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     司馬遼の小説は、要するに「プロジェクトX」です、「地上の星」です。
     おっさんたちが胸を熱くするのも当然です。逆か、「プロジェクトX」が司馬遼のパクリです。だからあれはどうしたってドキュメンタリーにならない。45分サイズの大河ドラマです。

     司馬遼太郎は、歴史上の大きなキラ星ではなく、知られざる端役を取り上げます。
     たとえば坂本龍馬なんて、実のところ教科書に載せるほどの事績はありません。
     せいぜい「トリビア」でとりあげればいいことばかりです(日本で初めて新婚旅行にいったとか、会社を作ったとか)。
     『龍馬が行く』がなければ、多くの人は海援隊など知らないままだったでしょう。


     さて『花神』という、大河ドラマになった小説があります。
     「はなかみ」ではなく「かしん」と読みます。花咲か爺さんのことです。
     主人公は、大村益次郎、日本近代兵制の父とか事実上の日本陸軍の創始者と云われる人物で、靖国神社に銅像があります。
     やったことは、長州征伐から戊辰戦争まで、幕府側と戦争をやって、全部勝ったことです。立派なものです。
     しかし性格は人好きするタイプではないし、要するに華がないので、マニアはともかく一般人は知りません。地上の星です。コミュニケーション能力に自信がない技術屋さんの、希望の星です。


     先ほど戦争に勝った、と書きましたが、彼は軍人さんだったのでしょうか。

     否。

     もともとは医者のせがれで、自らも医者になり、それも無愛想なので廃業したほどの「地上の星」です。
     もともと大村益次郎など派手な名前でなく(その名前になるのはずっと後です)、もとは村田蔵六といいました。
     彼は蘭学、つまり語学ができたので、幕末で西洋列国がどんどんやってくる世の中、あちらこちらにかり出されます。そして外国の兵学書を翻訳します。

     要するに彼は兵学書を訳した翻訳家でしかありませんでした。

     ですがそれだけで、すでにフランス人のお抱え軍事顧問を抱え、おまけにフランス製の武装をし、フランス式の訓練をうけた幕府軍に勝ってしまいます。しかも、こちらは農民あがりの急拵えの、軍隊と呼ぶのも恥ずかしいような集まりです。それを率いて勝ってしまうのです。

     おそるべき翻訳軍師。

     彼の翻訳は、「読みにくい」ことの代名詞として使われる「翻訳調」ではなく、当時の日本人が自然に飲み込めるまでにこなれていました。
     翻訳の理想とされる「原著者が、もし日本語が書けたとしたらどのように書いただろうか」を達成していた訳です。

     このため彼は直接、農民たちにわかることばで指示することができました。彼らにわかる言葉で訓練し、彼らは「兵士」に鍛え上げていきました。

     一方、幕府軍の軍事顧問はフランス人であり、当然フランス語しか話しません。通訳付きで訓練され、通訳付きで武装され、通訳付きで命令された幕府軍は、大村益次郎のこなれた翻訳の前に、最後まで勝てませんでした。

     幕末ものでは、滅び行く幕府の中でただひとり「物が見えている」役回りを与えられる勝海舟は、すでに長州征伐の際に、あの「翻訳軍師」が長州軍にいると知って、

    「こいつぁ勝てねえ。あいつが訳したものを読んだ事があるが、実際に兵隊が隊列を組み、号令に反応して「捧げ筒」するのが目に見えるようだったぜ」

    みたいなことを言って、このあたりの事情を読者にも分かるようにします。


     幕府が一つの藩に軍事的に破れる事、そして武士が百姓に軍事的に破れる事は、語の意味において画期的でした。まもなく武士の時代が終わり、近代的徴兵制がやがて等しく人々を軍事化することで「国民」なるものを作り上げる、そうした時代の変転が始まろうとしていました。
     翻訳軍師が翻訳し、自家薬籠のものとしたのは、単に戦争の仕方だけでなく、出身身分を問わず(すなわち平民から)国民軍を作り上げる仕組み(システム)を含んでいたのです。
     これは戦争のスペシャリストである武士の存在理由を解体し、新しい社会秩序を作り出すだけのポテンシャルを持っていました。

    一介の翻訳者の「理想の翻訳」が、戦争(いくさ)の勝敗ばかりか、戦争の根本的なあり方を変え、やがては国や社会のあり方までも変えていくこの物語は、それ故に、原著者に光があたっても、その黒子としてしか認識されないことも多い翻訳者にとって(ここにも「地上の星」です)、また翻訳者をめざすすべての者にとって必読の書でしょう。

     翻訳軍師はこうつぶやきます。

    “自分は「花咲爺」なのだ。皆は自分でなく、咲かせた花を見ればいい。”



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