2008年 09月 16日
死に目を看取る
現在のデジタル一眼レフは、静止画を撮影するのに高度に進化した精密機械ではありますが、レンズを通して得た像をミラーによって反射させ、すりガラスなどに映すという基本的構造そのものは、レオナルドの時代には既にありました。つまり、人がモノを客観的に観る原初的なカタチを伝えている存在ともいえるわけです。
だから、ファインダーを覗き、フォーカシングスクリーンに結像する像を見ることは、私にとって、昔の画家(フェルメール?)が、暗箱を用いてすりガラスに映る像を見たのを想うことでもあります。
一方で、シャッターを切って露光中、つまり像を得ている僅かな瞬間、今まで結像していた像はおろか、何も見えなくなります。ミラーの作動によるブラックアウトでファインダーが見えなくなる時でもあり、これはよく一眼レフの欠点とされるところです。
しかし、まさしくこのブラックアウトが大切だと私は思っているのです。この一瞬こそが、流れる時の中で、動く事物や事象を静止させているという自身の行為を認識させてくれる現実であり、自身が選んだイメージを「後で見る・後に残す」ためのトレードオフとしての「見えない時間」だからです。
「動画から切り出すワンカット」と「秒間30コマでの静止画撮影」とは、それぞれ正反対側からのアプローチですが、私には同じ結果。そこには残念ながら、私のささやかな儀式などを認めてくれる余裕などありません。
EVFがよくなり、対象の再現性に優れようが、はたまた暗転という一眼レフの宿命を解決してくれようが、私が魅力を感じられないと断言するのは、こんな理由からです。また、より動画と親和性のあるこれら新たなカメラのカタチは、動画による静止画の包含への流れを加速させるでしょう。
以上は、私なりの「情緒」の一端です。即ち、一眼レフとは、イメージを見て、それを静止画として得るためという目的のみに高性能であること、つまり確実に好感触で応えてくれるシンプルなものであって欲しいという私の願いの基本となっています。
しかし、こんな「情緒」など、所詮は一般的でないという理由から、また効率化という点から徐々に斬り捨てられる存在でしかないのだという諦観があります。
現に、もう既にこの世には“餅だけを売る餅屋”はないに等しい状態なのです。
師匠、しばらくお隠れで心配しておりました。
さて、いささかの逡巡の後、しかしアイキャッチの魅力に抗い難く、前回のタイトルを付けたところ、“往生”させてしまった模様。ここにお詫びとお礼を申し上げます。とまれ、幾分かのアイキャッチにはなったようですが・・
私は写真を撮りはじめてたかだか2年程度の人間ですが、yy2828yyさんの仰ることはなんとなく分かります
ミラーとペンタプリズムのあるカメラは伝統的なカメラであるという認識であり、私の好きな機械であります
この一点においてα900を見直してしまいました
一方でμフォーサーズにはデジタルカメラとして期待しています
でもポケットに忍ばせる・・・・とまでは言いませんが小さいヤツが希望です
行為を無用とするものだけであれば、袂を分つ時が近いのかもしれません。
そんな印象すらある今だからこそ、
E-3の存在感を感じている私だったりします(^^;
ちなみに35mmフォーマットに魅力は感じますが、
そこはフィルムでいいかな?と思っています。
ハッセル等の楽しさも、写れば良いというデジタル的な尺度では測れませんよね。
返事が遅れてごめんなさい。
撮るという行為は眼と躯の動きが連動していると思うので、
私にとって持物は大事なんです。
手に馴染む大きさ、形というのはあるもので、小さければいいというわけでもないし・・
この適度は年月が決めるモノだと思いますが、撮影器具としてのカメラはまだ歴史が浅いから・・
こういう段階に生きているのが、幸か不幸かも自分では分りません。
デジタルというのは所詮「なんでもあり」だから、
あなたがOMのレンズをよく使われるように、
自分で何かのケジメを持っていないと、どんどん撮るのがヘタになると思っています。
35mmなんて・・というのが、負け惜しみにならないように、
そもそもそれらとは一線を画する一眼レフを作るはずだったのですよね。
これがブレてしか見えないことに私は苛立ち、怒りを隠せないのです。