8 明治初期の富町町内 (能代の歴史ばなしより)
8 明治初期の富町町内
能代市富町の山木正成さん宅で明治初期の富町・横町の全域図が見つかりました。作製年代の記載はありませんが、全戸主の氏名に苗字がある点から判断して、平民の苗字公称が許可された明治3年9月以降の作製と見られます。あるいは明治5年2月のいわゆる壬申戸籍(じんしんこせき)の発布以降の作製かもしれません。いずれ明治初期の富町と横町の全域の戸主名と表口(おもてぐち・間口)、奥行きを記した貴重な地図です。
この地図に有名人が多いことが目につきます。その一人が堺良介です。家業は酒造業、屋号が南部屋、慶応4年(1868)5月、沢為量卿(さわためかずきょう)一行が能代へ来たとき、能代の首長として接待役をつとめた人でした。その後新町のガマ北岸に移りました。南部屋の向かいが小林吟右衛門(ぎにもん)、のちの能代港町々長小林徳太郎家です。ここから大町に引っ越したのはいつだったのかはっきりしません。
富町と横町との北西角(かど)、現在の泉タバコ屋さんの位置は、旧藩時代は砲術家熊谷氏の住居でしたが、この地図では甲斐藤左衛門となっています。熊谷家ものちに大町西端の南側に移っています。歌人直安、直秀、筆者の恩師直元、元能代高教頭熊谷忠一各氏の家です。能代春慶の山打三九郎の住所も判明しました。すなわち前記の甲斐藤左衛門の裏の幅5尺5寸(1.6メートル余)の小路を隔てて横町方面へ2軒目が宮越五左衛門持地(もちち)、借地山打三九郎とあります。表ロ(おもてぐち)1丈4尺(4.2メートル余)と記されています。富町本通りの東側には山打三之助がいます。能代市の古い戸籍によると、三之助は三九郎の養子で、同町内の向い側にいる伊勢吉左衛門の出自(しゅつじ)であったと思います。三之助の次の代に中川原に移り、明治末期に峰浜村などへ移ったようです。山打氏が能代春慶の家元的栄光を放棄した事情はわかりません。
富町の横町からの突き当り付近に高橋与八郎がおります。屋印がヤマに油の字を配し、ヤマアブラと通称されていました。間口10丈1尺(30.6メートル余)という大商店でした。なおマルアブラこと高橋彦左衛門商店も間口7丈5尺(22.7メートル余)の店構えで、畠町のカクアブラこと高橋彦司とともに能代の代表的な商店だったようです。
このヤマアブラの南隣りに金谷勇助とあるのも興味があります。現在の柳町の料亭「金勇(かねゆう)」の初代です。この人が八幡神社の南側に建設した演芸館「米代座(よねしろざ)」は回り舞台や花道を備えた劇場でした。その支配人は平沢治助といいましたが、平沢治肋はこの町内図では金谷勇助のすじ向かいでした。
ところで前記ヤマアブラの跡は能代第一の富豪大久保忠左衛門が譲り受けて豪奢(ごうしゃ)な邸宅に改装しました。数年後、それを秋田木材KKが買い取って社員のクラブ偕楽社(かいらくしゃ)として利用しました。更に30数年後には秋田県と能代市の木工指導所に変わり、現在は秋田観光タクシーに変わっています。激しい変化です。
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能代市富町の山木正成さん宅で明治初期の富町・横町の全域図が見つかりました。作製年代の記載はありませんが、全戸主の氏名に苗字がある点から判断して、平民の苗字公称が許可された明治3年9月以降の作製と見られます。あるいは明治5年2月のいわゆる壬申戸籍(じんしんこせき)の発布以降の作製かもしれません。いずれ明治初期の富町と横町の全域の戸主名と表口(おもてぐち・間口)、奥行きを記した貴重な地図です。
この地図に有名人が多いことが目につきます。その一人が堺良介です。家業は酒造業、屋号が南部屋、慶応4年(1868)5月、沢為量卿(さわためかずきょう)一行が能代へ来たとき、能代の首長として接待役をつとめた人でした。その後新町のガマ北岸に移りました。南部屋の向かいが小林吟右衛門(ぎにもん)、のちの能代港町々長小林徳太郎家です。ここから大町に引っ越したのはいつだったのかはっきりしません。
富町と横町との北西角(かど)、現在の泉タバコ屋さんの位置は、旧藩時代は砲術家熊谷氏の住居でしたが、この地図では甲斐藤左衛門となっています。熊谷家ものちに大町西端の南側に移っています。歌人直安、直秀、筆者の恩師直元、元能代高教頭熊谷忠一各氏の家です。能代春慶の山打三九郎の住所も判明しました。すなわち前記の甲斐藤左衛門の裏の幅5尺5寸(1.6メートル余)の小路を隔てて横町方面へ2軒目が宮越五左衛門持地(もちち)、借地山打三九郎とあります。表ロ(おもてぐち)1丈4尺(4.2メートル余)と記されています。富町本通りの東側には山打三之助がいます。能代市の古い戸籍によると、三之助は三九郎の養子で、同町内の向い側にいる伊勢吉左衛門の出自(しゅつじ)であったと思います。三之助の次の代に中川原に移り、明治末期に峰浜村などへ移ったようです。山打氏が能代春慶の家元的栄光を放棄した事情はわかりません。
富町の横町からの突き当り付近に高橋与八郎がおります。屋印がヤマに油の字を配し、ヤマアブラと通称されていました。間口10丈1尺(30.6メートル余)という大商店でした。なおマルアブラこと高橋彦左衛門商店も間口7丈5尺(22.7メートル余)の店構えで、畠町のカクアブラこと高橋彦司とともに能代の代表的な商店だったようです。
このヤマアブラの南隣りに金谷勇助とあるのも興味があります。現在の柳町の料亭「金勇(かねゆう)」の初代です。この人が八幡神社の南側に建設した演芸館「米代座(よねしろざ)」は回り舞台や花道を備えた劇場でした。その支配人は平沢治助といいましたが、平沢治肋はこの町内図では金谷勇助のすじ向かいでした。
ところで前記ヤマアブラの跡は能代第一の富豪大久保忠左衛門が譲り受けて豪奢(ごうしゃ)な邸宅に改装しました。数年後、それを秋田木材KKが買い取って社員のクラブ偕楽社(かいらくしゃ)として利用しました。更に30数年後には秋田県と能代市の木工指導所に変わり、現在は秋田観光タクシーに変わっています。激しい変化です。
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