35 能代ではりつけの刑 (能代の歴史ばなしより)
35 能代ではりつけの刑
能代奉行武藤七太夫が病没する3年前の延享(えんきょう)3年(1746)といえば、劫火(ごうか)の寛保(かんぽう)大火の日から3年目です。町民の多くが家財道具を失い、貧しい人々が町にあふれていたといいます。
そんな時世にこの事件は起きました。当時馬口労(ばくろう)町に石戸谷有右衛門(いしとやゆうえもん)という人がいて、比内や阿仁から材木を商(あきな)いにくる人を相手に木宿(きやど)といわれた宿屋を営んでいました。
当時、秋田藩では「木本米(きもとまい)」という特有の制度がありました。米代川流域の村々(材木郷98か村)に村役(むらやく)と称して材木を伐り出させ、これに対して給付した米をいうのです。木本米は山掛(やまかけ)といって一定割合(4割が原則)を掛けて減じて給付されることに定められていました。
三輪文書「旧記抜書之ヶ条(きゅうきぬきがきのかじょう)」によると、有右衛門は奉行の公印を盗用した額面152石の木本米を御蔵役(町の会計係)小泉新右衛門のところへ持参、内渡しとして22石を受取ったうえ、残りは越中屋善右衛門と馬口労町の権兵衛という人へ質入れして代金をせしめたというのです。
これが発覚して有右衛門は逮捕され、身柄は久保田へ護送されました。評定所(ひょうじょうしょ)で厳重な吟味をおこなった結果、有右衛門には磔(はりつけ)の刑が言い渡されたのです。2月26日、能代で処刑されたと記録されています。どこで誰が執行したかは書かれていませんが、能代ではおそらく驚天動地(きょうてんどうち)の大事件だったでしょう。
有右衛門がこの手形をどのようにして入手したか、その経緯は判りませんが、あるいは客筋から盗んだのではないかと思われます。とすると現在では窃盗罪、詐欺横領罪などが適用されるでしょうが、まさか死刑ということもないのではないかと思います。当時の判例も知りませんが、いかにも厳しい判決のように思います。また量刑に関して第三者の意思が反映される余地があったかどうかも知りませんが、犯した罪に照らしていかにも苛酷です。あるいは当時行き詰まっていた藩財政による綱紀粛正という背後事情もあったものでしょうか。
佐竹藩の3世義処(よしずみ)治世下の延宝3年(1675)ごろは藩主の参勤交代の出費にも困難をきたし、家臣の知行高から一斉に1割借り上げを申し渡したこともあります。藩の面子(めんつ)も背に腹はかえられなかったようです。
藩の下した量刑について地元奉行が減刑を願い出たという記録も見つかっておりません。それだからといって武藤七太夫は非情の人だと、いちがいに決めつけるわけにもいかないでしょう。やはり当時の社会事情も考え合わせてみなければならないようです。
処刑された有右衛門には一子清四郎がいました。父親の無残な刑死で人の世の無情をはかなみ、仏門に入って浄土宗順澄のもとで得度(とくど)しました。順応を名乗って師のあとを襲(つ)いで住職として宗徒に尊敬され、明和5年(1768)4月病没しました。古い時代の、傷ましい実在のドラマです。
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能代奉行武藤七太夫が病没する3年前の延享(えんきょう)3年(1746)といえば、劫火(ごうか)の寛保(かんぽう)大火の日から3年目です。町民の多くが家財道具を失い、貧しい人々が町にあふれていたといいます。
そんな時世にこの事件は起きました。当時馬口労(ばくろう)町に石戸谷有右衛門(いしとやゆうえもん)という人がいて、比内や阿仁から材木を商(あきな)いにくる人を相手に木宿(きやど)といわれた宿屋を営んでいました。
当時、秋田藩では「木本米(きもとまい)」という特有の制度がありました。米代川流域の村々(材木郷98か村)に村役(むらやく)と称して材木を伐り出させ、これに対して給付した米をいうのです。木本米は山掛(やまかけ)といって一定割合(4割が原則)を掛けて減じて給付されることに定められていました。
三輪文書「旧記抜書之ヶ条(きゅうきぬきがきのかじょう)」によると、有右衛門は奉行の公印を盗用した額面152石の木本米を御蔵役(町の会計係)小泉新右衛門のところへ持参、内渡しとして22石を受取ったうえ、残りは越中屋善右衛門と馬口労町の権兵衛という人へ質入れして代金をせしめたというのです。
これが発覚して有右衛門は逮捕され、身柄は久保田へ護送されました。評定所(ひょうじょうしょ)で厳重な吟味をおこなった結果、有右衛門には磔(はりつけ)の刑が言い渡されたのです。2月26日、能代で処刑されたと記録されています。どこで誰が執行したかは書かれていませんが、能代ではおそらく驚天動地(きょうてんどうち)の大事件だったでしょう。
有右衛門がこの手形をどのようにして入手したか、その経緯は判りませんが、あるいは客筋から盗んだのではないかと思われます。とすると現在では窃盗罪、詐欺横領罪などが適用されるでしょうが、まさか死刑ということもないのではないかと思います。当時の判例も知りませんが、いかにも厳しい判決のように思います。また量刑に関して第三者の意思が反映される余地があったかどうかも知りませんが、犯した罪に照らしていかにも苛酷です。あるいは当時行き詰まっていた藩財政による綱紀粛正という背後事情もあったものでしょうか。
佐竹藩の3世義処(よしずみ)治世下の延宝3年(1675)ごろは藩主の参勤交代の出費にも困難をきたし、家臣の知行高から一斉に1割借り上げを申し渡したこともあります。藩の面子(めんつ)も背に腹はかえられなかったようです。
藩の下した量刑について地元奉行が減刑を願い出たという記録も見つかっておりません。それだからといって武藤七太夫は非情の人だと、いちがいに決めつけるわけにもいかないでしょう。やはり当時の社会事情も考え合わせてみなければならないようです。
処刑された有右衛門には一子清四郎がいました。父親の無残な刑死で人の世の無情をはかなみ、仏門に入って浄土宗順澄のもとで得度(とくど)しました。順応を名乗って師のあとを襲(つ)いで住職として宗徒に尊敬され、明和5年(1768)4月病没しました。古い時代の、傷ましい実在のドラマです。
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