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     データの「発生」を管理下における「実験レポート」と異なり、人文系の研究の場合、その語源に近く「与件・与えられたもの」でのやりくりを半ば強いられる。
     もちろん資料は努めて蒐集されるが、「残っていないもの」については断念するしかない。

     こうした条件の下、論文執筆の手がとまるのは、構成の破綻か資料の不足が原因である。
     そして、しばしば、構成の破綻は、ただ知力の不足のみならず、資料の豊逸によっても引き起こされる。
     同じように資料の不足は、構成プランの作り込み過ぎが、しばしばその原因となる。

     一方は、資料の豊かさに対して、論旨および構成がシンプル過ぎて、資料が盛り込めず溢れ出している。
     主張を裏付ける資料もあれば、否定する資料もある。
     議論の口を早く占め過ぎてしまったのか。
     無論、論旨に逆らう資料をばっさり切って捨てる手もある。
     守勢に回りすぎる論文は、批判を封じるには長けていても、ほぼ学問的には無である。
     きちんとサポートされる必要があるが、極端な主張の方が(あるいは批判しやすい論文の方が)、結局のところ、学問的に寄与する。
     だが、主張の先鋭さとカバリッジは、しばしばトレード・オフの関係にある。理想を言えば、極端な主張でありながら、豊富な資料を切り捨てず、逆にそれらによってもサポートされ、カバリッジが広いものが良いに決まっている。
     早産ぎみの論旨を練りなおすべきかもしれない。

     もう一方は、緻密に作り上げすぎた(あるいは、早過ぎた/仕上げすぎた)構成を、肉付けする資料に事欠いて、骨格ばかりが、寒々しく立ち尽くしている。
     すがすがしいまでの独断論ですら、まだ肉付きがよいくらいだ。
     最初においた前提を支える援軍が少なすぎて、論理の鎖はトートロジー(赤い郵便ポストは赤いの類)にまで漸近し、痩せ細っていく。

     こうした症状にたいする処方は、実は人文系の論文の書き方そのものなのだが、資料志向(ボトムアップ)と論旨・構成志向(トップダウン)の折衷(eclecticism)、両者のアプローチを、そして資料と論旨・構成の間を何度も往復することである。
     ボトムアップ/トップダウン、どちらのアプローチだけよりも、両方を行ったり来たりした方が、収束が速い。
     注意点風に言い直せば、「資料をして語らしめる」あるいは「主張したい論旨と最初に決めた構成に固守する」ことの両方を、純粋なやり方を、少しずつ折り合いがつくところまで「あきらめていくこと」だ(一気にではなく)。
     
     行き当たりばったりに見えるが(そして、ある程度はその通りなのだが)、構成が決まらないと必要な資料が決まらず、資料が揃わないとその構成が維持可能かどうか分からない、という「鶏-卵」的循環は、実のところ、何かを書くときには、誰しもが遭遇するはずの事態なのだ。
     この循環を、どこかで切断可能であるように思えるなら、研究計画通りのデータセットを「発生」してくれる方法(論)が、その分野の研究では「確立」されているからだ。

     望んだ結果が確実に得られるように、あらかじめ試しておく。
     少なくとも一つの測定では確実に結果を出せるように、複数の測定を行う。
     もし最初の統計的分析で有為差が出なければ、別の分析を行う。
     期待していた結果と明らかに矛盾するデータがあれば、そのデータが不適格になるようなバイアスを探す。
     (どんな)小さな結果でも有為差が得られるように、十分な数のケースに対して実験を行う、等々。

     急いで言い添えるが、これは「ズル」ではない(ちょっとそれに近いものも混ぜてしまったが)。

     人文系は、「鶏-卵」的循環を「切断」するのでなく、注意という認知資源を使い切る程度以上のボリュームのある資料と、書き始めには未だ見通せない構成(あるいは仮説/主張)との間の往復運動に組み替え、より大きな循環に開いていく作業を行うことになる。


     次回は、自分の脳だけでは、取り回しに不自由するサイズの資料を、取り扱う道具について。
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