され宋希璟が、漢城(ソウル)〜京都間を往復した旅を記したもの。
博多は夜盗が跋扈し、貧窮の村を捨てて海を渡るものが後を耐えず、瀬戸内海は海賊の巣で船から見える家はすべて海賊の家であり、花の京都は売春婦であふれ男の倍の数の女がいる、良民の半分は出家して僧侶ばかり、この国は大丈夫なのかと記す一方、近畿地方の三毛作(麦→稲→蕎麦)をあげてその農業技術と生産性の高さも看過しないこの書は、15世紀日本社会を活写してやまない。
この書はまた、利害と面子、意地と恨みがぶつかり合う仲、戦争になりかけている両国(宋希環のこの書を読むと、李氏朝鮮は、室町幕府と九州と対馬を、それぞれ別の利害を抱える外交相手として捉えていたことが分かる)の関係を調停しようとし、元が滅びて亡命してきた帰化中国人2世や、倭寇に囚われ日本に住み着いた中国人、禅僧などと交渉し協力し意見をぶつけ合いながら、なんとかそれに成功した外交の記録でもある。
日本66国2島を五畿七道の8群に分け、その地勢とともに人情・風俗・気質を述べた地誌。
著者は北条時頼説があるが未詳。成立年代は記事内容から16世紀前半と推定される。
国ごとに言葉の響きや気質の印象を記しており、特に武士の性向を批判的に述べたところがおもしろい。何故だか信濃国の武士には好意的で、そのせいか武田信玄の愛読書だった。
江戸初期,『五畿内志』を編した関祖衡がこれに地図を付し、「暖気のところの人は柔弱,寒気のところの人は堅固」等と、気候から住民の気質を説明する注釈を加えて『新人国記』として刊行した。
吉田光由が著した江戸時代初期の通俗算学書。
塵劫とは、この世の土を細かく砕いて粉にしたものを千の国を通るたびに一粒ずつ落としていきその砂がなくなるまでに通る国の数のことで、数えきれないくらい大きな数のたとえで、長い時間経っても変わることのない書という意味を込めているとする者もいる。
この、当時としては最高の内容を懇切ていねいに説明された絵入り教科書は爆発的な売行きを示し、著者の没後も続けて、数学書のベストセラーかつロングセラーとなった。江戸時代を通してもっとも読まれた本の一つといわれ、分野を越えて江戸時代の多くの学者に影響を与えた。後に和算の大家となった関孝和や儒学者の貝原益軒なども、若いころ『塵劫記』で数学を独習した。また学者のみならず、懇切丁寧な説明と非常に多い挿絵のおかげで、民衆にも広く愛された。さらに内容を多少変えた異本が多数出版され、明治時代に至るまで実に300-400種類の『塵劫記』が出版されたといわれている。
1641年に出された美濃半裁の小型三巻本には、その最後に答えをつけない12題の問題(いわゆる遺題)を載せたが、これより別の数学者が解き,著書を著わして答え、みずからの問題を提出して残す遺題継承の習慣が生まれた。これが元になって日本の数学は飛躍的に進歩した。
1619年に来日し、日本各地(主に九州地方)で布教に従事したスペイン人宣教師コリャードが、宣教師達の日本語学習のため、日本人キリシタンの懺悔をまとめて出版したもの。コリャードは他に『日本文典』『日本語辞典』なども著している。
ポイントは、当時の日本人の話し言葉とその口調を、ローマ字表記で記している、つまり「音」で丁寧に拾ってるところ。17世紀の日本人は、こんな口調で喋っていたんだ、というのが分かる貴重な資料である。
さて『懺悔録』は、いわゆる十戒ごとに編集してある。すなわち
一、御一体のデウスを敬ひ貴び奉るべし
二、貴き御名に掛けて空しき誓ひすべからず
三、ドミンゴ祝ひ日を勤め守るべし
四、汝の父母に孝行すべし
五、人を害すべからず
六、邪淫を犯すべからず
七、偸盗すべからず
八、人に讒言を掛くべからず
九、他の妻を恋すべからず
十、他の宝をみだりに望むべからず
に対応するよう、各章が組まれているのだが、包み隠さずの罪の告白であって、詐欺、強盗、殺人、姦通、強姦……と内容はひどい。あらゆる変態性欲の宝庫、『今昔物語』の本朝世俗編や『宇治拾遺物語』よりも、ひどい。
例えば、「六番の御掟について」(邪淫を犯すべからず)の冒頭から。
なお、岩波文庫は、日本語で読めるようにしてある。

「某(それがし)、女房を持ちながら、近付き〔関係〕も持ちまらした。その妾(てかけ)も夫のある者でおじゃる。そうござれば、二様の妨げがあって、望みのままにそれと科(とが)に落ちまらせいで、ただ調備次第に至しまらした。数はえ覚えねども、一月には二・三度もあり、一度もあり、ないこともござる。また、主(ぬし)の夫留守でござる時は、日を続けて細々(さいさい)犯しまらする。とかく仕合せ〔機会〕に会い寄りまらした。さりながら、若輩の時からその女(おなご)を見知ったところで、気があまりそれに付きまらして遥々〔長いこと〕のことなれば、コンヘンション〔懺悔〕の時分に、パテレ様〔神父様〕よりとかく「それを止(や)めい、くっと閣(さしお)け」と仰せられて、味方〔自分〕からも随分力の及び、もう早かつてあるまいと定めたれども、弱い者なれば、その後重ね重ねに落ちまらした。これはもう七・八年のことでござるによって、御推量めされよ。この中に、契りのよい仕合せがない時は、それに〔欲望に〕随って、なり次第、その五体に手を掛け、口を吸い、抱き、恥〔恥部〕を探ること等(とう)は思うままにしまらする。とかく余(み)に任せていらるると、心得させられよ。また、夫婦の契り〔性交〕の時分にも、あの女〔浮気相手の女〕に念を掛けて泣いたことは度々ござった。また、惣別〔だいたいは〕生得の道よりでござったれども、二・三度は後(うしろ)、臀(しり)から落としまらした。その上、その女事をば思い出(いだ)すごとに勇み悦び、その名残惜しさで自(おのずか)らも淫が漏れ、手ずからも漏らしまらした。これは前のコンヘンションの以後、七・八十度でござろうまで。」
日本の陽明学の祖、中江藤樹が、まさに朱子学から陽明学に転じた時期の思想形態がうかがえる書。
先日、家人に陽明学って何?と尋ねられたが、結局「儒教の中のプロテスタント」という説明(?)が一番しっくりきたようだった。
外的な儀礼的規範に型どおりに従うのではなく、自分の内面(心)の道徳的可能性を信頼し行動していくことを、藤樹はこの書で「心学」という言葉で概念化している。
陽明学は以後、幕末の志士に至るまで、数多の思想的行動者を生み出す源泉となった。
思想家には、〈行って帰ってこない者〉と、〈行って帰ってきた者〉がいる。伊藤仁斎は後者の典型である。
頃は元禄、ところは京都、青年期に『朱子』を独学することからその学問を始め、その『敬斎箴』に傾倒して敬斎と号した。29歳で松下町に隠棲してから陽明学を講じ、そこから老荘と仏教に入りこんで、対人道徳(人倫の道)は浅薄でいうに足らぬと考えるまでになった。それから再び儒教に戻ってきて、『仁説』を書き、号も仁斎と改めた。
儒教に戻っては来たが、そこで至った思想は、『朱子』を読み込んでいた時とは、よほど違っていた。
仁斎の自分の塾を古義堂、その学を古義学と呼ぶのは,朱子その他の後人の注釈を排して、直接『論語』と『孟子』の本文を読解すべきと主張し、実践するからである。
仁斎は、『論語』と『孟子』を徹底的に読み抜くことで(その字義ひとつひとつを明らかにし、文章の作り方まで会得し、その思考プロセスをトレースすることで)、封建制の身分秩序を支える上下関係の儒教道徳を、仁愛と人情が呼応する水平関係の社交倫理に組み替えた。あるいはこうも言える。世の人が自分の生活の注釈として読めるよう、『論語』『孟子』を我々が暮らす地上へと引き戻した。
仁斎の主著は、したがってその経書研究(『語孟字義』『論語古義』『孟子古義』など)だが、彼はそれらとは別に、自身の学問の方法や道徳・政治について考えるところを紙片に1条ずつ書き溜め、テーマ別に整理して、死ぬまで増補改訂を続けていた。仁斎の学問の精華はしたがって、子どもに問われるままに解き語る形でまとめられた、もっともやさしいこの『童子問』にこそある。
貝原益軒も儒家だが、それよりも博物家であり、またそれよりも「民生日用の学」を志す民間教育家だった。
朱子学者として『近思録備考』を書き、晩年は朱子学への疑念をまとめ『大疑録』を著した。他に、算数の重要性を説き『和漢名数』(正続)を編集出版し、『黒田家譜』をまとめ、藩内をくまなく練り歩き『筑前国続風土記』を完成させ、また中国の本草体系に飽きたらず、日本の植物を実見して記述し、江戸期本草書中もっとも体系的な『大和本草』をはじめ『花譜』『菜譜』をまとめた。宮崎安貞の『農業全書』の成稿と出版にも助力を惜しまなかった。長崎,京都,江戸への公私のたび重なる旅行から、10種に近い紀行を書いた。各地の自然美,産業地理,考古遺跡にまで及ぶもので、新紀行文学の手本となった。
そして、その幅広い交友と博覧、そして実見で培った博識を、だれでも読める教訓書に注ぎ込んだ。
『和俗童子訓』は、早期教育論や子どもの発達年齢に応じた手習など具体的に説いた、日本最初のまとまった教育論の書であり、寺小屋の教育やその後の教育/教訓書を通じて、日本人のリベラル・アーツ養生に大きな影響を与えた。
『養生訓』は、古来の中国医書から養生に関する語を選び編した『頤生輯要』を元に、それからの取捨選択と、さらに自分の実体験に基づき、養生法を精神・肉体両面から懇切・具体的に述べ、広く読まれた彼の書の中でも、もっとも巷間に広がったもの。
宮本武蔵は「いかに敵を殺すか」についての書を記し、山本常朝は「いかに自分を殺すか」を説いた。
『五輪書』は殺人者としての武士の実践書であり、一方山本常朝をまとめた『葉隠』は奉公人(サラリーマン)としての武士の心得書である。
宮本武蔵は戦(いくさ)を経験していた。殺し合いの中で、えげつなく、みっともなく、生き残る中から武蔵の武芸は形作られた。
その最後の戦から100年、元禄時代は、武士の心がまえが「実戦」から「割腹」へと移行した時代だった。
山本常朝自身は、家君の死にあい、追腹にかわるものとして出家した。その後、元禄以降の鍋島武士の御国ぶりが急速に失われていく現状をみて深く慨嘆し、1710年(宝永7)ついにこの物語を始めた。
儒教的な士道論からみれば、極端というべき尚武思想に貫かれているので、『葉隠』は藩中でも禁書・奇書の取り扱いを受け、公開を禁じられたとの説もある。
荻生徂徠は正しく「『武士道』なるものはない、『武芸』があるだけだ」と言った。しかし「武芸」が失われたところに「武士道」は成立した。
荻生徂徠が将軍徳川吉宗に上呈した意見書であり、享保年間(1716‐36)に成立したと考えられる。
徂徠の高弟である服部南郭の『物夫子著述書目記』(1753)に記載していないことから偽書説も疑われたが、内容が政治上の機密に関係しているため、徂徠は門人にも見せず、自筆のまま上呈する旨を自ら末尾に記している。
この書に盛り込まれた徂徠の政治=社会改革案は、人口の地理的移動及び社会移動を押しとどめることを軸にしている。
兵農分離して武士が都市に集住することで、物資を農村から都市へと移動させなければならず、必然的に人口の都市流入と貨幣経済の発展が生じ、都市居住者は貨幣経済依存の消費生活を余儀なくされている。
この現状を空間的かつ身分的に画することで、貨幣経済への依存からの脱却が可能となるという。具体的には、武士を計画的に農村へと再配置し、また戸籍法確立による全国民を本籍地に束縛し、また身分制度の確立によって貴賤上下の差別に応じた水準の経済生活を成立させることで、社会安定と国家統治の基礎が築かれる、とする。
他にも、これら改革を遂行すべき役人に関して論じ,武家独自の官位・職制の樹立,役人の選任などの課題や現状の欠陥について見解を述べる。また儀礼・行刑・民政・教学など多方面にわたって当面の問題点を評論している。
提言の方向性は復古的だが、現状把握と問題分析は的確で、自然の趨勢の中に成立してきた慣例や習俗を(好き嫌いでなくマクロな構造から)否定し、これを人為的計画的に改革することを主張するところが、良い意味でも悪い意味でも〈近代的〉である。
謎の著者、武陽隠士によって書かれた、江戸時代後期(1816)年)に書かれた社会批判の書。
「武士、百姓、寺社人、医業、陰陽道(おんみょうどう)、盲人、公事(くじ)訴訟、町人、遊里売女(ばいた)、歌舞伎(かぶき)、米穀雑穀其外(そのほか)諸産物、日本神国、非命に死せる者、土民君の事」などに分け、それぞれについて痛烈な批評を加えているが、見聞の内容そのものは詳細かつ具体的で,江戸後期の社会を知る好史料である。
遣手婆(やりてばばあ)の記述など、
「売女を責め遣ふ事,先づ心の懈怠起らざるやうとて、常々食事をも得と給べさせず、夜の目も眠らで客の機嫌をとるやうにと、時々に改め、もし眠りたる体か、又は愛敬の宜しからざる体の見ゆる時は、厳しく叱り責むるなり」。
乱暴に言うと、平田篤胤は、江戸時代の小室直樹である。
概ね初出/成立の年代順に40冊を選んだ。
日頃あまりやらないことだが、〈日本〉あるいは〈日本を知ること〉を強く意識して選んだので、いろんな意味で偏向がある。だが偏りを避けて通るならブックリストなんてやめておけばいいのだ。
西洋篇で選んだ書物ほどの知名度はないが(その意味でニーズは相対的に低いかもしれない)、かえって選書はこちらの方が楽しかった。
例によって、青帯に限ったことから、古事記や新井白石や本居宣長など、黄帯にある重要な書物を選ぶことが選ぶことができなかった。
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聖徳太子による著作であることを信じるなら、推古天皇への御前講義をもとに、推古17(609)年から19(611)年にかけて撰述したものと伝えられ、邦人の手に成った日本最古の書物である。
よって、このリストはここから始めなくてはならない。
勝鬘経は、ヒロインであるシュリーマーラーが活躍する仏教教典で、出家していない者をして在家仏教思想を語らしめる大乗仏教の重要な経典のひとつ。
勝鬘経義疏はその注釈書である。在家信者である維摩詰が、ブッタの十大弟子や菩薩たちをボコボコに論破する維摩経についても、聖徳太子は注釈書『維摩経義疏』を書いている。
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比叡山横川の恵心院の僧都であった源信が985年(寛和1)に撰述した書。
多数の経論を引用して念仏実践の指南書だが、冒頭に壮絶な地獄描写を含み、後世に与えた影響は仏教にとどまらず、広く文学・美術等に及び、最も多くの人に読まれた仏書だとも言われる。
浄土教の発展に伴って普及し,念仏結社や講会において本書が読まれ、念仏修行とともに地獄のイメージを広く知らしめた。法然はこの書によって浄土教に入り、後年『往生要集釈』など4種の注釈書を書いている。
文学では『栄華物語』『十訓抄』『宝物集』などがが多くのモチーフを得て、美術でも迎接形の阿弥陀像や聖衆来迎図あるいは六道図や地獄変相図などが本書の影響下に成立した。
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日本曹洞宗の開祖である道元が嘉禎年間(1235‐38)、門下の僧俗に対して日常語った修行の心がまえを、道元の侍者だった懐弉が聞くに随って筆録したもの。
懐弉が門下に加わったのは、道元が京都郊外の深草に興聖寺が開いてまだ2年目で、これから曹洞宗が起ち上がっていくところをつぶさに描いている。
弟子たちは、当時の仏教界でも独特だった、道元の教えと行動についていけないものを感じることも多かったらしく、道元はその都度、弟子の悩みに応え、自身が考える仏教のあり方を噛んで含んで説明している。
体系的でも、理論的でもないが、懐弉は自分が聞いたとおりに平易な文章で筆記しており、道元のいきいきとした姿のとともに、彼が捉えていた当時の仏教界の状況をも伝える。
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時宗の開祖、踊り念仏の一遍は、死の直前「一代聖教皆つきて,南無阿弥陀仏になりはてぬ」と言って所持していたすべての書籍などを焼き捨ててしまったので、著作も何も残っていない。
一遍没後10年目に、一遍の近親でもあり高弟でもあった聖戒と、やはり一遍の身近にあったと思われる円伊が、おそらく数名の画家を動員し報恩報徳の念をこめて、一遍の諸国遊行・布教の生涯を記録した伝記絵巻を制作した。奥書には正安1年(1299)8月,聖戒が詞書をつくり、円伊が絵を描いたとある。
一遍が遍歴した各地の風物や社寺の景観(ものすごく正確)、武士・猟師・漁民や陸上・水上の運送業者,琵琶法師のような漂泊芸能者、社会の底辺に生きる人びと(農民はあまり出てこない)の暮らすあり様など、四季おりおりの詩情あふれる自然景、あるいは京の街の喧騒の中に緊密細心の筆で写し出されている。
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親鸞の語録。弟子唯円の編(親鸞が死してより30年の後、鎌倉時代後期、西暦1300年前後)といわれる。
多分、日本仏教どころか、仏教が生んだ最強傑作のひとつ。
仏典仏語を使わない、やわらかい話し言葉で繰り出される、思考を逆流させるような、逆説に見えかねないフレーズの数々は、親鸞が素でやってるように見えるだけに(ニーチェのように、どうしたって力こぶ作ってやってるだろお前、というのが見えないだけに)破壊力を増すので、日本人の心をとりこにしてきた。
そこへいくと(引き合いに出して悪いが)、妻子も家も万事捨離した出家の形で往生するのは下の器で、一番いいのは妻子をもち家にありながらもそれに執着しないで往生することだと言いつつ、やっぱり自分は妻子や家に執着しちゃうので、万事を捨てて漂泊するしかない(断食とか入水往生とか、古い仏教メソッドに戻ってしまう)のが一遍なら(詩人かお前は)、「いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし(どんな修行にもたえられない私だし、結局、地獄が決まった住み家なのよね)」と抜け抜けと言ってしまうのが親鸞クオリティ(「僕は弱虫やし」と森毅が言うたびに、ここの下りを思い出した)。
その手前ではこうも言ってる。
「念仏やると地獄に落ちると、おどす人がいますけど、念仏で浄土に行けるか地獄に落ちるか、親鸞は知りません。でも法然上人にだまされて念仏で地獄に落ちても、私は後悔しませんよ。他の修行したら浄土に行けたかも、というなら後悔しようもありますけど」
「『親鸞、おまえ、念仏以外にも往生できるやり方を知ってるだろ』とおっしゃるのですか? 大きな誤解です。そういうことが聞きたいなら、南都(奈良の興福寺などの諸大寺)や、北嶺(比叡山延暦寺)なんかに、すぐれた先生がたくさんいらっしゃいますから、その人々にでもお会いになり、往生についての要点を十分にお聞きになるのがいいんじゃないですか」。
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世阿弥著。応永7 (1400) 年から同9年頃に、亡父観阿弥の教えを祖述した能楽の芸術論、芸を生業とする者の成長段階と一生をかけたトレーニング法を述べた秘伝書。
他に、物まねとして女、老、直面、物狂、法師、修羅、神鬼、唐事に分けて述べ、演能の注意、芸の花の工夫を追求。さらに能の歴史と家芸の尊厳などから、能作論,幽玄論に及ぶ。
7歳より 50歳頃までを7期に分けて稽古の仕方を論じた箇所、〈年来稽古條々〉では、人間が自然に最も美しいのはローティーンの頃だけれど、その頃の美は〈時分の花〉であって年齢が過ぎれば失われる。変声期が過ぎ,体つきも変わると、その〈花〉が失われたことで壁にぶち当たるが、ここで無理なトレーニングをすると体に悪いクセがつき、声も年をとるとダメになる。
24,5歳くらいになると(この頃を能では〈初心〉という)声もからだも整って、舞台の上でも目立つ様になり、共演しても名人に勝つことだってあるが、これはかえって本人のためにならない。芸とはこんなものと見くびって、年齢のメリットというものは刻々と失われていることに気付かぬまま歳をとって駄目になる。年上の芸を越えることがあっても一時の〈花〉と思い知って、稽古を弥増しにするのが肝心。
34,5歳となれば、トレーニングとして上達する芸としてはピークに達する。この時までに名声が得られぬなら世間が悪いのではなく、自分が〈真の花〉を究めてないのだと反省して努めなくてはならない。
44,5歳になれば、名声を得た人も有能なパートナーを持って、歳相応に控えめに演じるべき。そしてこの頃になって失せない美を〈真の花〉という。
50余となれば、目立つところは〈初心〉の者にゆずって、老人向けのものを少な少なにやっていけば、老木に枝葉はなくなろうとも、花は散らず残るように〈真の花〉を保つことができる。これを〈老骨に残りし花〉という。
![]() | 老松堂日本行録―朝鮮使節の見た中世日本 (岩波文庫) 宋 希環 岩波書店 売り上げランキング : 208242 Amazonで詳しく見る |
これは外国人の手になる初の日本紀行である。
応永の外寇(応永26(1419)年)の後、室町幕府から李氏朝鮮へ送った使者に対して、朝鮮から回礼使として派遣され宋希璟が、漢城(ソウル)〜京都間を往復した旅を記したもの。
博多は夜盗が跋扈し、貧窮の村を捨てて海を渡るものが後を耐えず、瀬戸内海は海賊の巣で船から見える家はすべて海賊の家であり、花の京都は売春婦であふれ男の倍の数の女がいる、良民の半分は出家して僧侶ばかり、この国は大丈夫なのかと記す一方、近畿地方の三毛作(麦→稲→蕎麦)をあげてその農業技術と生産性の高さも看過しないこの書は、15世紀日本社会を活写してやまない。
この書はまた、利害と面子、意地と恨みがぶつかり合う仲、戦争になりかけている両国(宋希環のこの書を読むと、李氏朝鮮は、室町幕府と九州と対馬を、それぞれ別の利害を抱える外交相手として捉えていたことが分かる)の関係を調停しようとし、元が滅びて亡命してきた帰化中国人2世や、倭寇に囚われ日本に住み着いた中国人、禅僧などと交渉し協力し意見をぶつけ合いながら、なんとかそれに成功した外交の記録でもある。
![]() | 人国記・新人国記 (岩波文庫) 浅野 建二 岩波書店 売り上げランキング : 450937 Amazonで詳しく見る by AZlink |
日本66国2島を五畿七道の8群に分け、その地勢とともに人情・風俗・気質を述べた地誌。
著者は北条時頼説があるが未詳。成立年代は記事内容から16世紀前半と推定される。
国ごとに言葉の響きや気質の印象を記しており、特に武士の性向を批判的に述べたところがおもしろい。何故だか信濃国の武士には好意的で、そのせいか武田信玄の愛読書だった。
江戸初期,『五畿内志』を編した関祖衡がこれに地図を付し、「暖気のところの人は柔弱,寒気のところの人は堅固」等と、気候から住民の気質を説明する注釈を加えて『新人国記』として刊行した。
![]() | 塵劫記 (岩波文庫) 吉田 光由,大矢 真一 岩波書店 売り上げランキング : 219086 Amazonで詳しく見る by AZlink |
吉田光由が著した江戸時代初期の通俗算学書。
塵劫とは、この世の土を細かく砕いて粉にしたものを千の国を通るたびに一粒ずつ落としていきその砂がなくなるまでに通る国の数のことで、数えきれないくらい大きな数のたとえで、長い時間経っても変わることのない書という意味を込めているとする者もいる。
この、当時としては最高の内容を懇切ていねいに説明された絵入り教科書は爆発的な売行きを示し、著者の没後も続けて、数学書のベストセラーかつロングセラーとなった。江戸時代を通してもっとも読まれた本の一つといわれ、分野を越えて江戸時代の多くの学者に影響を与えた。後に和算の大家となった関孝和や儒学者の貝原益軒なども、若いころ『塵劫記』で数学を独習した。また学者のみならず、懇切丁寧な説明と非常に多い挿絵のおかげで、民衆にも広く愛された。さらに内容を多少変えた異本が多数出版され、明治時代に至るまで実に300-400種類の『塵劫記』が出版されたといわれている。
1641年に出された美濃半裁の小型三巻本には、その最後に答えをつけない12題の問題(いわゆる遺題)を載せたが、これより別の数学者が解き,著書を著わして答え、みずからの問題を提出して残す遺題継承の習慣が生まれた。これが元になって日本の数学は飛躍的に進歩した。
![]() | コリャード 懺悔録 (岩波文庫) コリャード,大塚 光信 岩波書店 売り上げランキング : 243097 Amazonで詳しく見る by AZlink |
1619年に来日し、日本各地(主に九州地方)で布教に従事したスペイン人宣教師コリャードが、宣教師達の日本語学習のため、日本人キリシタンの懺悔をまとめて出版したもの。コリャードは他に『日本文典』『日本語辞典』なども著している。
ポイントは、当時の日本人の話し言葉とその口調を、ローマ字表記で記している、つまり「音」で丁寧に拾ってるところ。17世紀の日本人は、こんな口調で喋っていたんだ、というのが分かる貴重な資料である。
さて『懺悔録』は、いわゆる十戒ごとに編集してある。すなわち
一、御一体のデウスを敬ひ貴び奉るべし
二、貴き御名に掛けて空しき誓ひすべからず
三、ドミンゴ祝ひ日を勤め守るべし
四、汝の父母に孝行すべし
五、人を害すべからず
六、邪淫を犯すべからず
七、偸盗すべからず
八、人に讒言を掛くべからず
九、他の妻を恋すべからず
十、他の宝をみだりに望むべからず
に対応するよう、各章が組まれているのだが、包み隠さずの罪の告白であって、詐欺、強盗、殺人、姦通、強姦……と内容はひどい。あらゆる変態性欲の宝庫、『今昔物語』の本朝世俗編や『宇治拾遺物語』よりも、ひどい。
例えば、「六番の御掟について」(邪淫を犯すべからず)の冒頭から。
なお、岩波文庫は、日本語で読めるようにしてある。

「某(それがし)、女房を持ちながら、近付き〔関係〕も持ちまらした。その妾(てかけ)も夫のある者でおじゃる。そうござれば、二様の妨げがあって、望みのままにそれと科(とが)に落ちまらせいで、ただ調備次第に至しまらした。数はえ覚えねども、一月には二・三度もあり、一度もあり、ないこともござる。また、主(ぬし)の夫留守でござる時は、日を続けて細々(さいさい)犯しまらする。とかく仕合せ〔機会〕に会い寄りまらした。さりながら、若輩の時からその女(おなご)を見知ったところで、気があまりそれに付きまらして遥々〔長いこと〕のことなれば、コンヘンション〔懺悔〕の時分に、パテレ様〔神父様〕よりとかく「それを止(や)めい、くっと閣(さしお)け」と仰せられて、味方〔自分〕からも随分力の及び、もう早かつてあるまいと定めたれども、弱い者なれば、その後重ね重ねに落ちまらした。これはもう七・八年のことでござるによって、御推量めされよ。この中に、契りのよい仕合せがない時は、それに〔欲望に〕随って、なり次第、その五体に手を掛け、口を吸い、抱き、恥〔恥部〕を探ること等(とう)は思うままにしまらする。とかく余(み)に任せていらるると、心得させられよ。また、夫婦の契り〔性交〕の時分にも、あの女〔浮気相手の女〕に念を掛けて泣いたことは度々ござった。また、惣別〔だいたいは〕生得の道よりでござったれども、二・三度は後(うしろ)、臀(しり)から落としまらした。その上、その女事をば思い出(いだ)すごとに勇み悦び、その名残惜しさで自(おのずか)らも淫が漏れ、手ずからも漏らしまらした。これは前のコンヘンションの以後、七・八十度でござろうまで。」
![]() | 翁問答 (岩波文庫) 中江 藤樹,加藤 盛一 岩波書店 売り上げランキング : 106417 Amazonで詳しく見る by AZlink |
日本の陽明学の祖、中江藤樹が、まさに朱子学から陽明学に転じた時期の思想形態がうかがえる書。
先日、家人に陽明学って何?と尋ねられたが、結局「儒教の中のプロテスタント」という説明(?)が一番しっくりきたようだった。
外的な儀礼的規範に型どおりに従うのではなく、自分の内面(心)の道徳的可能性を信頼し行動していくことを、藤樹はこの書で「心学」という言葉で概念化している。
陽明学は以後、幕末の志士に至るまで、数多の思想的行動者を生み出す源泉となった。
![]() | 童子問 (岩波文庫 青 9-1) 伊藤 仁斎 岩波書店 売り上げランキング : 60313 Amazonで詳しく見る |
思想家には、〈行って帰ってこない者〉と、〈行って帰ってきた者〉がいる。伊藤仁斎は後者の典型である。
頃は元禄、ところは京都、青年期に『朱子』を独学することからその学問を始め、その『敬斎箴』に傾倒して敬斎と号した。29歳で松下町に隠棲してから陽明学を講じ、そこから老荘と仏教に入りこんで、対人道徳(人倫の道)は浅薄でいうに足らぬと考えるまでになった。それから再び儒教に戻ってきて、『仁説』を書き、号も仁斎と改めた。
儒教に戻っては来たが、そこで至った思想は、『朱子』を読み込んでいた時とは、よほど違っていた。
仁斎の自分の塾を古義堂、その学を古義学と呼ぶのは,朱子その他の後人の注釈を排して、直接『論語』と『孟子』の本文を読解すべきと主張し、実践するからである。
仁斎は、『論語』と『孟子』を徹底的に読み抜くことで(その字義ひとつひとつを明らかにし、文章の作り方まで会得し、その思考プロセスをトレースすることで)、封建制の身分秩序を支える上下関係の儒教道徳を、仁愛と人情が呼応する水平関係の社交倫理に組み替えた。あるいはこうも言える。世の人が自分の生活の注釈として読めるよう、『論語』『孟子』を我々が暮らす地上へと引き戻した。
仁斎の主著は、したがってその経書研究(『語孟字義』『論語古義』『孟子古義』など)だが、彼はそれらとは別に、自身の学問の方法や道徳・政治について考えるところを紙片に1条ずつ書き溜め、テーマ別に整理して、死ぬまで増補改訂を続けていた。仁斎の学問の精華はしたがって、子どもに問われるままに解き語る形でまとめられた、もっともやさしいこの『童子問』にこそある。
![]() | 養生訓・和俗童子訓 (岩波文庫) 貝原 益軒,石川 謙 岩波書店 売り上げランキング : 75892 Amazonで詳しく見る |
貝原益軒も儒家だが、それよりも博物家であり、またそれよりも「民生日用の学」を志す民間教育家だった。
朱子学者として『近思録備考』を書き、晩年は朱子学への疑念をまとめ『大疑録』を著した。他に、算数の重要性を説き『和漢名数』(正続)を編集出版し、『黒田家譜』をまとめ、藩内をくまなく練り歩き『筑前国続風土記』を完成させ、また中国の本草体系に飽きたらず、日本の植物を実見して記述し、江戸期本草書中もっとも体系的な『大和本草』をはじめ『花譜』『菜譜』をまとめた。宮崎安貞の『農業全書』の成稿と出版にも助力を惜しまなかった。長崎,京都,江戸への公私のたび重なる旅行から、10種に近い紀行を書いた。各地の自然美,産業地理,考古遺跡にまで及ぶもので、新紀行文学の手本となった。
そして、その幅広い交友と博覧、そして実見で培った博識を、だれでも読める教訓書に注ぎ込んだ。
『和俗童子訓』は、早期教育論や子どもの発達年齢に応じた手習など具体的に説いた、日本最初のまとまった教育論の書であり、寺小屋の教育やその後の教育/教訓書を通じて、日本人のリベラル・アーツ養生に大きな影響を与えた。
『養生訓』は、古来の中国医書から養生に関する語を選び編した『頤生輯要』を元に、それからの取捨選択と、さらに自分の実体験に基づき、養生法を精神・肉体両面から懇切・具体的に述べ、広く読まれた彼の書の中でも、もっとも巷間に広がったもの。
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宮本武蔵は「いかに敵を殺すか」についての書を記し、山本常朝は「いかに自分を殺すか」を説いた。
『五輪書』は殺人者としての武士の実践書であり、一方山本常朝をまとめた『葉隠』は奉公人(サラリーマン)としての武士の心得書である。
宮本武蔵は戦(いくさ)を経験していた。殺し合いの中で、えげつなく、みっともなく、生き残る中から武蔵の武芸は形作られた。
その最後の戦から100年、元禄時代は、武士の心がまえが「実戦」から「割腹」へと移行した時代だった。
山本常朝自身は、家君の死にあい、追腹にかわるものとして出家した。その後、元禄以降の鍋島武士の御国ぶりが急速に失われていく現状をみて深く慨嘆し、1710年(宝永7)ついにこの物語を始めた。
儒教的な士道論からみれば、極端というべき尚武思想に貫かれているので、『葉隠』は藩中でも禁書・奇書の取り扱いを受け、公開を禁じられたとの説もある。
荻生徂徠は正しく「『武士道』なるものはない、『武芸』があるだけだ」と言った。しかし「武芸」が失われたところに「武士道」は成立した。
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荻生徂徠が将軍徳川吉宗に上呈した意見書であり、享保年間(1716‐36)に成立したと考えられる。
徂徠の高弟である服部南郭の『物夫子著述書目記』(1753)に記載していないことから偽書説も疑われたが、内容が政治上の機密に関係しているため、徂徠は門人にも見せず、自筆のまま上呈する旨を自ら末尾に記している。
この書に盛り込まれた徂徠の政治=社会改革案は、人口の地理的移動及び社会移動を押しとどめることを軸にしている。
兵農分離して武士が都市に集住することで、物資を農村から都市へと移動させなければならず、必然的に人口の都市流入と貨幣経済の発展が生じ、都市居住者は貨幣経済依存の消費生活を余儀なくされている。
この現状を空間的かつ身分的に画することで、貨幣経済への依存からの脱却が可能となるという。具体的には、武士を計画的に農村へと再配置し、また戸籍法確立による全国民を本籍地に束縛し、また身分制度の確立によって貴賤上下の差別に応じた水準の経済生活を成立させることで、社会安定と国家統治の基礎が築かれる、とする。
他にも、これら改革を遂行すべき役人に関して論じ,武家独自の官位・職制の樹立,役人の選任などの課題や現状の欠陥について見解を述べる。また儀礼・行刑・民政・教学など多方面にわたって当面の問題点を評論している。
提言の方向性は復古的だが、現状把握と問題分析は的確で、自然の趨勢の中に成立してきた慣例や習俗を(好き嫌いでなくマクロな構造から)否定し、これを人為的計画的に改革することを主張するところが、良い意味でも悪い意味でも〈近代的〉である。
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謎の著者、武陽隠士によって書かれた、江戸時代後期(1816)年)に書かれた社会批判の書。
「武士、百姓、寺社人、医業、陰陽道(おんみょうどう)、盲人、公事(くじ)訴訟、町人、遊里売女(ばいた)、歌舞伎(かぶき)、米穀雑穀其外(そのほか)諸産物、日本神国、非命に死せる者、土民君の事」などに分け、それぞれについて痛烈な批評を加えているが、見聞の内容そのものは詳細かつ具体的で,江戸後期の社会を知る好史料である。
遣手婆(やりてばばあ)の記述など、
「売女を責め遣ふ事,先づ心の懈怠起らざるやうとて、常々食事をも得と給べさせず、夜の目も眠らで客の機嫌をとるやうにと、時々に改め、もし眠りたる体か、又は愛敬の宜しからざる体の見ゆる時は、厳しく叱り責むるなり」。
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乱暴に言うと、平田篤胤は、江戸時代の小室直樹である。
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